飲み仲間の佐川司に惹かれていく
「ごめんね、佐川さん。さっきのがしつこくてさ、」
「いいよ、いいよ。今日も景気が良さそうで何よりじゃねえの」
小洒落た飲み屋のカウンターで佐川と呼ばれた男はグラスを傾けていた。その隣に賑やかな雰囲気で腰掛けたのは、みょうじなまえという女だった。さっきのとは、店外で絡んできたキャッチのことだろう。ここは神室町の一角にある、なまえが贔屓にしている店で、佐川は偶然にもそこの常連であった。
「全く神室町は騒がしい街だよな、そういうのは大阪だろうと東京だろうと変わらないもんかね」
「そう言ってても、佐川さん、出張の度に顔出してくれるじゃない」
「やっぱ、なまえに会っておかねえとな」
「私はここの女の子じゃないんだけどね。ママだって困っちゃうよ、そんなこと言われたら」
「だから、せめてここで飲んでんだろ」
カウンターの奥から追加でグラスがなまえの前に置かれる。佐川となまえはこの店で知り合った気の合う飲み仲間という関係だ。当時、店内でキャストに絡む悪質な客を追っ払い、その手際の良さに佐川の方から一杯奢らせてくれと申し出たのがきっかけだった。思い切りの良さ、男相手でも怯まない豪胆さ、腕っ節も申し分ないなまえを佐川が気に入るのに時間は掛からなかった。そして、なまえもまた自身のことを買ってくれている佐川のことを邪険にはしなかった。
東京の神室町と大阪の蒼天堀。遠く離れた街に暮らす遠方の友のように、二人は何度も顔を合わせ、同じ時間を共にしてきた。とりわけ、佐川が出張という形で神室町に来た時にしか会えないのだが、なまえはそれでもなるべくは顔を出すようにしていた。なまえにとって、佐川は不思議な男だった。なまえと気が合い、比較的近い感覚の持ち主だからだろうか。
「今回はいつまでこっちに居られるの?」
「二、三日ってところだな」
「それじゃあ、長くて明明後日までなんだ」
「なあ、なまえ。お前、こっち来たらどうだよ。世話ぐらいはしてやるって」
「ふふ。私も出来るならそうしたいけど、ごめんなさい」
「なんだよ、他に男でもいんのか?」
実はね。とはにかんだ笑顔を見せると、佐川が眉間に皺を寄せて、本気で言ってんのか?と問いただすものだから、なまえは小さく吹き出し、男は男でも身内の男ね。と付け加えると、ようやく佐川は安堵したかのように眉間の皺を浅くし、もう一口とグラスを傾けていた。
「今、この街に弟が来てるの」
「へえ、弟がねえ。まさか、可愛い弟が神室町にいるから、俺んとこ来れねえってわけか?」
「そう。しかも、真っ当な職に就くんじゃなくて、この街の極道になっちゃってさ」
「この街のっつったら、あれか?東城会の、」
なまえは一度頷いてから、少し汗のかいたグラスに手をかけた。みょうじなまえには、歳の離れた弟がいる。弟の名は桐生一馬で、なまえが名乗っている『みょうじ』は母親の旧姓だった。二人は姉弟で同じ児童養護施設に入っており、なまえは高校を卒業と共に施設を出た。そして、神室町で生計を立てて暮らしていたのだ。だが、今年になって二十歳になった弟が神室町でヤクザになったと聞き、自身同様に東京に出てきたことを知った。複雑な家庭事情を抱えるなまえからすれば、せめて弟だけでも真っ当な道に行って欲しいと願っていたのだが、現実は虚しくも全く別の道に走ってしまった。
「理解がないわけじゃないんだけど、やっぱり心配じゃない」
「随分、弟想いの姉貴だな」
「たった一人の身内だし。それにあの子、不器用なところがあるからね」
「でも、二十歳にもなって姉ちゃんの世話になってりゃあ恥ずかしいだろうに」
そこまで過干渉になるつもりはないよ。時々、生きてるかどうか確認して、ってくらい。
なまえはグラスの中の冷たい透明を流し込むと、頬杖をつきながら小さくため息を吐いた。どことなく憂いを帯びた表情に、佐川は懐から皺の入った煙草のパックを取り出し、口の開いた方をなまえに差し向けた。すぐに佐川の意図に気付いたなまえは、ありがと。と添えて煙草の一本を頂戴する。女の指に煙草を預けた男は次にライターで火を灯してやり、自分も続いて煙草に手をつける。
食んで吸い込み、循環させ、吐き出す。手馴れた所作を一部始終見届けると、男は女の塗った口紅の着色に目を奪われる。なまえは自身を見つめる佐川に、……いい女でしょ。と吹っかけてはくすくすと笑っていた。極道の姉とは言え、まだ幼さの残る年齢だ。女だろうと男だろうと、苦労を重ねると人として深みが増す。この時のなまえも丁度その時期だったのだろう。
「本当に口説けねえよなあ、お前」
「まあね、ちょっとやそっとじゃ靡かないようになったの」
「女は馬鹿な方が可愛いって言うだろ」
「佐川さんは可愛い女の方が好き?」
いつもならば、皮肉をそのまま突き返しただけのことだった。しかし、今は複雑な心中と酒が回り始めたのか、なまえはいつになく素直な言葉選びをしていた。正直な話、なまえはこうして佐川と一緒に居られる時間を大切な時間の一つにカウントしている。家族と過ごす時間、友人と過ごす時間、そして、想いを寄せる異性と過ごす時間。肩肘張らねば容易にへし折れてしまいそうな街で、何でも打ち明けられる相手に出会える機会はそう多くない。先述の通り、佐川司はみょうじなまえにとって感覚の近い人物なのだ。
「いいや、馬鹿を相手にすんのは疲れるからな」
「意外。猫可愛がりでもするかと思ったのに、」
「じゃあ、なってみるか?」
「ううん、私にそういうの向いてないから」
煙草で曇るカウンターで煙に巻く。執着出来たなら、どれほど良かっただろう。しかし、昔から他者とは一線を画す癖は直らないままだ。どんなに親しくなろうとも、一定以上踏み込めない部分がある。それは裏を返せば、自身にも踏み込んで欲しくない部分があるのだ。なまえ自身も、周りが思うほど人当たりが良い人間だとは思っていない。相手の懐に飛び込んでいける理由を探さなければそれすらも叶わない。その未熟な不器用さに飽き飽きしているだけだ。想いを寄せるまでは出来るのに、それから先の進展が見込めないのは不器用な自分に足を引っ張られているからだと、なまえは苦々しく煙を食む。
「ったく、しょうがねぇ奴だよな。お前も」
「なに、どうしたの?」
食んだ煙を辺りに吹き散らすと、佐川はどこか気を許したような表情でこう言った。
「また、お前に会いに来てやるよ」
どうして、こうもやり手なのだろう。佐川は自分より一枚も二枚も上手で、欲しいものを差し出してくれる。密かに痛めた胸の患部に手を当ててくれる。
「可愛い女じゃないのに、いいの?」
「馬鹿だな、お前。見てくれだけが良けりゃあいいってもんじゃねえの」
「……性格だってあんまりかもよ、」
「何言ってんだよ、今更」
「ちょっと、それってどういうこと!」
「なまえといると、めんどくせぇこと忘れられて気が楽なんだよ、俺も」
カラン、とグラスの氷が鳴る。いい暇つぶしになってんの、とにやついた笑みを見せる佐川になまえは顰めっ面で残りの酒を煽った。どうせ、ただの暇つぶしですよ。とひねくれた返事を出せば、お前さあ、俺が本気になったらどうなるか、分かってんの?と予想の斜め上を行く返事に耳を疑う。
「なにそれ、どういうこと?」
「俺もただの優しいおじさんじゃねぇんだよ」
「もしかして、危ない人だったりする……?」
「とって食っちまうかもな、はは」
「……ま〜た酔っ払って変なこと言ってる、」
酔い潰れても介抱してあげないからね。なんだよ、俺とお前の仲だろ?……そりゃあ、良い飲み仲間だけどさ。たまには美人に甲斐甲斐しくされたい男の願望がこうも伝わらないもんかね。ふふ、甘えたいならそう言えばいいのに。まどろっこしいのは苦手なの、私。それじゃあ、ムードもへったくれもねえ。
途端にグラスの中に余らせていた酒が恋しくなる。焦って飲み干してしまった数分前の自分を羨みつつ、片手に預けたままの煙草を唇に添えると、音もなく酒で満たされたグラスが差し出される。カウンター奥のママに目を向ければ、綺麗な微笑みの後に、ちらり、と佐川の方へと視線を逃がしていた。声なき伝言だった、彼からの気持ちだと言う視線だけで交わされる伝言。
「付き合ってもらってんだ、美人の酒は切らしちゃいけねえ」
「そんなの、いいのに、」
「みっともねえ大人だと思われたくねぇからな」
「本当に佐川さんには敵わないわ、」
だから、好きなんだよね。と本心を再び満たされたグラスの酒で飲み干す。たった一杯を飲み干したなまえは、ご馳走様。と添え、もう帰るよね?と席を立った。佐川は、よく分かってんな。と懐から取り出した紙幣をカウンターに置き、なまえ同様に席を立つ。ママに別れの挨拶を告げ、店を出る。なまえはこの瞬間が何より寂しい時間だった、どれほど楽しいひと時を過ごそうとも気軽に会えぬ日常に戻ってしまうと分かっていたからだ。いつか、と願う幼い気持ちを匿いながら、神室町の街並みへと紛れていった。
みょうじなまえは佐川司に対して、密かに恋慕を募らせている。
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