もう何度目の雪だろうか。酷く冷え込んだかと思えば、ちらちらと音もなく降ってくる。ここ最近は年に一度か二度ほどの頻度で雪が降っているような気がするのは、互いに何度も顔を合わせているからなのだろう。嫌な気はしなかった。寧ろ、顔を合わせないと何か足りないようにさえ感じてしまう。何故だろう、いつの間にか互いの隣にいることが愛おしくなってしまった。それは酷く冷え込んだ日の炬燵に似ている。離れ難さと心地よい温かさ、素朴さ、かけがえのなさ。それらを引っ括めたような関係を愛おしく思う。好きだとかそうでないとか、惚れているだとか腫れているだとか。予感も予兆もなかった。ただ、いつも雪が降っていた。

「今日もさみぃなぁ、みょうじ」

 隣で愛おしさが声を上げる。なまえもいつの間にか、そんな青臭い感情を抱くようになってしまった。いつぶりだろうか、誰かを好きになるのは。多感な時期を過ぎてしまえば、そう言ったものとは中々無縁なものになる。なまえも少なからず、そちら側の人間だった。東徹とは、よく通うゲームセンターの店長と常連客と言う関係だ。最近は何かにつけて、一緒にいることが多いのだが。よく恋仲ではないかと訊ねられるものの、現にそういう関係ではないことから互いに否定している。
 どこから先が恋で、どこから先が愛なのか。付き合ってもいないのに愛おしさを感じるのは、おかしいのだろうか。付き合い始めてから恋を知るのは、おかしいのだろうか。見慣れた横顔の輪郭をなぞる。なまえは口寂しさを雪の日の冷たさだと誤解していた。ゲームセンターシャルル、本日の営業が終了してすぐの帰り道のことだった。

「今回は帰りに雪が降り始めるなんて」
「あ〜あ、こりゃあ交通機関もやべぇだろ」
「この後、どうします?」
「どうすっか、何もなけりゃあこのまま帰ろうと思ってたんだがな」

 雪は積もる。けれど、何もない。まだ雪は降り始めで、すぐに深くなるような時間でもない。帰ろうと思えば帰れる雪の浅さに足を止める理由などなく。ふらふらと揺れる傘が二つ、道を行く。踏み締める度に溶けていく淡雪の呆気なさに、何故か自分までしくじってしまったかのように感じられた。

「なんだよ、このまま帰りたくねぇのかよ」
「……前だったら、すぐに帰りたいって思ってたんですけど」
「前だったら、って。じゃあ、今は違うのか?」

 そうだと素直に言えなかった。悴む唇は言葉を紡ぎ出せず、沈黙に訴えるばかり。なまえのぎこちなさを察したのか、東はどうしたいのかを問い掛けてきた。いつもだったなら、調子の良いことをすらすらと話せた。おどけるような掛け合いも、大袈裟に甘えることも出来た。それなのに、今年はいつもと違う。なまえは昔のようにじゃれつくことが出来なくなってしまった。

「そうかよ、まったく世話が焼けるぜ」
「な、なんですか、急に、」
「帰りたくねぇんだろ?だったら、今日はウチに呼んでやる」
「……いいんですか、」
「この寒い中を退屈だなんだで、うろちょろされたら困る」
「そんな、私、犬みたいじゃないですか」
「何言ってんだよ。犬みてぇにしょげた顔しといて、今更だろうが」

 いいから、ウチ来い。今日は特別に上げてやる。と白い吐息を漂わせながら、鼻の頭を赤くしている東の言葉に大きく頷いた。ふと気になって自分の鼻の頭に触れると、やはり外気に晒されて冷たくなっていた。すると、その様子を見ていたのか、真隣で小さく笑い声が聞こえ、意識を戻せばそこに人の良さそうな笑みを浮かべている東の姿があった。硬派であろうとするくせに、ふとした瞬間に人の良さが滲み出る性分は彼らしさの象徴であるような気がした。

「ひ、東さんだって、鼻の頭赤いんですからね……!」
「外にいる奴はみんな、そうだろ」
「じゃあ、なんで私の時だけ笑うんですか、」
「ああ?そりゃあ、……なんでだろうな?」

 悪気はねえよ、と上手く躱され、それ以上は追求出来なかった。だが、いつぶりかの戯れに内心穏やかだったのはなまえのみぞ知る、ささやかな隠し事である。それからは付かず離れずの距離感のまま、なまえはちらつく雪を鬱陶しがることも出来ずに肩に募らせながら東の隣を歩いて行く。肩、雪乗ってんぞ。と言われて初めて気付かされる。昔から傘を差すのが下手で、よく肩を汚しては友人にもからかわれていた。懐かしさと共に恥ずかしさが込み上げる。よりによって、うっかりを見られたくない相手の前でしくじった自分にやるせない気持ちを抱えていた。
 背伸びをする訳ではないけれど、いつもの自分ならこんなうっかりはしない。それなのに、雪が降る度に自分の弱さをさらけ出しているようで。雪が降るから、いつもらしくしていられない。でも、雪が降らなければ触れられなかった彼の一面がある。皮肉だった。なまえは自分達は雪が降らなければ、まともに互いを直視出来ないのだと知ってしまった。もしかしたら、そんな不器用は自分一人だけで東は違うのかもしれない。それを確かめる術はない、何故なら今夜は雪なのだ。

「なんつうか、最近はこんなんばっかだな」

 ふと東が発した言葉に顔を上げる。なんの気なしにビニール傘を手にした東は白い息を吐きながら、自分の行く道の先を捉えていた。

「雪が降る日は、ほとんど東さんと一緒に過ごしてますからね」
「まあ、俺も慣れてきたのか、何とも思わねぇけどよ」
「思い返すと、結構色んなことがありましたよね」

 シャルルに駆け込み、雪が降り積もるのを二人して見ていた日。投げ合った雪玉のザクザクとした感触と冷たさ。カプセルトイの景品の内、好きなものを一つだけ持って帰っていいと許されたものの、お目当てのイカが見当たらず、カジキを持って帰った日。近場に引っ越してきたことを告げずにいたせいで、東の機嫌が悪くなってしまった時の居心地の悪さ。突如、高熱を出してしまい、シャルルに行けなかったことを悔やんだ雪の日。押し掛けるようにして見舞いに来てくれた時の、凍えた心がほぐれた感覚。全て、雪の日に起きた東との思い出だ。
 次はいつ雪が降るだろうかと一人で心待ちにする日もあった。普段から関わりがあると言うのに、何故か心から願うのは雪の日だった。この日だけは何かが違う。特別視をしているのかもしれない、雪の日には必ず何かが起きると。良くも悪くも思い出の背景はいつも雪景色だった。誰が言い出したわけじゃない、それでもこうして二人で過ごしているのは、やはり雪の日が自分達にとって特別な意味を持っているからだろう。しかし、今日は違う。今日のなまえは、ひとつ抱えて来たものがある。

「ねえ、東さん。私たちはこれからどうなりますか」

 降り積もる雪のように、彼の胸の内にそっと降り積もってくれるだろうか。例え、行き違いになってしまっても構わない。それはそれで淡雪のような景色を見ていられたのだと納得出来る気がした。東は顔色ひとつ変えるでもなく、視線だけをくれると数秒も経たないうちに前を向き、白い吐息を漂わせた。

「どうすっかなあ。個人的には、よせって言ってやりてぇが、俺も譲ってばかりってのは柄じゃねえ」

 真面目な男の、真面目な心を聴いた。未だ雪を踏み締める自分たちがとても強かで、大人びているように感じられる。躊躇いや戸惑いでさえ、この歩みを止めることは出来ないのだと知ると、どこか心強さに抱かれる。辺りの静けさに救われていた。もし、街の雑踏になど埋もれてしまっていたなら、きっと言の葉の全てを抱えきれなかったはずだ。

「東さん、わたし……、」
「言うな」

 ここから先は男の役目だろ。と制止する東は、密かに傘の柄を強く握り締めていた。それに気付いてしまったのは、やはり傍に居すぎたことの弊害なのだろう。明かさぬ真があるからこそ、美しい一瞬がある。なまえは真っ赤な唇を真一文字に結び付けた。

「みょうじ。こんな俺でよけりゃあ、……よけりゃあ、俺の女になってくれ」

 ようやく、なのか。それとも、今更なのか。どちらとも言えない関係だった。戯れる仲だと言われれば、その通りで。けれど、結んだ仲だと言われたなら、まだ上手く飲み込めず。いつだって雪が降っていた。二人の離れた距離を埋めるように、いつだって雪は深々と降り積もっていた。

「私は東さんじゃなきゃ、駄目です。東さんは、」
「聞くまでもねえ、俺だってみょうじがいい」

 求めることはあれど、求められることはなかった。独り善がりだと感じていたものが、そうではないのだと受け入れられた時のように、今までの苦悩が報われていく。すっかり肌は蒸気し、唇は焦げ付いてしまった。次の言葉がまともに見つけられない。嬉しさから間を繋いでいたいけれど、上手く繋げない自分の不器用さは言葉ではなく、行動を選んでいた。冷たい指先で同じく冷たい手に触れる。傘からはみ出たその腕に触れた雪が体温に溶けていく。ひとりでに握り締めた手を振りほどかずに、ぎゅっと握り返してくれる。このささやかなやり取りが心地よい。

「帰らせる気、ねぇからな」

 じゃれ合いで済ませていたはずの言葉が、いよいよ真剣味を増してくる。どう言った意図でそう言ったのだろう。冗談?それとも、本気?どちらにせよ、もう前のような反応は出来そうにない。結んでしまったから、この手を。明日を。今を。

「……帰るつもりないから、大丈夫です」

 大丈夫、まるでその言葉を自分に言い聞かせるようになまえは呟いた。静寂の間に心臓が喧しく鳴る。大胆な賭けに出た自分が途端に心細くなり、握った手を弱めた瞬間に離れてしまわないようにと、東の見せた物言わぬ強引さに後ろめたい感情の全てを忘れられた。

「体が冷える前に帰んぞ」
「うん、……うん」

 薄膜の斑雪の中を帰路に着いた二人は黙って歩き続ける。雪の日にしか募らなかった思いがようやく形になったのだ、決して道端に落としてしまわぬように大切に抱え込んで。霜焼け気味の胸の内を伏せ、温もりの残る指先を庇いながら、二人は二人だけの帰路に着いたのだった。



| 斑雪 |


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