初めは健全的な関係だった。
 目が合うだけで高鳴る心があり、火照る頬があった。たった一言、二言を交わすだけで浮かれてしまうくらいに、あの頃の自分は謙虚だった。しかし、一つ与えられてしまうと、更にもう一つ、おまけにもう一つ、と欲する事を止められなくなってしまう。彼と並んで歩く、彼の隣で話を聞く、彼の手に触れる、彼の傍にいる、彼に好きでいる事を許される。喜びが訪れた、自分を占める彼の割合が、彼に一つ何かを許される度に増えていく。一般的な幸せは全てここに揃っていた、一般的だと思えるものは全て。

 強欲と言うのは底なし沼のようで、とても恐ろしい事だと知った。欲しい、何もかもが欲しくて堪らない、愛情も暴力も肉欲も。あの人との関係に将来は無い、明るい未来は存在しない。例え、そのような夢を見ても、進むべき道にそんな石ころは都合良く転がっていない。手が届かない、あまりにも遠い、我儘に相手を求めるのがもうどうしようもなく惨めに思えて、なまえは一人夜に逃げた。


 逃げ込んだ夜に出会った男は真島を知る男だった。まさかここでも彼の名を聞くとは、とことんついてないと思った。しかし、それを口にしなくとも、その男には見透かされていたのだろう、優しく諭される事があった。肌を重ねる事は無くとも、寄り添う事は良しとされ、不安定な心を切り崩しながら、男はなまえの話を聞き続けた。長い間、居座っていた強欲が薄れていくような時間だったように思える。

 翌日の朝、男はなまえに別れを告げ、離れる背中を見送った。帰路と呼んでいいのか分からない道を歩いていると、その先には彼の姿があり、理由としては男から連絡を貰い、明日迎えに来てやってくれ、と頼まれたからだそうだ。歪んでしまった、いや、自ら歪めてしまった関係に泣きたくなった。それでも彼は、真島は優しくなまえの手を引き、帰るで、とだけ口にした。


 強欲と執着、どちらが上なのだろうか。 どちらも薄汚い欲であるのは変わりないが、人は稀にその薄汚さを受け入れてしまう時がある。だからこそ、なまえは今も真島の隣に居て、真島は今もなまえを隣に置くのだろう。
 あの後なまえは質素なアパートへと連れて行かれた。真島がよく言う、寝るだけの部屋という場所だ。そこで何かを問い正されるという事はなかった、それが想像以上に優しすぎて辛かった。真島の優しさが牙を剥き、なまえの滅多打ちにされたがっていた心を撫でる。なまえの心は悪い血に膨らみ、今すぐ鋭いもので刺して欲しいのだ。


「真島、さん…。」
「しんどそうな顔しとるのぉ、」
「私は、真島さんの事が好きです。でも、私は…、」
「思い詰めとるんか。俺は何にも気にしてへんで。」
「どうして、です?」
「どうして、ってそないなモン知るか。好いとるからやろ。」
「……ごめんなさい。私、本当は真島さんに、」


 嫉妬して欲しくて。なまえは綺麗事の渦に隠していた本心を吐き出す。小賢しい考えも狡い思惑も混じらない、綺麗なままで。自分だけ強欲に呑まれてしまうのが耐えられず、誰かを道連れにしたかった。逃げ出した夜よりも酷く惨めな告白である。その告白に真島は深い溜息を吐いた、初めて面倒だと読み取らせる感情を露わにした溜息だった。

「……嫉妬、ちゅうもんは碌でもないで。お互いに嫌なことになるだけや。出来れば避けて通るのが安牌なんやがなァ、」

 苦々しく、告げられる。なまえは真島もそう言った物言いをするのだと安心していた。それが聞きたかった、なんて我儘が過ぎる。優しい愛撫より強く首を締めてもらいたい、と考えるなんて。

「で、なまえはどうしたいんや。もうまどろっこしい話はええ、時間の無駄や。」

 わたしは、真島さんのものになりたい、そして、真島さんが欲しい。と口にした。胸を切り裂いて心臓を取り出し、真島に預けるような感覚だった。これで得られるものがあるとすれば、それは自己満足で出来た肯定感だけだろう。


 そうか、と相槌を打った真島の瞳に戦慄する。見たことのない目をしていた、今まで寡黙に結ばれていた唇は愉しそうに歪んでいく。白い歯と赤い舌を覗かせ、真島はなまえの怯える顔を見ながら笑っていた。

「そないに俺が好き言うんなら、ええやろ。俺が教えたるわ、繋がれる辛さっちゅうのを。身をもって味わったらええ、俺が責任持って囲ったるわ。」

 恐ろしさに喉が潰れていた。冗談であるかどうか、確かめる言葉が出てこない。

「よかったやないか、これでなまえは俺のモンやって一目瞭然や。それになまえの我慢してた我儘もこれから阿呆ほど言えるんや、ホンマによかったなァ?」

 もう既に強欲は満たされた、それなのに後へ引き返す事が許されない。膨らんでいた筈の心はいつの間にか、自身が垂れ流した血溜まりに横たわっていた。

「これが最初で最後の嫉妬や。よう覚えとき。」

 この一言がなまえを普通の世界と切り離す最後の前置きだった。



***



「なまえ、はよ行くで。」
「はい、」

 二人は今、夜闇の神室町へ向かうべく、組の若衆が回してきた車に乗り込む。乗車を確認し、組の男は車を走らせた。真っ黒に塗り潰された窓の外を不規則に点描されたネオン、街灯、照明が群れになって流れていく。
 車内は静か、真島組の若衆はただ前を見てハンドルを握り、なまえは車に乗り込んでからずっと窓の外を眺め、真島は思い出したかのように懐を漁り出す。漁る手が止まらない、真島は溜息と共に深くシートに背中を預けた。その様子をルームミラーで見ていた若衆が真島に、煙草買ってきましょうか?と声を掛ける。
 おう、頼むわ、と返した真島はなまえと同じようにぼんやりと窓の外を見ていた。なまえはそんな真島を見て、口に広がる苦味を思い出している。もくもくと煙る、独特の匂いを残して辺りを漂い、薄れて消えていく、煙の苦味が。肺を黒く塗り潰される、飼い慣らされた犬のような、敷かれたレールの上だけを歩かされるような、目隠しで生きろと命じられたような。


 新しい煙草はすぐにやって来た。彼の誠意だ、親である真島の為の誠意だ。下がった窓の隙間からそれを受け取ると、当然と言うように煙草を一本咥える。そうすれば、すぐに次の誠意がやって来る。若衆は自身の懐からライターを取り出すと、手を添えて真島の咥え煙草の先端に火を灯す。
 真島はそれ以上は求めない、そして彼も次に見せる誠意は待機であると悟った。閉め切られた窓の外と内、彼は充分にやってのけた。次に誠意を見せるのは自分の番である、口に広がる苦味がより深みを増す。


「気が利く子で助かったわ。この歳になっても煙草はやめられへん。何でやろなァ?なまえ。」
「口寂しさが消えないんだと思います。」
「口寂しさ、か……。そうかもしれんなァ!やっぱり、なまえちゃんはよう分かっとるわ!」

 席にふんぞり返る真島はなまえを捉えている。その間にも煙草はジリジリとその身を焦がし続けている、時間が無い。なまえは背もたれに預けていた体を起こし、真島の方へと上体を寄せて行く。真島は自身に覆い被さる体に、咥えていた煙草を片手に預け、煙を口内に閉じ込めたまま、がら空きの手でなまえの後頭部を引き寄せた。
 苦味の閉じ込められた唇がなまえの無味な唇に噛み付く。一方的に送り込まれる、その煙がなまえの体内へ、さも当然と言うように流れる。びくん、と跳ね上がる体があった、体が咳き込みたくて仕方ないのだ。まだ、慣れない。真島に繋がれてから、何不自由のない、まるで何も変わらなかったような日々の中で、徐々に侵食は始まった。


 煙の口移し、性交の度に下腹部に浮かび上がる赤い歯型、体に刺青は無い。中には自分の女であると主張、もしくは重い枷を嵌めるように刺青を入れさせる強欲な男も居るらしいが、真島はそうではなかった。目に見えるような束縛はない、見世物のような束縛はない。体内を循環した煙に苦しくなる、真島はまだ噛み付いたままだ。口の端から漏れる煙、こんな事を好き好んでしているのは多分、この車内の二人だけだろうと苦笑している自分がいた。
 後頭部に置かれた手が離れると、なまえは真島から顔を背け、車内の暗闇に煙を吐いた。大きく咳き込みながら、体に入った毒を懸命に吐き出している。小さな背中が咳に揺れていた、真島はその背中に手を添えると何度も擦り、なまえの咳が止まるまでその手を止めない。苦しみに優しさを宛てがわれ、なまえは不覚にも満たされていた。


「我ながら悪趣味や、思うで。」

 でも、それ以上に嬉しそうな顔しとるなまえの方がもっと悪趣味やなァ、と目尻の濡れたなまえの顔を自分の方へと振り向かせる。激しい咳に目尻が濡れ、苦しそうな呼吸をしているのにも関わらず、なまえの表情はどこか恍惚としており、真島はその表情にゾクゾクと体を震わせた。

「そないに繋がれるんがええんか、」

 俺の時は苦痛でしかなかったわ、せやけど、それがええってんなら。真島の次にとった行動がなまえの荒い呼吸と乱暴な鼓動を更に加速させる。二度目の口づけ、半ば強引に引き寄せられた体を預けて、まだ苦味の残る口内に今度は舌が入り込んできた。
 吸いつかれる、舐められる、確かめられる、入ってくる。悪戯に弄ぶ行動をとる真島になまえは微かに声を漏らした。先程の煙草の余韻が抜けないせいで、まだ息苦しいと訴えるような声だった。しかし、真島の貪る舌は何度もぬるりと口内を這いずり回って、なまえの意識を掻き乱す。

 息苦しさと触れた唇の生暖かさ、煙草の匂いに紛れる真島の匂いに頭も、意識もくらくらとしていた。酷い目眩のようだとぼんやりと滲む視界にあったのは、真島の懸命に求める顔だった。片目はしっかりと閉ざされ、なまえの見つめる瞳に気付かない。その顔に唆られるものがあって、なまえは発熱し始める体で真島の貪欲な舌を受け入れた。気が済むまで続けられた行為の後には沈黙が漂い、真島はここでやっと外で待つ彼に声をかける。


「もうええで、車出せや。」

 はい、と健気な返事を車内で聞きながら、なまえはまだぼんやりとした世界に入り浸っていた。徐々に飼い慣らされていく体の変わり様を、まるで性感帯のようなものを拡張された気分で、車内の暗闇に溶け込む。
 何度も言うが、この体に表面的な束縛は無い。体の、心のより奥深くまで踏み込み、徐々に慣らし、自分の存在を少しでも多く入り込ませる。それこそが本当に繋がれるということなのだろうと、今日も拡張された体と心を抱えながら、走り出す車に揺られてその場を去った。
 後遺症は続く。なまえが真島を、真島がなまえを愛おしく思っている限り。



| 後遺症 |


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