彼女曰く、目が覚めた時、目元はぐちゃぐちゃに濡れていた。咄嗟に体を起こし、胸に手を当てる。酷いくらいに乱れた鼓動に呼吸も短くなっていく。とても、恐ろしい夢を見た。大切な人が不意に居なくなってしまう夢を。膝を抱えて蹲る、自分の膝を抱える手は恐怖に震えていた。本当に怖い夢だったのだ。夢が現実ではないか確かめようとして、彼の眠るソファーを見た。
 すると、そこには人の姿はなく、背筋が凍えた。辺りを見回しても、彼の姿はない。涙が溢れてくる。何処にいるのかとベッドから抜け出た時、あんなにも探していた彼が部屋に戻ってきた。こちらの取り乱し様に驚いているのか、すぐさま駆け寄り何かあったのかと心配してくれた。安堵と必要以上に膨れ上がった心配に耐え切れず、その胸に飛び込む。必死に彼の背中へ手を伸ばし、何処にも行ってしまわないように縋り付いていた。

「少し落ち着いた方がいいな、水でも取ってこよう」
「だめです、いかないでください、ひとりにしないでください」
「どうした、きみらしくない取り乱し方だ」
「……夢を、みたんです」
「夢、か?」
「……さんが、桑名さんがいなくなる夢です」

 悪夢の姿形をなぞる言葉は、より残酷なものだった。どうして、あのような恐ろしいものを見せるのか。桑名に縋り付く手はより力を増していくばかりで、心も絶望に凍り付いている。冷たい、どこもかしこも。部屋のあちこちやこの体の至るところ、そして、この現実も。
 桑名はまず、震えるなまえをソファーに座らせ、その肩を摩っていた。震えが収まるまで、桑名は傍に居てやり、なまえの恐ろしさを肩代わりしようとしている。必要ならば、その手を握ってやり、涙が頬を濡らして止まないのなら何度も拭ってやり、恐ろしさに悴んでいるのなら何度も背や肩、腕を摩ってやる。

「……ごめんなさい、」
「いや、謝るような事じゃない。だから、ゆっくりでもいい、落ち着くんだ」
「ほんとうに、こわかったんです」

 そうか。とも、そうだな。とも返してやれないのは、桑名にその根拠が無いからだ。返す言葉が無くとも、してやれることはある。桑名は黙って涙を拭ってやる。なまえは桑名の指が涙を拭った後に瞬きするのを躊躇っているようだった。また一つ涙が溢れてしまうからと。こんな時、力強い言葉を紡いでやれたならどんなに良いだろう。悪夢に魘された女の不安を消し去ってやれるのに、男にはその言葉を選ぶ権利がないのだ。誰かを蔑ろにしてしまったツケが、今になって大切な相手に回ってきてしまったようだった。悔やみ切れない過去は数多くある。

「ちゃんとここに居るじゃないか」
「……いつまで、いつまでこうしていられますか」

 硝子の破片が無防備で柔らかいだけの胸に突き刺さる。血が溢れる、本当に痛い部分に突き刺さってしまったようだった。なまえの求めるものは、桑名にとって約束出来ないものだからだ。残酷さが顔を覗かせる。無知や無邪気は時に人を深く切り付けてしまう。しかし、その相手も真っ暗闇の中を手探りで彷徨い歩き、くたびれてしまったのだ。終わりなき道の先に居てくれるだろうか。長い夜が明けた暁の間に居てくれるのだろうか。もう二度とこの刹那に巡り会えないのではないかと恐れている。

「ほんとうのことを、言ってください」

 酷く震えた声だ。泣いていたこともあり、なまえは薄暗がりの中で、確かなものを見つけたくて仕方ないのだろう。胸中、静寂ばかりが響いている。彼女の前では目を背けていた傷口に触れれば、濁流のように流れ込んで来た。嗚咽を漏らす、吐き気と眩暈に似た不愉快極まりない後遺症が心臓を強く掴んでいる。このまま、握り潰されてしまえば、楽になれるだろうか。出来ることなら、彼女の震える手の上で息絶えたいと願う。しかし、彼女はそれを望みはしないだろう。なまえが望むのは、たった一人しかいない男の顛末についてなのだから。共に息絶えることを良しとしない。共に諦めることを良しとしない。共に居られないのなら、その理由を知りたい。

「言えない。だが、君が感じているものも間違いじゃない」

 出来ない約束ならしない方がいい。出来ることと出来ないこと、出来そうにもないことには決定的に違いがある。それを一時の感情で強行してしまうのは、賢いとは言えないのだ。正直に話すことが美徳とされる世の中だが、その誰かが固定付けした美徳が桑名の心臓目掛けて刃を突き立てている。

「……そうですか、」
「すまない、君にまで迷惑をかける訳には」
「桑名さんがそう言うのなら、きっとそうなんですね」
「……いいのか、君だったら無理に聞き出すことも出来るだろう」
「無理に聞き出したところで、桑名さんは」

 出来ることと出来ないこと。両極端に判断されがちだが、実際は出来そうにないこと以外に出来るとは思わないことも存在する。形のないものを縛り付けようとしても、意味がないのと同じだった。自分は、桑名仁は『亡霊』だからだ。誰かの為に、誰かの傍に留まるなんて都合は許されない。一生をかけても晴らせぬ恨みを抱えて、抱え込んで行かなくてはならない。そこに誰かを付き合わせる権利も、道理も、義理も、約束もない。

「ただ、黙って行かないでください」

 わたしは、それだけで充分ですから。と自分自身に言い聞かせるようになまえは呟いた。傷なんてものは誰かに塞いでもらえるなら、それに越したことはない。だが、それが叶わないのなら、己で塞ぐ他にない。彼女は知らず知らずの内に自らの傷を無理矢理に縫い付けているようだった。本当ならば、その傷を塞ぐ絆創膏を持っていたかもしれない自分を差し置いて。いつだって、『    』は手にしていた絆創膏を貼り損ねるばかりか、いつしか手にしていたはずの絆創膏さえ失くしてしまった。

「約束は出来ないが、……努力はするさ」

 道は、分かたれている。すぐそこにいる相手でさえ、自分とは全く違う道の上にいるのだと思い知らされる。自分に出来ることは、こちら側に踏み入れてしまわぬよう、一線を引き続けること。そして、いつでも手が切れるようにしておくことだ。だが、それは自分の為にではない。彼女の為に、だ。そうでなければ、やり切れない。そう、彼女の為に。
 真っ暗闇の中を手を繋いで、一緒に歩いて行ける相手はそう多くない。彼女にとって自分がその一人なら、薄暗がりに紛れてその手を離さなければならない。そこまで考えた後にふと寂しさに襲われた。手を切れるようにしておく、口で言うのは簡単だが、いざその時を迎えて自分は素直にそうすることが出来るのだろうか。人知れず、指先が悴む。震えを誤魔化すように手を強く握り締めると、重ねられた手の温かな感触に救われる。

「……もし、勝手に行っても恨んだりはしませんから、」

 ごめんなさい、まだちゃんと大人になれなくて。弱々しく響く声に、そんなことはない。と強く抱き締めていた。なまえは驚きはしたが、自分を拒絶せずに同じように抱き締め返してくれた。

「いや、君は俺より大人だよ。充分過ぎるほどにな」

 どうして、人は海辺を離れられないのだろう。生まれ育った親元を離れても、愛おしい故郷を離れても、何故、胸の奥に広がる海辺から離れてしまえないのだろう。捨ててしまえば楽になれるものばかりが漂着する海辺に、いつまで経っても捨てられない物と一緒に佇んでいる。
 しかし、かつて大切にしていた物はどれも土足で踏み躙られ、その亡骸を指折り数えて弔い続けている。いつまで続くのか、あとどれだけ看取れば終わるのか。大切な物はどうすれば守れるのか。答えのない問いを延々と繰り返してばかりいる。

 出来ることなら、彼女が立派な大人になってみせる姿を見守っていたかった。いつの間にか自分は彼女に傾倒していたのだ。闇の住人がいつだって光の住人に対して、恨めしい感情を持っている訳ではない。陰だからこそ、日向の人間が道を間違えぬように教え、導く責任がある。自分は大人だ、いつの間にか責任を負わされた格好良くない大人だ。けれど、そんな自分だからこそしてやれることがある。教えてやれることがある。
 暗闇の中を手を繋いで歩いていくのが大切ではない、暗闇の中でも相手の手を引いていけるのが大切なのだ。なれることなら、自分がその相手でいたかった。けれど、許されない。誰にも。何にも。やはり自分はなまえの見た夢のように、悪夢に攫われてしまうに違いない。彼女を一人きりにしてしまう恐怖に怯えながら、抱え込みながら、今日を、明日を生きていく他にない。



| そして、これからも |


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