「探偵さん」
日記の最後のページを読み終えるのと同時に、真後ろから『彼女』の声が聞こえて来た。恐る恐る振り返ると、『彼女』は白いワンピースを風に遊ばせ、パンプスが脱げた裸足のままで地面に立っていた。顔を遮るベールだけは風に揺れていない。
「見つかりましたか、ここで何か」
返事をしたいのに体が不自然に硬直して動けず、声もまともに出せない状態だった。動揺に冷や汗が吹き出すが、その間にも目の前の『彼女』はこちらへと近寄って来る。ぺた、ぺたと裸足なのも気に留めず、平気で土や枯れ葉を踏み締めてこちらへとやって来る。
「どこを探しても見つからないんです、……確かに、」
──── たしかについていたはずなのに。
あのベールの奥で、影が不穏にぐにゃぐにゃと歪んでいる。すると、骨が折れ曲がる音と肉がミチ、ミチ、と捻じ曲がっていく音が聞こえた。耳を塞ぎたい衝動に、目を逸らしたい衝動が許されない状況で、彼女は意にも介せず距離を詰めている。薄く浅い呼吸に、嫌な冷や汗が体中の毛穴から吹き出る感覚がした。逃げ出してしまえたら、どんなに良いだろう。何故、それは叶わない?
「ねえ、探偵さん」
なくした首を……、と言いかけた途中で彼女は不自然に黙り込んだ。嫌な音達も途端に聞こえなくなり、僅かに正気を取り戻す。視界のど真ん中に佇む彼女は、ゆっくりと手をこちらに伸ばしてきた。逃げられない、鼓動が高鳴ってうるさい。危害を加えようとしているのだろうか。それとも、見つからなかった首の代わりを手に入れようとしているのか。するり、と伸びた手が触れたのは首筋ではなく、上着の内側だった。慎重に、かつ的確に懐を漁ると、一枚の紙切れが彼女の手に握られ、取り出された。それはあの屋敷に住んでいた家族の写真だった。
彼女は手にした写真をまじまじと見つめると、俯いたまま動かなくなってしまった。そして、今度は見つけたばかりの日記帳を回収しては、ページを捲ることなく、話し始めた。息苦しいほどの圧迫感に支配されていた場の空気が一変する。もしかしたら、彼女は首の在処に気付いたのかもしれない。
「わたしはずっと不思議で仕方なかった。どうして、みんな表面的な部分しか見てくれないのか」
「私たちは人間として生まれてきた。それなのに、心よりも見てくればかりを気にして」
「心がなければ、誰にも人格なんか存在しないのに」
弱々しく吹き付ける風が鳴いていた。木々のざわめきも今だけは切なそうに聴こえるのは、目の前にいる彼女が、亡くなった起業家の娘だと告げているからなのだろう。彼女こそが、ここに根付く大木で首を括った張本人なのだ。しかし、依然として何故首がなくなってしまったのかという答えには至らない。それに彼女が自分自身を『妹』と呼んでいた理由も不明なままだ。
「探偵さん。わたしね、楽になってから昔のことが思い出せなくなったの」
必死に絞り出した声で、彼女の、事件の秘密を解き明かす為に問い掛ける。
「君は、本当にここで首を……?」
「分からなかった、この写真を見るまでは。辛くて苦しくてどうしようもなくて、逃げ出したら朝になってて」
彼女はあのベールの裏側で過去を覗き見ている。当時感じたことや見ていたこと、その全てを忠実に再現した映像をぼんやりと眺めている。
「朝、いつものように鏡の前に立ったら、自分の首から上が綺麗さっぱりなくなっていることに気付いたの」
彼女の言葉から、命を絶った彼女が自身の死を自覚出来ずに今まで過ごしていた存在なのだと知った。首から上がなくなったことで、彼女は生前の自分がはっきりと思い出せなくなり、更には自分を全くの別人だと思い込んでしまった。そして、長い年月が過ぎたことで『自分の首を探す』という当初の目的を忘れ、『誰かの首を探す』という目的に変わってしまったのだろう。朧気に覚えている生前の自分を『妹』だと錯覚して。
「心のままに生きられないなら、それは死んだも同然だって、……それで、」
その言葉に、部屋にあった日記帳の持ち主が彼女であることが証明された瞬間だった。
「……でも、ようやく見つかった」
「え?」
「例え、本物の首が見つからなくても、この写真にはちゃんと残ってた」
──── 大好きだった両親によく似た、……の笑顔が。
彼女の声が穏やかに響く。これでやっと終われるのだろう。自ら命を絶った者は極楽浄土には行けず、地獄へ行く。それでも、彼女のことを思うとやるせない気持ちになった。今の今まで彼女はその瞬間を永遠に繰り返していたのかもしれない。輪廻から解き放たれず、延々と同じ道を辿っては落ち、辿っては落ち、を繰り返して。
「ねえ、その、僕も上手く言えないんだけどさ」
なんか、今回の調査は楽しかったよ。
この場の雰囲気とは全く似合わない言葉を選んだのは、今更彼女に投げ掛ける言葉の中で悟りだとか、慰めだとかは何の意味もないと思えた。寂しさをどうにかしたい訳じゃない、悲しさをどうにかしたい訳じゃない。紆余曲折あったけれども、結局はこれに尽きる。
「それに、なまえさんに会えて良かった」
「……私に?」
「懐かしい気持ちになったんだ。まるで、絵美が生きてた頃のような」
「探偵さんの、お姉さんでしたよね」
「そう。どうしてそんな風に感じたのかは分かんないけど、」
「私、探偵さんのお姉さんに会えるかしら」
「会えたら、元気でやってるって伝えてくれない?」
「ええ、きっと」
一陣の風が湿った静寂諸共、連れ去って行った。すると、その風の強さに彼女の帽子も吹き飛ばされていった。遺体発見当時、時間が経っていたことから遺体は腐敗し、頭部と胴体が千切れた状態になっていた。生前の姿など跡形もなく腐敗してしまった彼女の素顔が美しかったことは、今となっては知りようがない。
しかし、不意に見てしまった。帽子の下、ベールの奥に隠されていた彼女のあるはずの無い素顔を。肩まで伸びた髪が柔らかく揺れ、あの写真に写っていただろう『彼女』は目の前に佇んでいる。今まで蔑ろにされた心情を明かした彼女は、自分が出会って来た中で一番笑顔の美しい女性だった。
「ありがとう、探偵さん」
徐々に彼女を描く輪郭が薄れていく。やはり、その素顔は自分が亡くした姉にどことなく似ていた。別れを惜しむことなく、薄れていく最後の最後まで大木の傍を離れなかった。自分を縛り付けていた金縛りも解け、自由になっても尚離れられなかったのだ。静かな余韻に包まれてようやくその場を後にした。もうここには何も無い。陰鬱なしがらみも、重すぎた苦痛も、見つからなかった頭部も、彼女の砕いた心も全て綺麗に片付けられたのだ。
この日、初めて美しい人を看取った。それは安寧を約束された美しい別れだった。だからこそ、生前の彼女が選んだ結末を誰よりも悔やんでいる。今度こそ、彼女は無事に逝けたのだ。横浜九十九課を立ち上げて初めての依頼だった。生きていると不思議なことに出会すことがある、と聞いたことがあるが、本当にそうだった。そう思えるような、体験だった。
***
「まさか、そんな結末になろうとは。お疲れ様でした、杉浦氏」
「うん、九十九くんもお疲れ様」
事務所に戻り、事件の結末を九十九に話していると、九十九が突然何かを思い出したかのように、ノートパソコンの画面にとあるウェブサイトを表示させる。
「そうだ、実は僕の方でも一つ発見があったのですよ」
画面に表示されたのは、黒を基調としたデザインの、掲示板サイトだった。九十九は一般人が見落としがちな、細かな情報を見つけ出す能力に長けている人物だ。それは自分には持ち合わせていない能力で、毎回感心させられる。マウスカーソルがひとつのリンクを指す。そのスレッドには、『起業家の娘が自〇した事件のやつ』と彼女と関連するような題名が付けられていた。
「なにこれ、」
「僕もこれを見つけたのは偶然でした。あまり有名ではない掲示板サイトでして、過去のプレビュー数を見てもあんまりなのですが、」
躊躇いなくリンク先に飛ぶ。すると、次の瞬間に表示された画面に言葉を失った。何故なら、そこには彼女に関する情報が掲載されていたからだ。氏名、年齢、在籍している学校名などの個人情報をまるっきり無視した、疑わしい情報が。しかし、その中で一番目が離せなかったのは、彼女の学生証の写真だ。おそらく、どこかから流出したのだろう。カメラ目線でこちらを見つめる彼女の顔は、
「……あの時、見た顔じゃない」
全くの別人だった。髪色から髪型、目鼻立ちや頬の肉付き、そして何よりも笑った時の顔の違和感。何もかもが『彼女』と合致しない。密やかに背筋が凍っていく。指先も悴んでしまい、カタカタと震えている。美しいと思った全てが、画面の中の彼女と違う。受け入れた形の『彼女』と全く違うのだ。ならば、一緒に行動していた『彼女』は一体誰なのだろうか。寧ろ、体だけとなり、頭を探していたアレは本当に『彼女』だったのだろうか。あの時の自分がとんでもない過ちを犯してしまったようで、心臓が重く、鈍く、脈打つ。
──── もし、もし仮に、『彼女』が別人であると言うのなら、本当の『彼女』は何処へ行ったのだろう。
焦燥感に駆られる中、不意にジャケットのポケットに違和感を覚え、手を入れてみると紙切れのような、薄い何かに手が触れた。恐る恐るそれを取り出してみると、屋敷で見つけた家族写真だった。古ぼけた紙の質感、後ろの余白に描かれた文字。あの瞬間には出来なかったことを、今ここでやって見せる。たった一枚の家族写真に写っていたのは、両親と二人の子どもと思われる人物だ。だが、何故『思われる』と表現したのか。それは、その写真に写る三人の顔は真っ黒に塗り潰されており、判別が付かなかったからだ。
「……杉浦氏、もしかしたら僕達は」
良からぬものの頼みを聞いてしまったのやもしれません。
九十九の言葉に咄嗟に顔を上げると、目の前に置かれたノートパソコンの画面の『彼女』が不気味な笑みを浮かべていた。つい先程まで本人だった『彼女』の顔を黒く塗り潰して。それから、間もなくして掲示板サイトは閉鎖され、『彼女』に関する手がかりは永遠に失われてしまった。『彼女』に成り代わった女は一体誰だったのか。もうこれ以上を知る術は無い。
ちなみに余談ではあるが、あの屋敷は現在解体中で、裏庭共々更地になるそうだ。しかし、その最中に三人分の白骨死体が発見され、解体工事は再開の目処が立っていない。
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