やけに静かな医務室で時計の針が進む音を繰り返し聞いては、行き場のない重たい空気に口を噤んでいる。ベッドの上に一人、そして、近くの椅子に一人。それは女と男であった。ベッドの上にいる女は俯いたままで、椅子に腰掛ける男は眉間の皺が深いままだった。
「今回は随分と無茶をされたようですね」
男が苦々しく問い掛ける。女は表情を曇らせ、どう答えるべきかを考えていた。その間にも止まらぬ沈黙に、小さく溜め息を吐いたのは女に問い掛けた男だった。眼鏡の奥の瞳は静かながらに何処か不機嫌さを滲ませており、女もそれは肌で感じていた。だからこそ、口が重たいのだ。女は大道寺一派のエージェントであり、男はその管理者にあたる位置付けの人間だ。今回、女が取った行動を問題視しているようで、気が気ではない。
「花輪さん。お忙しいでしょうに、こんな所に来なくても」
「おや、私は厄介者ですか?確かに忙しいのは事実ですが、それよりあなたから聞かなくちゃいけない話がある」
「……それは、」
「ええ、今回あなたは負傷して戻って来ました。その経緯についてお聞かせ願いたい」
花輪の重く響く言葉に、女は、なまえはようやく口を開く。本音を言えば、あまり話したくない内容だ。花輪は常に計画的でスマートな任務遂行を求めているが、なまえが遂行して見せた任務は泥臭い結末であった。それが気に食わないのだろうと邪推する。正直、あまりよく分からない相手だ。言葉の節々から刺々しさが感じられ、なまえからしてもあまり得意ではない。ただその反面、任務遂行における指示は的確であり、完璧なものだった。判断力も申し分なく、用心深い。
「どうしました?まさか、いきなり話す元気がなくなった訳ではありませんよね」
容赦のない追求になまえは負傷に至るまでの経緯を話し始めた。身辺警備、管理者である花輪から伝えられたのは至って簡単な仕事だった。所謂ボディーガードという奴で、なまえは専ら裏方として任務に臨んでいた。だが、このような事態になってしまったのは、ちょっとしたほころびを見つけたところから始まる。世の中には度を越した愛情を一方的に差し向け、相手もそうであると勝手に思い込む輩が存在する。最初は控えめに、そして、次第に過激にエスカレートしていく。
その時、真っ先に助けを求められたのがなまえだった。裏方業務に就いていたが、クライアントを守ることが先決だと体を張って守ってみせたのだ。相手との攻防は長いものだった。相手は男で、嫌でも性別的な差を思い知らされる。なまえが所持していたのは護身用のスタンガンと銃のみで、一般人に発砲する訳にはいかず、リーチの短いスタンガンで応戦することになった。
「何故、その時すぐに連絡を入れなかったのですか」
「目の前のことに必死で。……勿論、連絡を怠ってはならないと分かってはいたのですが、」
「そこまでに危機迫る状況だった、と」
何かを窺うような瞳の動きに、内心嫌なものを感じていた。これではまるで、尋問のようだ。いや、それで正しいのかもしれない。居心地の悪さに晒されながら、花輪による事情聴取は続いた。結果としてクライアントは事なきを得た。しかし、その代わりになまえが負傷する羽目になった。表立って生きていけない人間とは言うものの、痛みが平気な訳では無い。奥歯を噛み締め、耐え抜かなければならない局面だった。けれど、やはりその思想の根幹には、いくらでも代わりのいる人間だからという負い目があるのだろう。
「クライアントは守り切りました。これでは駄目でしょうか」
「個々での依頼であるのなら、それでも構いません。ですが、我々は一つの組織として動いている。横の連携を無下にして良いはずが無い」
「……そうですね、花輪さんの言う通りです」
あまりにも論理的に詰められ過ぎて息苦しい。まさしく尋問だったのだ、これは。だが、これ以上の追求に一体何の意味があるのだろう。傾向と対策ならば、この話を聞いたことで充分に打ち立てられるはずだ。しかし、花輪は未だに浮かない顔をしているようで、眉間の深い皺も健在だ。
「でも、所詮私たちは使い捨てでしょう?その時が来たところで、組織としては何の問題もない……、」
逃れたい一心に、本音をぶちまけてしまった。故意にではない、気付けばそのような辛辣な言葉が口を突いて出ていた。分かっている、然るべき対応を取らなければ組織やクライアントに危険が及ぶことを。分かっている、消耗品の予備は潤沢に用意されていることを。分かっている、いつまでもこうして生きていられる訳ではないことを。末端のエージェントだからか、余計にその恐ろしさを身近に感じてしまう。自分の身を守るのは自分しかいない、誰にも命を預けてはならない。
すると、なまえの言葉を聞いた花輪は小さく溜め息を漏らした。不機嫌さに拍車をかけてしまったような気がする。例え、自分を蔑ろにしようとも、それを他者を攻撃する為の理由にしてはいけないと教わっていたことを思い出し、なまえは目を伏せた。そして、弱々しい口許に謝罪を添えた。
「ごめんなさい、……当たりたくてそう言ったわけじゃ、」
「ええ、それくらいは私にも分かっています」
「本当に花輪さんってよく出来た人ですね」
「よく出来た人、とは大袈裟です」
時に冷血漢とも言われることだってあります。管理者故に、かもしれませんが。
そう答えた花輪の表情は不機嫌と言うより、至って真面目そのものだった。だから、だろうか。この後、花輪の口から告げられる言葉に酷く驚いてしまったのは。大前提として、管理者はエージェントとは違い、使う側の人間である。そして、エージェントは使われる側の人間。つまり、管理者である花輪なら、壊れた部品の予備があといくつ残っているのかを知ることが出来るのだ。いつまでも同じ部品を使い続けることが正解なのか、それとも早々に見切りをつけて新しい部品に交換してしまうのが正解なのか。なまえは後者が一般的だと考えていた。特にこの裏社会に生きる組織なら、それは尚更だと。
「確かに我々は死んでも問題のない人間達ばかりです。それでも、」
「それでも、そんなあなたに対して、何かしら思う人間がいることも忘れないでください」
レンズ越しの瞳には切実さが滲んでいる気がした。花輪は古びて傷んだ部品を捨てようとはしなかった。死を肯定していながらも否定すらしている。花輪という男が分からなくなってしまった。掛けられるとは思ってもいない言葉の優しさに面を食らう。どう返事すればいいのかさえ分からず、なまえはただ花輪の顔を見つめるばかりだった。上手く言葉が出てこないことを察した花輪は、懐から携帯を取り出し、画面に指を添わせていた。次の依頼、だろうか。
「……依頼、ですか」
「ええ、残念ながらそのようです。おしゃべりの時間もここまでと言ったところでしょう」
ようやく尋問から解放されると言うのに、不意に訪れた物悲しさに内心驚きを隠せない。自分は花輪を誤解していたのではないかと思うほど、目の前の花輪は誰よりも人間らしかった。席を立ち、医務室を後にする背中に名残惜しさを感じている。叱ってくれたのだろう、命の価値が値踏みされてしまう世界に慣れ過ぎてはいけないのだと。怒ってくれたのだろう、ひとつしかない命を使い捨てのように削っていく姿に。
「花輪さん、お気をつけて」
医務室、扉の前。革靴は立ち止まる。そのまま出て行ってしまえば楽だろうに、態々律儀に立ち止まり、こちらを見る。
「どういう風の吹き回しですか。先程まで、あんなに苦々しげにしていた相手に対して」
嫌味などではなかった。口元には僅かに笑みが浮かんでいる。初めて、花輪の人となりを知った気がした。彼も笑うのだ、ああやってどこか得意げに。憎まれ口を叩きながらも、心の奥底では全く別の思惑がある。頼り甲斐のある相手だったのだ、花輪という男は。
「ふっ、まあいいでしょう。心配されると言うのもたまには良いものです」
「わたしみたいにならないでくださいね。やっぱり怪我は痛いですから」
「勿論。命を投げ出すなんて芸当、私には向いていませんので」
去り際、微笑みを残して花輪は医務室を出て行った。やっと一人になれたと言うのに、内心はやはり寂しげだった。また、あの厳格な口調に会いたいと思うと、早くこの怪我を直してしまいたい我儘に駆られるのだった。
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