蒼天堀の雑踏はいつも喧しく耳障りだった。しかし、何か物言えぬ感情を抱いた時にはそれが心地よかった覚えもある。丁度良かった。人には明かせぬものを隠したい時に、汚らしい街の雑踏に埋もれることは。自分が生きてきた世界に小綺麗さや華やかさ、ましてや温かみなど毛頭ない。生きる為には誰かの世界を閉ざさなければならなかった。そうすることで自分はこの歳まで生き長らえてきた。今思えば、それが皮肉にも正しかったような気もしている。じゃなければ、自分の居場所など見つけられはしなかったのだから。
 あまり昔のことは覚えていない。いや、未練がましく覚えていても無意味だった。過去の輝かしい記憶が自分に一体何をしてくれる?何を与えてくれる?誰にも命を脅かされない明日を約束してくれず、心休まる暖かな場所を与えてくれることもない。飾り立てるだけの綺麗事では満足に生きていけない。そんなことを軽々しく口にするのは、どちらも最初から与えられていた世間知らずな人間だけだろう。


「なまえ、」

 誰ともなく聞こえてきた声に咄嗟に振り向く。蒼天堀の雑踏の中で聞いた名前に覚えがあった。まさか、と心臓がけたたましく脈を打つ。肌が粟立ち、血が沸々と沸き立つ。自分の目が追い掛けていたのは、二人の女性だった。ただ、通りを行くなんてことのない女が二人。いつもならば、気に留めることさえしていないだろう。しかし、あの名前を聞いてからはやけに気になって仕方がない。おかしい振る舞いであると分かっていながら、獅子堂はその二人と距離をとるようにして後を着いていった。
 しかし、こうも思うのだ。なまえという名は大してそこまで珍しいものではない。同名の人違いなのではないかと。仮にそうであるならば、このような所で時間を潰している場合では無い。組に戻り、これからのことを若頭である鶴野と話し合うべきだ。頭ではこんな馬鹿げたことは止めろと制止しているのにも関わらず、体は言うことを聞かなかった。どうしても、たったの一度で良いから、顔が見たい。本当に自分の知る相手なのか。それとも、本当にただの人違いなのか。何故だか自分が意固地のように感じられた。


 それから二人の後を追っていると、二人の内の一人が近くのビルに入っていった。それは彼女のことをなまえと呼ぶ女で、ビルの入口の前で彼女は一人佇んでいた。懐から携帯を取り出し、画面に目をくれる姿に獅子堂は今がチャンスだと、一気に近付いて行った。足音が急かすように鳴る。彼女も自分に向かってくる足音に気付かないはずはなかった。ちらり、とたった一瞬、こちらに視線が向く。間髪入れずに獅子堂は口を開いた。

「アンタ、なまえっちゅうんか」

 声を掛けたものの、彼女からは返事がない。無理もない、自分を見て怯えた表情を浮かべているのだ。これでは、まともに話をすることすら叶わないだろうに。話を続ける以前に自分が思い過ごしをしていたことに気付く。今更、自分関わって良い相手ではない。彼女は小さくそうだと答えたものの、途端にバツが悪くなり、……すまんかった。とだけ言い残し、彼女の前から去る他になかった。その後すぐにでももう一人がビルから出て合流したのだろう。背中から、大丈夫?と彼女を気にする声が聞こえてきた。
 酷く後悔していた。何を、考えていたのだろう。もし、彼女が自分の想像通りの彼女であったとして、一体何を求めていたのだろう。何と言われたかったのだろう。再会を喜ぶ言葉、別人のように成長した互いを思い出す言葉、昔を懐かしむ言葉。そんなもの、どれもとうの昔に捨て去ったではないか。迂闊だった己を恥じるように、人混みを掻き分けていく。どれだけ乱暴に街を歩こうとも、人波が左右に分かれていくのは自分がヤクザであるからなのだろう。顔に走る古傷が他者を近付けることはなかった。悪いことをしてしまった、きっと彼女は恐ろしいと思っただろう。カタギの世界では滅多に見ないような風貌の男を一目見て。

 勝手に膨れ上がっていた期待がゆっくりと萎んでいく。出来ることならば、人違いであって欲しいと願うのはあまりにも自分勝手だろうか。


***


 獅子堂が自責の念に駆られている頃、なまえは再び合流した彼女と歩きながら話し込んでいた。恐ろしい風貌の、恐らくヤクザと思われる相手に声を掛けられたことを。突然、一人になった所を狙われたのか、いきなり目の前に出て来ては開口一番に自分が誰なのかを問い掛けてきた。正直、恐ろしさに何も答えられなかった。ダウンジャケットの内側から覗く和彫りの刺青や、顔中に走る古傷に頭が真っ白になってしまったと。彼女は気をつけないと駄目だよ、と口にしていたが、本当にそうだと思う。ここは蒼天堀、あの近江連合のお膝元なのだ。迂闊なことをしていては自分の身が危ない。
 ──── 危ない、その一言に何かが引っ掛かる感じがした。急に体がそわそわとし始め、落ち着きを忘れていく。一体、何を気にしているのだろう。やはり、あの風貌の男にいきなり距離を詰められた恐怖が今更蘇ったのだろうか。いや、そんなはずは。ふと、視線を鞄に移すと、そこに答えがあった。鞄の内側には古びたお守りがしまってある。何故だか胸騒ぎが止まない。このお守りが関係していると言うのなら、先程自分に声を掛けてきたあの男は、

『これ、やる。来年は受験なんやろ、』

 不意に聞こえてきたのは、遠い昔に聞いた懐かしい声だった。なまえは一緒に居た彼女に手短に別れを告げると、急いで踵を返した。あのダウンジャケットの後ろ姿を探して。もしかしたら、あの男も、彼もそう思ったのかもしれない。だから、名前が違っていないか訊ねて来たのだ。気付かなかった。気付かなかった、まさか。まさか、彼が蒼天堀に居るだなんて。なまえは走りづらさを覚悟で駆け出した。道行く人々に、ダウンジャケットを着た、顔に傷のある男を見なかったかと訊ねながら。
 無我夢中で駆け抜け、迷惑を承知で誰であろうと声をかけ続け、ようやく。ようやく、あの背中を見つけた。みっともないくらいに息は絶え絶えで、しかし、ここで声を掛けなければ、二度と会えないような気がしていた。ふらつく足元、呼吸が荒くてまともに声を掛けられない。彼は駐車してある車に乗り込もうとしている。居なくなってしまう前に、なけなしの声量で声を掛けた。

「……あ、あの!」

 頼りない声が届いたのだろう、彼は振り返るとこちらを見た。怪訝そうな顔で、しかし、僅かに目を丸くさせながら、こちらを見ている。だが、自分に声を掛けてきたのは彼ではなく、彼が乗り込もうとしていた車から降りてきた、強面の男だった。行く手を塞ぐように立ちはだかる男達に怯んでいると、俺に話があんねや、通したれ。と例の彼は自分を真っ直ぐに見つめてそう言った。すると、男達もそれ以上は声を荒らげる真似はせず、駐車車両の後部座席のドアを開ける。

「アンタ、さっきの女やないか。俺に何の用や」

 彼が乗り込んですぐに後を追うように車に乗り込む。先程まで対峙していた男の手でドアが閉められ、車内には重たい沈黙が流れ込む。

「勘違いして声かけたんは悪い思うとる」

 他人行儀に徹する男の姿にひとつ分かったことがある。自分はかつて彼に会ったことがあるのではないか。そして、彼とは言い表しようのない悲しい別れを迎えたのではないか。面影が霞む。傷だらけの顔に、あの子が重なる。みょうじなまえには幼馴染がいた。家庭事情が複雑な同年代の男の子。互いに助け合いながら過ごしてきた幼少期、その仲睦まじい関係は中学まで続いていた。

「康生くん、なんでしょう……?」

 震えた声が車内に響く。なまえは確信を持っていたのだが、男の答えは違うものだった。しかし、なまえはそれ以上追求することはせず、軽く頷いては小さく返事をした。目の前の男が別人であると言うのなら、こちらからは何も言えない。ただ、本心の部分ではお互いに分かり合えているような気がしていた。だからこそ、今は赤の他人でいることを選んだのだ。

「人違いだったとしても、よく似ていたんです」

 よく似ていた事実を鞄から取り出す。古ぼけて色褪せた赤いお守りを手に取っては、男を見た。中学二年の頃、来年に受験を控えているからと自分の為にお守りをくれた男の子がいた。それがとても嬉しくて、自分も男の子にとあるお守りを渡し、まだ見ぬ明日に思いを馳せていたのを覚えている。しかし、それ以降は男の子とは会えない日々が続いた。彼が十五を迎えてすぐ行方知れずとなってしまったのだ。突然、姿を消した男の子のことを探せるほど世の中に明るくなかったなまえは、寂しさを噛み殺しながら生きてきた。見て見ぬふりをしようとすれば、ふとした時に彼から貰ったお守りに助けられていた。

「私、その子と再会できたらどうしても伝えたかったことがあって、」

 志願した学校に無事受かったこと。自分の望んだ職に就いたこと。この街で彼のことを思い出せたこと。そして、今でもこのお守りは自分自身を守ってくれていると言うこと。どんなに唇が震え、声が震え、体が震えようとも、一言一句伝えることをやめたりはしなかった。涙混じりの聞き苦しい話を、隣に座る男は聞いていてくれた。ああ、やっぱり、そうじゃないか。やっぱり、全くの別人なんかじゃなかったじゃないか。無情に過ぎた時間を思う。気付けば、すっかり大人になってしまっていた。

「ありがとう、見守っていてくれて」

 頬を熱源が伝っていく。じんわりと視界を濡らし、目の前の男がまるで昔のように面影に染まる。顔を引き裂いた傷跡も、険しく強ばった表情も、全てなかったことのようにあの時の姿で刹那に甦る。制服に身を包んだ彼が黙って頷く。瞬きの間に再会は過ぎ、再び目の前には極道の風貌をした男がいる。

「私があげたお守り、きっと無くなっちゃったよね。でも、大丈夫。今日、また会えたから」

「また明日から康生くんのこと、思って生きていくから。だから、だから、……きっとこれからは上手くいくからね」

 別れを告げる前に、自分を覆い隠す影に呑まれていた。硬い胸板から心臓の音が聞こえ、切なさの意味を知る。そして、誰に言われるでもなく顔を上げれば、優しさの意味を知る。体温を口移しすれば、温かさの意味を知る。伝う涙もそのままに、今だけは昔の二人でいられたのだ。行き場のない手を奪い、握り締める大きな手のひらに劣情を覚える。いつまでもこうして居られたなら、どれほど幸せなことだろう。千切れた沈黙に別れの意味を知り、急いで頬を濡らす涙を拭う。
 もう大丈夫、と小さく告げれば、……すまんかった。と聞き覚えのある訛りに、車内のドアに手を掛けた。経緯の全ては分からないが、たったひとつだけ分かるのは生きる世界が違うということだった。これ以上の干渉は互いを困らせるだけだと、やけに理性的な言葉に背を深く切られる。しかし、もう縋るわけにはいかない。ここで終わりなのだ。レバーを強く引き、開かれたドアの向こうに足を着ける。言いたいことはたくさんある、けれど、その全てはあまりにも不粋に思えて。ただ一人、諦めた恋慕を思い、口を噤む。

「またね」

 喧騒の街へと飛び出していく。振り返りはしなかった。振り返って彼の寂しそうな顔を見てしまったら、この両手に抱えたものを捨て去ってしまうと分かっていたからだ。それではいけない、自分の前で別人であると告げた彼の為にならない。路肩に止まるタクシーに駆け込むと、その場を後にする。足早にその場を去ったせいで、なまえは男の、獅子堂の最後の言葉を聞けず終いだった。

「クソみたいな過去は捨てたつもりでいたんや。獅子堂、言う新しい名前を親父から貰て。せやけど、街でなまえとすれ違った時、都合よぉ思い出してしもうたんや」

 獅子堂は懐から薄汚れたお守りを取り出す。なまえから貰ったお守りは、あの日からずっと自分の懐にしまい、無くさぬように大切に持ち続けていた。

「またね、やない。もう会われへんで、なまえ」

 なまえを乗せたタクシーの姿はない。獅子堂は若衆に声をかけ、ようやく事務所への帰路に着くのだった。



| さよなら、あの頃のすべて |


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