今日は、二人が出会って一ヶ月の些細な記念日だった。女は男の為に無理に祝う必要はないと告げたが、男もまた女を好いているからか、決して迷惑や手間などではないと告げた。女は男の気遣いが嬉しかった。男はそんな女の、可憐な様に胸が満たされていた。二人はディナーを共にし、夜景の見えるホテルで一夜過ごすことを決めていたのだが、たった一人の女と出会したことで、今夜のムードは微塵もなくなってしまった。
──── 相馬和樹は女を食い物にする。
街で出会した女は開口一番に、なまえへそう告げた。なまえは突然ということもあり、見知らぬ女の言葉に耳を疑っていた。彼女曰く、彼女は相馬と昔に関係のあった人物らしく、当時相馬から受けた仕打ちのことを根に持っているようだった。彼女が受けた仕打ちと言うのは、自身の体を売らせ、金を搾取し続けた挙句に捨てられたというものだった。なまえは咄嗟に傍にいた男、相馬を見た。相馬は怒声を上げるでもなく、いきなり現れた女の言葉を一方的に非難するでもなく、苦々しい面持ちで彼女を見ていた。
事の是非を問う前に、悲痛な面持ちの相馬は自分を連れてその場を離れていく。確かに、自分という人間性をああも否定されてしまったら。尊厳を踏み躙られたなら、その場を離れたくなるのが普通だ。世の中には相手に構って貰いたいが故に、心無い言葉をわざと投げ掛ける人間が一定数存在する。なまえは相馬の辛そうな横顔に胸が張り裂けそうだった。
「ごめんね、みょうじさん」
彼女の罵倒から、街の喧騒から逃れるようにホテルの一室へと身を隠した相馬はなまえに向かって謝罪の言葉を口にした。ソファーに座っていたなまえも暗い顔のまま、相馬の言葉に頷いていた。
「大切な日なのに、とんだ災難だ」
「私のことは大丈夫ですから」
ただ胸に入った罅が思った以上に深く、そして、苦しい。なまえの知る相馬は、彼女の言っていたような野蛮で非道的な振る舞いをせず、ましてや女の体を切り売りさせるような男ではなかった。けれど、彼女の話が全て妄言であるとは思えなかった。彼女の、相馬を見る目つきは、心の底からの憎しみを宿しているようで。だからこそ、苦しくて仕方がないのだ。今、なまえの目の前には二人の相馬和樹がいる。果たして、どちらが本当の相馬なのだろう。もしかしたら、どちらも相馬自身であり、二面性を併せ持つ人物なのかもしれない。
しかし、それが意味することは彼女の言葉は真実そのもので、相馬が過去に何をしてきたかの証明となり得る。仮に誤りだったとしても、そのような言葉を投げ掛けられる相馬や彼女自身のことを思うと、割り切れない感情だけが残ってしまう。暫くは互いに黙り込んでいた。何と言って良いのか、分からなかったからだ。なまえは相馬の顔が見れず、目線のすれ違う時間を相馬は口を噤んで過ごしていた。先に沈黙を破ったのは相馬だった。これ以上我慢ならなかったのかもしれない。
「みょうじさん、今夜は俺、帰るよ」
相馬の言葉になまえは顔を上げた。然るべき展開だったとは言え、あまりにも薄情な申し出のようにも聞こえていたのだ。寂しげでやるせない表情を最後に多くを語らないまま、相馬は部屋を後にした。なまえは止めてやれない自分の不甲斐なさや、今まで相馬に向けていた信頼の行方が分からないことに沈んでいく思いだった。ひとりきり、大きすぎるベッドに横たわり、いつでも連絡の取れる便利な携帯の画面に触れることも出来なかった。
勇気がなければ、事の是非を訊ねることも出来ない。信頼がなければ、彼の見知らぬ過去の謂れを無条件に払拭することも出来ない。自分が普段から持ち合わせていたものの脆弱さに打ちのめされる。相馬和樹はみょうじなまえにとって、かけがえのない人物ではなかったのか。彼にとって代わる人物など、この世のどこにも居らず、彼以上の人物など、この世で再来するとは思えない。
「……相馬さん」
悲しみに爛れた喉で、最愛を口にする。醜い傷跡の喉にその名が痛々しく沁み、吐血してしまいそうになる。あまり深く考えてこなかったことが今更になって自分の弱いところを切り付けてくる。想像すらしていなかった、相馬の昔の女が自分の目の前に現れることなど。そして、自分にあのような忠告を投げ掛けてくることも。幸せの形が今になって不出来なもののように思える。
これから、どうなってしまうのだろう。そう思うと、部屋を出て行った男のことがとても恋しくなった。不安な手を握り締めて、大丈夫だよと口にして欲しい。確かなものが存在しない今、強く抱擁された時のように安心していたかった。手足を捥がれた羽虫のように蹲り、身を丸めて携帯にようやく手を伸ばす。たった一度、最愛に繋がる八桁を呼び起こしてみたものの、相馬が電話に出ることは無かった。今夜はもうこれ以上苦しい思いをしたくないと、逃れたい一心で眠りについた。無理矢理にでも眠ってしまわなければ、嫌な予感に連れ去られてしまいそうだったのだ。
***
傷が化膿して炎症の広がり切った朝、部屋は真白。抜け殻じみた一室のベッドで蠢く他にない目覚めは、すぐに終焉を迎えることとなる。
「おはよう、よく眠れた?」
真後ろにそれはあった。優しい声音が鼓膜を心地よく揺さぶる。自分に回された腕の温かみに失くした筈の手足の凍傷が癒えていく。
「そ、相馬さん、」
「……泣いたでしょ、昨日」
「だって、だって……、」
「いいって、いいって。俺はさ、みょうじさんの目を見れば全部分かる」
おどけてこちらを覗き込んでくる暗褐色の瞳に、ようやくまともに呼吸が出来るようになった。細く骨ばった指先が瞼や睫毛をいたずらに撫でる。瞬きの間に涙がこぼれ落ちると、咄嗟に顔を背けて体を起こす。すると、相馬はベッドから降り、近くの椅子に腰かけ、昨夜電話に出れないことを詫びた。急用が入ってしまい、すぐに連絡が取れなかったことを頼りなく口にする。
「……私、どうしても相馬さんが一方的に悪いようには思えなくて。でも、あの人の言ってることも嘘じゃない気がして、」
「いいよ、そんなの。みょうじさんにそう思わせてる時点で俺が悪いよ」
「どっちつかずな自分が昨日ほど嫌だったことはありません」
「真面目だね、みょうじさんは」
「相馬さんは私が真面目じゃなければ、一緒に過ごしてくれていましたか……?」
静かに首を横に振る相馬に僅かに安堵するが、余計に真実が見えなくなってしまった。晴れぬ疑いに不信感は居座り続ける。なまえは涙を拭い、相馬に問い掛けた。昨日の件について、目を逸らしてはいけない彼女のことについて。相馬が語ったのは、自身が若かりし日のことだった。昨夜の彼女は、かつて関係を持ったことのある異性の一人であること。金銭的問題で彼女は夜の街に出て行くことが増えてしまったこと。互いの認知に歪みが生まれ、関係が絶たれたこと。そして、昨日は偶然にも再会を果たしてしまったこと。
相馬の話には耳を塞ぎたくなるような部分があったが、包み隠さずに全てを話してくれたことに対して信頼をいくつか取り戻しつつあった。人は誰しも後ろめたい何かを抱えており、それを他者に打ち明ける行為はとても勇気のいることだと知っていた。なまえが相馬に抱いた不信感も、彼女が抱かされた嫌悪感も、相馬が思い出した過去の苦々しさも。
「それで、みょうじさんはこれからどうする?」
明かしたのだ、相馬は彼女のことについて全てを。選択するのは自分自身だった。この話を聞いて、相馬を見る目が変わった訳ではない。寧ろ、今まで感じることの出来なかった人間味が増したとさえ思っている。相馬和樹はどこか完璧めいた節があったのだが、ここで初めて同じ人間であると知ることが出来たのだ。
「……相馬さんと一緒にいたいです、」
「あんな話を聞いた後でも?」
「私が知っている相馬さんだって、嘘じゃないはずです」
「俺を信じられる?」
「信じます、」
「それじゃあ、彼女のことはどうする?信じるだけじゃ割り切れないんじゃない?」
「彼女のことは……、向き合ってみたいです」
へえ?と首を傾げる相馬に、なまえは彼女の話も聞いてみたい旨を話した。相馬の話を聞いて解決ではなく、彼女の話も聞くことで自分の中で一つの区切りがつくと考えていた。恐らく相馬は良い顔をしないだろうと思っていたのだが、予想外なことに相馬は納得した顔で、いいんじゃない。と答えた。こちらが言葉を失って驚いていると、相馬はどうしたのかと問い掛けてきた。
「俺はみょうじさんを尊重してる。ほら、俺たち元からそういう関係じゃない」
「そうですけど、」
「悪いことしてるかもしれないって、顔に書いてある」
他愛もないじゃれ合いに膿んだ傷口が閉じていくのを感じる。しかし、時折感じる不穏さの正体は掴めていない。破局を迎えるかもしれない恐怖に麻痺していたのだろうと思っていたが、どうやら違うようで。だが、はっきりとした答えはない。自分の目の前で相馬が綺麗な笑みを浮かべている。昨日の疲れがまだ残っているのだろうと、もう一度ベッドに横たわると、相馬もこちらにやって来て端に腰を下ろす。そして、乱れ髪の頭を優しく撫でつけていた。
「みょうじさんって今まで出会ったことの無いタイプでさ、」
「だからかな、そう簡単に手放したくないんだよね」
悪いね、我儘かもしれない。と不敵に笑う相馬の視線に貫かれたまま頷くと、男は機嫌の良さそうな口許で女の髪を弄んでいた。女もそれを悪くは受け取らず、心地良ささえ感じては微睡むように目を閉じた。昨日求めた安寧が帰ってきたのだと思うと、今は少しだけ眠りたい気分だった。
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