「みょうじさん、今夜は俺、帰るよ」

 酷いすれ違いの起きた日のことだった。神室町で出会った女の言葉に、最愛が不覚にも毒されてしまった。この足には切り捨てた筈の過去が追い縋っていたのだ。寧ろ、感心さえしていた。彼女の存在はとっくに闇に紛れて消えてしまったとばかり思っていた。しかし、そうではなかった。無謀にもこうして再び顔を見せてくれたのだ、折角の再会を祝いたい。なまえには悪いが、ここにいつまでも居られない。一人にさせることは悪いと思うが、懐かしい過去にもう一度顔を見せてやらねばならなかったのだ。
 最愛を置き去りにした一室を抜け出て、滑らかに闇夜を闊歩する。新しく出て来たタスクを完了させなければならないと、高層階故の不自由なエレベーターに乗り込み、懐の携帯を手繰り寄せる。電話帳から無作為に選ばれた番号にかけると、あまり待たせることなく向こうが電話を取ったのだと知る。こちらが全てを明かすより早く、手筈は整っているようだった。端的に用件と居場所を聞いてからは、再会を喜んで何を話そうかと胸の内で好奇心を燻らせていた。小気味良く鳴る革靴、通り過ぎる度に肌を撫でる風、きっちりと着込んだスーツの中に隠していた『好奇心』が疼く。

「あの子はいい子でね、」

 相馬はホテルの外に待機してある車に乗り込むと、早々に口を開く。『あの子』とは最愛のことだ。車を用意した部下達は誰もが知っていた。相馬が自分の女の話をする時は、機嫌が良い時なのだと。だからこそ、相馬和樹と言う男の底知れなさに触れるようで恐ろしい。誰だって異性のパートナーにのめり込む期間が存在する。付き合いが浅いから、好みのタイプだったから、日々のささやかな瞬間にも愛おしさを感じるから。理由は多岐に渡れど、相馬の抱くものは愛情と執着の境目がとてもあやふやなものだった。
 しかし、部下達からすれば意外なのである。あの、相馬和樹も誰かを愛することがあるのだと。腕も立ち、頭も切れるが故に相馬の成すことは全て、情け容赦と言う甘ったれたものを微塵も感じさせない、冷徹の一言に尽きるばかりだった。だからこそ、反対に憐れむ声もある。最愛の人は、至極真っ当な一般人だ。実家が太い訳でもなく、なまえ自身に利用価値がある訳でもない。相馬和樹が選んだ相手と言うには、説得力に欠けているのだ。不釣り合いな男女。だが、相馬がなまえを食い物にしている様子もない。大蛇の気まぐれで生き長らえている野兎と言った方がしっくり来るほど。

「……それで、アイツはどうしてる?ちゃんともてなしてるか?久しぶりに会うんだからな」
「ええ、言われた通りにゆっくりしてもらってます」
「そう、それでいいよ。お客様に失礼があっちゃ困るからな」

 しっかり教育が行き届いていれば、出来るんだよ。お前達は。と相馬は上機嫌のままシートに深く体を預けた。深く息を吸い込む。視界に飛び込んでくる公道の深い闇とそれを切り裂いていくヘッドライト。しかし、長くは作用しない上機嫌に不快感が込み上げ、懐から一枚のハンカチを取り出して口元を覆う。車内の埃っぽさはまだ直らないようで、密かにため息を吐く。鼻先の煩わしさを感じていると、不意に自身が当てているハンカチがなまえからの贈り物であることに気付き、口角が上がっていくのが分かる。だが、最愛は今ひとりで煌びやかな檻の中にいる。それを思うと不憫でならない。不明瞭な憂いが明確な悪意に変わっていく。
 今夜は大切な日だった。溺愛に酔い、未来を薬指に、心臓に括り付ける大切な日だった。けれど、脅かされてしまった。ささやかな喜びを踏み躙られてしまったのだ、最愛の目の前で。自分以外の他者の手によって。一体、誰が『彼女』に触れていいと言ったのだろう。最悪な将来、なまえの首に手をかけるのは自分であるべきだ。出来ることならば、回避したい未来ではあるが、なまえを最愛に据えた時からそうであるべきだと覚悟を決めていた。肌を這う血管に熱い血が流れていく。悪意が怒りを伴って作用し始めたのだろう。胸に渦巻く不快感を一刻も早く取り除きたいと、口許のハンカチを力一杯に握り締めていた。


***


 相馬を連れた車が到着したのは、とある寂れた倉庫の前だった。夜の暗がりでまともな景観は見えなかったが、辺りに古びたパレットや使い捨てられたように積み重なる箱の山に、ここは少人数で話をするのに適した場所であると知った。しかし、強くなる埃っぽさには辟易してしまう。あまり得意ではないものの、立場上自らそのような場所に足を運ばなければならない。肌を撫でる潮風は倉庫の位置が海に近いことを意味しており、無難な選択をしたものだと醒めた顔をしていた。
 通された先に『彼女』は、いた。黒いビニール袋を被せられ、手足を粗末なロープで括られて地面に放置されていた。部下の男を見れば、息はあります。と手短に告げられ、助かるよ、本当に。と返す。まるで芋虫のように地に横たわる女の傍に行き、声を掛ける。すると、女の形をした芋虫は体を震わせ、身を捩らせていた。その様を見下ろしていると、一種の哀れみを覚えた。触らぬ神に祟りなし、『彼女』の愚かさを悔やむ。

「よう、元気してた?」

 何故、全てを明らかにしなければ気が済まないのだろう。知らぬ幸せの多さは、この世の中を見ていれば一目瞭然ではないか。どこにも溢れかえっていると言うのに、無関心ではいられない。止めておけばいいのに、青臭い正義感、もしくは生半可な好奇心で首を突っ込む。芋虫が蠢く。もし自身の不幸を嘆いているなら、それは間違いであると知らせてやりたい。他人でいることを放棄し、あまつさえ関わりを持とうとした罰なのだ。因果応報、ただそれだけである。

「まさか、まだこの街に居たとは知らなかったよ」

 最愛のハンカチ越しに、再会を喜ぶ。

「今日、お前が声をかけた子。今の俺の女でさ、」

 積もる話は山ほどある。一体、どれから話そうか。

「ひどく動揺してた。可哀想なくらいに」

 しかし、だらだらと話し込むつもりはない。この足元の芋虫に、貴重な時間を浪費してやる義理はない。お前も本当に変わらねえよな、少しは利口になれって言ったろ?と相馬はビニール袋越しに『彼女』へ手を伸ばす。真っ黒なビニール袋をその手いっぱいに掴み、地面から軽く浮かせた次の瞬間、力任せにその袋を地に打ち付ける。鈍い感触は、まるで中身の詰まった肉の塊のよう。一度ならず二度、三度……と相馬は手を休めたりはしなかった。袋の擦れる無機質な音、人間の頭を地面に打ち付ける生々しい音の二つが倉庫内に響く。

「はは、やっぱりヤクザってろくでもねえな」

 ビニール袋を乱暴に投げ捨てると、芋虫はより身を丸めて横たわっていた。乱れた呼吸の、詰まりそうな息遣いが耳障りで不快だ。憂さ晴らしにもならないやり取り、腕の疲労、纏わりついてきた過去の女、これ以上ここで『彼女』から何を得られるだろう。所詮は時間の無駄使いに他ならない。
 『彼女』は、相馬が日侠連組員時代の過去の女だった。複数人いた内の一人で、上納金の尽きぬ源泉としていた。元々、見てくれの良かった相馬に一方的な恋愛感情を抱いて接近して来た女の一人を、どうして尊重してやらねばならないのか。求めるばかりで与えることをしない、怠惰な人間に何故心を割いてやらねばならないのか。危機感を持たずに無闇矢鱈と近付いてきたくせに、利用されたと知るや、被害者の皮を被る『彼女』は人間などではない。

「残念だよ。下手に声を掛けなきゃあ、もう少しは長生き出来たのにな」

 不快感に耐えかねる。後は部下達に任せて、その場を離れようとしたのだが、すっかり意欲が削げてしまったのか、萎え切った青い顔で居た堪れないと俯いていた。白けきった空間の毒にも薬にもならない感情が、あまりにもつまらない。いつもの余裕は何処へ行ったのか。お前らのこういう所がまだまだ駄目なんだよ。と部下の一人に詰め寄り、やれるよな?と問いかけても青ざめるばかりで話にならない。しかし、だからと言って手を汚す機会を奪ってはならない。こんなことは日常茶飯事になるのだ、慣れておくなら早い内が良い。
 男だから出来る、女だから出来ないでは、この先の仕事に支障をきたす。この街で半グレを名乗るのならば腹を決めて、とことん手を汚していくべきだと教鞭を執る。失望の場は学びの場だ、失敗を恐れずに挑戦していけばいい。何、今更まともぶってんだよ、と低く唸れば、目の前の木偶の坊はようやく辺りに落ちている廃材を手に、ビニール袋へと近づいて行く。そこから後は想像の通り、ひどい有り様だった。最初の一歩が肝心なのだ、外れた箍の勢いに任せて何処までも手を汚させる。容赦を許さず、妥協もさせない。手を抜くことも自身の前では決して許さない。


「じゃあ、後始末も頼むよ。何かあったら阿久津にでも連絡してくれ」

 軽い足取り、また一つ秘密をなくしてしまった。現在の時刻を確認しようと、歩きながら懐を漁れば、携帯に着信があったことを知る。通知画面に表示されていたのは、なまえからの着信で相馬はこれまでにない程に多幸感に包まれていた。恍惚に口許が歪む。笑みを隠し切れずに贈り物のハンカチを添えた。そして、外に待たせてある車に乗り込んでは、あの煌びやかな檻に置いてきた最愛に会いに行く。



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