「あかんなァ、なまえちゃん」
片手間にするりと抜け出す眼帯の男は、神室町でも有名なヤクザの男だった。いつ姿を消してもおかしくない世界の住人である男に、女は日々不安に苛まれ、約束のない未来に手持ち無沙汰であっても辿り着けるように祈っていた。だが、奇しくも始まった奇妙な恋愛関係は未だに発展はない。プラトニックを極め、スキンシップも額面通りのまま。男は頑なに女の体に傷をつけるようなことをしなかった。今の世の中では容易く触れられるものに敢えて触れようとしないのは、男の気まぐれな優しさなのか、それとも、そうするに値しないという目で見られているのか。
「……そんなに私じゃだめですか」
相手を困らせてしまう言葉選びだと分かった上で、使わざるを得なかった言葉だ。優しいだけでは伝わらない。隣に居られることが幸せなのも知っているが、あまりにも、あんまりではないか。頬にキスをする時の優しい触れ方を知っている。髪に触れる時の優しい指先を覚えている。胸に抱き寄せる時の優しい鼓動を聴いている。情欲に溺れてしまいたい時の、優しく宥める暖かな目を見ている。いつも歯止めをかけるのは、男だった。女は自分がそこまで大切にされるような、人間ではないと分かっているから余計に寂しさに耐えられずにいる。
「カタギの女、手篭めにするんは性にあわんのや」
「じゃあ、どうして私の傍に居てくれるんですか」
「そらァ、なまえちゃんのことを思うて」
「カタギの女が合わないって言うのなら、そう言ってくれたら良いのに」
「惚れた女に無理させたない、それだけや」
そんなんでなまえちゃんがホンマに腹落ち出来るとは思えんが、今の俺はそれしか答えられへん。
ふたりぼっちの室内に静寂が訪れる。女は、なまえは男、真島を誘い、神室町のホテル街に来ていた。そして、適当なホテルに入ると、ベッドに腰掛けて煙草を嗜む真島に詰め寄ったのだ。求めることはあっても、求められることのない生活になまえは終わりを予感していた。嘘であって欲しいと今日、真島の胸の内を聞かなければと思っていたが、やはり答えは何も変わらない。いつも通りだった。真島は簡単に自分に触れてくるくせに、なまえが真島に触れようとすると一歩引いて上手く避けてしまう。ただ猫可愛がりをされるくらいなら、次に手を伸ばして来た時に牙を立てようと、なまえはそれほどまでに真島のことを強く渇望していた。
優しく触れなくても壊れないこと。大切にしなくても居なくならないこと。確かめなくても変わらないこと。今までどう伝えればいいのか分からず、その旨を明かすこともして来なかった。しかし、もうこれ以上『普通』を取り繕えない。自分の浅ましさを充分理解した上で、真島に伝えたかった。そこまでして自分を抑えつけなくてもいい、ということを。だが、真島を繋ぐ理性の檻は強固で頑ななままだった。自分の声では真島の理性を揺らがせることも出来ず、理性の檻を開ける鍵すらも持っていない。あまりの残酷さに打ちひしがれ、今夜はもう終わりにしてしまおうと無理矢理眠りについた。
「……ホンマに、堪忍やで」
いつもは飄々としている真島の声音が申し訳なく感じているように思えた。けれど、もう今夜はこれ以上を迫ることはしない。やめたのだ。真島のことを思うと、もうこれ以上は。やるせなさを噛み殺して眠る、真島に背を向けて強く目を閉じた。
***
異変に気付いたのは、部屋の照明が消え、窓から青い光が差し込む夜更けのことだった。湿った空気を肌に覚え、もしかしたら真島が一人でシャワーを浴びたのかもしれないと眠気眼で考えていると、不意に暖かな指先が太腿を這っていることに気付いた。極めて慎重に、決して起こしてしまわぬように。途端に気配を背後に感じるようになった。入浴を済ませた人間特有の湿った温かさを近くに感じ、なまえは声を出せずにいた。
その間にも指先は内腿へと伸び、何度も柔らかな腿肉を愛撫している。それは飢えた男の手付きだった。寝そべる女の無抵抗な体を前に、後はどうすれば行為に至れるか。飢えた吐息が首筋に触れ、自分の真後ろにいる相手が本当に真島なのか、信じられずにいた。自分ではビクともしなかった理性の檻から放たれたこの男が、何故だか今は恐ろしい。抑圧された人間が解き放たれた瞬間ほど怖いものはないと知る。男の指は内腿から下腹部へと滑り込み、優しく肌を撫でていた。皮膚の上から子宮を愛撫する指先に、不意に体が震え出す。その心地良さに僅かながら快楽を感じていたからだ。
吐息だけでは飽き足らず、遂に項を食むように唇が触れた。脇腹のくびれに置かれた男の手が、まるで爪を立てる獅子のように強固であると錯覚する。しかし、その獅子の爪は悪戯にこの肌を切り付けはしなかった。躊躇い、迷い、何よりも理性で抑えつけていたのだと思う。あと一歩、侵してしまえば果たされたであろう情欲を手荒に鎮めている気がした。獅子の爪は、女の体を愛撫することをせず、身に纏う衣服を剥ぎ取ることもせず、優しく腹部に手を回すと息を整えるように深呼吸を繰り返している。
項をなぞっていた唇も離れ、今では抱き寄せる形でこの肩に顔を埋めていた。男は獅子ではなく、真島だった。安穏と眠っている女、なまえを起こさぬように力なくその体を抱き締め、何を思っているのだろう。律儀に寝たフリすら出来なかった女が恐ろしいと感じるほどの、情欲を知らずの内に晒してしまった。もしかしたら、このような夜は初めてではないのかもしれない。今、振り返ったのなら、真島は獅子に化けてしまうだろうか。恐ろしく感じた欲を上手く飲み込むことが出来たなら、真島は ────。
「……堪忍やで、なまえちゃん」
振り返ってしまおうと思った数秒前に聞こえてきた言葉に、なまえは思い止まる。ふりかえっては、いけない。気付いてはならないのだと強く目を瞑る。何も見えていなかった愚かな自分から逃れるように、真島の曇った表情を思い出してしまわぬように。不意に寂しげに絡まる真島の手に自分のそれを重ねると、ようやく穏やかに眠れるような気がして、力んでいた瞼を押し上げ、今度こそゆっくりと目を閉じ、眠りについた。
***
朝の青白い光の中でぼんやりと目が覚めた。隣に真島の姿は、ない。何も起きなかった昨夜のベッドのままだった。酔えない夜だった、あまりにも切な過ぎて。真島の言葉の重みを今更になって知る。踏み出せない一線の手前で、真島は佇んでいるのだろう。ならば、自分もその時が来るまで隣で佇んでいればいい。独りよがりの寂しさなどなかった。幼い自分を反省し、体を起こすと、丁度シャワールームから人の影が飛び出して来る。朝方のシャワーの心地良さはどちらも知っており、なまえもふらふらと歩いていく。
「おはようさん、」
「おはようございます、真島さん」
なまえは身に着けていた衣服を手当り次第に脱ぎ、出ようとした真島を押し込めるように自分もシャワールームへと入っていった。暖かな湿気、まだ乾くことの無い水滴、真っ白に曇るガラス。真島の体には綺麗な桜吹雪の刺青が入っており、反対になまえは傷一つない、綺麗な体をしていた。男の形と女の形、示し合わせても下手な情欲に身を任せることはなくなっていた。それは昨日があったから。あの、真島の苦悩を肌で感じてしまったから。
真島の体に腕を伸ばし、小さく背伸びをする。なまえはほんの少し縮まった距離に、唇を重ねていた。触れるだけの、なんてことのない口づけ。拭えばすぐに余韻すら消えてしまうほどに、弱い口づけ。だが、二人はそれで充分だった。決して満足とはいかないけれど、今はこれでいい。これで、いい。
「あかん、勃ってまうなァ。そないなことされたら」
「だったら、昨日しておけば良かったのに」
「言うたやろ、堪忍やって。まァ、気ィ取り直して、仲良く体でも洗い合おうやないか」
「顔がやらしいですよ、」
「なまえちゃんには言われたないわ」
互いの鼻先がぶつかってしまいそうな距離感。今まで散々追い求めていた状況がここにある。許されたのは、許されるようになったのは、酷く傷付けるような触れ方を必要としなくなったからだ。
「いつか、私じゃなきゃだめだって言わせてやりますから」
「ほぉん?出来るんかいな、なまえちゃんに」
「してみせます」
近付き過ぎた体を引き離すように、真島の胸板に手をつこうとした時だった。するり、と手首を掴まれ、引き寄せられる。真島は掴んだなまえの手のひらに唇を這わせ、もう片方の手でしっかりと腰を掴んでいた。簡単に振り解けない拘束に、真島の名を呼ぶ。すると、手のひらに這わせていた唇が歪んで裂ける。真島の見せた深い笑みになまえは負けていられないと、極めて平常心を保ちながら、真島の輪郭に手を添えると自らの方へと引き寄せた。二度目の邂逅。触れるだけではなく、吸い付いて離れるような、強弱のある口づけをくれてやると、真島は満足そうになまえの拘束を解いた。
「ええなァ、ホンマに」
うっとりと目尻を下げた不気味な笑みを浮かべる真島に対して、なまえは早くとせがんでいた。それは決して欲望のままに果てたいのではなく、
「ほら、早く体洗って出ましょうよ」
獣のままではいられないから、とヒトに戻ることを選んだ結果だった。理性があるから、ヒトは人なのだ。理性すら無くしてしまったのなら、それはもうただの獣と変わりなく。純愛を貫く真島がいつか獣に戻れる日が来るまで、なまえは待ち続けることを決めたのだ。だから、どれほど戯れようが決して一線は超えない。そう、決めたのだ。
「せやな、洗ったるわ。隅から隅まで」
お願いしますね、と長い髪を片方に流したなまえはシャワーの蛇口を捻ると、頭上から降る暖かな雨に打たれながら、真島に体を預けていた。真島は自分に差し出された体に欲情することなく、まともに見てすらいないボトルに手を伸ばしていく。
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