手を汚してまで成し遂げたいと強く願った目的はあるか。綺麗事や理想論を並べ立てただけの薄っぺらい言葉に何度も胸を切り裂かれながら、生きたことはあるか。大切な人が日に日に自分を忘れていく恐怖に晒されたことはあるか。二度と戻らぬ日々を弔うばかりの、この心情を理解出来る人間はいるか。


「私、黒岩先輩のような刑事になりたいんです」

 耳を疑うような言葉を口にしたのは、自分の部下であるみょうじなまえという女だった。刑事としては日が浅い彼女の教育を押し付けられ、部下という立ち位置に収まっているが正直気乗りしないのが本音だ。しかし、そんな自分とは対極的にやる気に満ち溢れた表情をしているのが彼女だった。嘘、偽りの見えない言動に、慣れない違和感を覚えながら、やめとけ。とだけ返した。青臭く恥ずかしい感情を向けてくるのは、全くもって黒岩満という男を何一つ知らない部外者ばかりだ。
 そう、いつも自分を良く見るのは、部外者ばかりだ。なまえもまたその一人で、黒岩の下に配属されてからは何かと着いて回ってきた。時々、無茶しそうになるのを宥めつつ、時には厳しく叱責することもあった。しかし、彼女はその度に少しずつ逞しくなっていった。人を育てることの難しさや煩わしさの中に、初めて達成感に似た何かを覚える。現代において、叩けば叩くほど強くなる鉄のような人間は多くない。勿論、刑事という職に就いたからには一般人に比べて苦労や苦痛が多く、責任を求められる立場であることも承知の上だろう。

 日々、成長していく姿を目の当たりにし、遂に自分にも効く毒があったのだと知る。心の底より神室町の一般市民の為にという思想の強い彼女が眩しく見えた。目が潰れそうなほどに清く、正しくを貫く姿勢には感心すら覚えたくらいに、彼女は正しく刑事であろうとした。だが、何故この世の中は正しくあろうとする者や弱り果てた者に鞭を打とうとするのだろうか。弱きを助け、強きをくじく。真逆である、正反対である、天邪鬼のような世の中に嫌気が差す。
 昨年、みょうじなまえは刑事職を退いた。病気の悪化により、職務を全うすることが困難になったと。上層部より退職届が受領された旨を聞き、その日に見た窓の外の長閑な景色を一生忘れることはないだろう。握り締めた拳の、爪が食い込んだ痛みすら感じないほど、自身を満たす怒りが殺意へと変貌する瞬間を。やめとけ、とだけ答えた自分が伝えたかったのは額面通りだった。しかし、こうなってしまうと知っていたなら、やめとけなどと無責任な言葉だけを選びはしなかっただろう。


***


 みょうじなまえは退職後、東京を離れ、地元へと帰郷していた。一人では生活すらままならない現状に、両親がそう促したのだそうだ。彼女は自分と共にとある事件に関わっていた。ヤクザ絡みの、ろくでもない事件だった。しかし、そんなものは掃いて捨てるほど扱ってきた。だから、今回もその内の一つになるはずだった。彼女が犯人と思われる男に怪我を負わされるまでは。殴打による頭部への外傷。彼女による追跡から逃れようと相手が手にしたのは、路地裏に転がっていた空き瓶だった。刑事という立場も相まって彼女は負傷させられた。それが職務だ、それが日常の世界だ。誰もが分かっていた。いつ自身の命が脅かされるかなど、誰も口にしないだけで皆分かっていたのだ。

「こんにちは」

 鈴の音が鳴る。活力ある緑に囲まれた風景で、彼女はそう答える。そして、次に続けられるのは、

「えっと、はじめまして」

 足元には何度も千切れた縁の残骸。黒岩は何度もこの千切れた縁の残骸を踏み締めて、なまえに会いに行く。まるで霞の人のような彼女の指に縁を括り付ける為に。自分との繋がりが切れないように、と執着にも似た思いに突き動かされて、その指を括っている。姿形はあの時のままであるのに、確かに消え行く日々があるのだ。

「みょうじさん、ですね?」
「え、ええ、多分」
「私は東京から来た、黒岩と言います」
「……黒岩、さん」

 初めて聞いた言葉を、音を、なぞるように口ずさむ様子にどうしようもない痛みを、やり場のない怒りを孕んでいく。こびり付いて離れない痛みが深ければ深いほど、行き場を無くした怒りが強ければ強いほど、あの日をいつまでも殺し続けている。彼女の目が自分の輪郭に拙く触れる。強ばる表情は初対面の時のそれと同じだった。あといくつ自分を殺せば、彼女の記憶に自分は残り続けるのだろう。
 彼女、みょうじなまえは当時追っていた事件の捜査中に頭部へ重大な損傷を受けた。命に別状はなかったが、その代わりに彼女が積み重ねた日々が徐々に薄れていく運命を背負うことになった。喪失の始まり、まずは身近な予定や生活習慣から。次に思考の一端、近しい相手の名前や顔を。そして、今では殆どの記憶を失ってしまっている。若年性アルツハイマーと診断された彼女は、何もかもを奪われてしまった。音もなく忍び寄る忘却に、全てを取られてしまった。あの日さえなければ。あの日さえなければ、彼女は夢を叶えていたに違いない。

「少しお話でもしませんか」
「ああ、あの、……あの人に聞いてみます、」
「それじゃあ、ここで待ってますから」

 彼女が恐る恐る指差したのは、彼女の母親だった。殆どの記憶が無いなまえは実の親の名前も顔も忘れてしまった。ただ、実家で上手くやれているのは、彼女自身が書き留めた日記のお陰だと母親が話してくれたのを思い出す。

「……えっと、だ、大丈夫ですって」

 窓越しに目線がぶつかる。母親は申し訳なさそうに目を伏せ、会釈をした。自分も遅れて会釈を返し、彼女を連れて縁側に腰掛けた。ここに来るのはこれが初めてではない。なまえが退職してからは休みの度にここへ訪れていた。見舞いと謝罪を兼ねて、顔を出していたのだ。彼女の両親はどちらもあなたのせいではない、と優しい言葉を掛けてくれる。酷く無力さを思い知らされる。まるで呪詛だった。しかし、その呪詛は全て自分が引き受けなければならない。そうでもしなければ、彼女への贖罪にならない。
 当時、みょうじなまえに暴行を働いた男は既に亡くなっている。留置所を脱走した後に数日間行方不明だったが、神室町の路地裏に男の遺体が遺棄されているのを発見された。両目をくり抜かれた状態で。酷い死に様だった。同じ人間とは思えないくらいに酷い姿で。だが、それでも孕んだ怒りは消えて無くならない。いつまで経っても身を焼き尽くす業火から逃れられず、今は彼女を元に戻すための供物を探し回っている。屍を積み上げなければ、彼女は未来を得られない。

「みょうじさん、お体の調子はいかがですか」
「……誰ですか、そのひと」
「みょうじさんはあなたですよ、あなた」
「私、なんですね、みょうじさんって人は」
「ええ、そうです。みょうじなまえさん」
「わからなかった、から、嬉しいです」

 控えめに笑う横顔は何度見ても綺麗なままだった。彼女の居なくなった世界はがらりと姿を変えてしまった。呆気なく、容易く、気にも留めずに。未だに彼女への未練に縛られているのは自分だけだ。黒岩満という男、ただ一人だけだ。愚かにも黒岩満に憧れ、全てを攫われてしまった女を見殺しに出来なかった。他者の命を軽んじてきた人間が、今更たった一人の命を重んじるなど。


「黒岩さん、また会えますか」

 上手く言葉が出て来ない彼女との会話は長く、そして、外の世界ではあまりにも早く時が流れてしまう。去り際、彼女はいつも次を約束する。明日と持たない約束を取り付けようとする。これから闇に帰ろうとする自分の、残された良心だった。

「ええ、また会いに来ます」

 安堵の表情を浮かべるなまえに、かつての面影が重なる。確か、自分に褒められた時によくそんな顔をしていた。後ろ髪を引かれる思いで、彼女の家を後にする。次はいつ来れるだろうか。今日もまた何も持っていくことが出来なかった。良い知らせを持ち帰ってやらねば。今、世間は『夢の新薬』に希望を抱いている。その希望を無駄にすることだけはどうしても出来ない。ならば、夢が現実になるまでこの両手を汚し続けるだけだ。ふと、立ち止まり、振り返る。夕暮れの空の彼方に佇む彼女はいつまでも自分に手を振り続けていた。


 みょうじなまえは黒岩満の後輩だった。愚直に正しくあろうとした彼女は、頭部の外傷が原因で若年性アルツハイマーを患っていた。深刻化していく症状に彼女が保持する記憶は全て抹消され、黒岩満という男の存在も二度と思い出すことはない。それでも、黒岩満が被検体を攫ってくるのは、もう一度だけ彼女の記憶の住人でいたかったからだ。だが、今日を生きられぬ者が明日を生きてゆけるはずも無く、二〇一八年以降、黒岩の死亡が確認されてから、なまえは二度とその名を口にすることはなかった。

 そして、夢の新薬であった『アドデック9』も人間には投与出来ない薬であると公表され、一連の開発は打ち切られることとなった。



| なぜ、許されなかった |


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