「なんや自分、こないな所で。一人か?」

 声を掛けられた。髪を耳くらいの高さで切り揃えている、妙な柄のシャツを着た目つきの悪い男に。夕暮れ時の公園のベンチ、物思いに耽るのには最適だった。だからと言って、ベンチに一人座る彼女は物思いに耽っている訳では無い。

「お兄さんは?」
「そない大層なもんとちゃうわ。ただのゴロツキや。」
「どうして声を掛けてくれたんです?」
「どうしてって言われてもなぁ。こんな時間にお姉ちゃんが一人でおったら危ないやろが。」

 見た目の割に優しさを持ち合わせている男なのだと知ると、自然と笑みが零れた。ゴロツキだと言う割には、自分の事をお姉ちゃんと呼び、どうしてと聞けば、こんな時間に一人でいたら危ないと言う。きっとその筋の人間なのに、まるで面倒見のいい兄のように優しいのだから妙な気分だ。いや、もしかしたら、こう言う手口かもしれないと男を見たが、そう言った雰囲気を感じられず、ちゃっかりと自分の隣に腰掛けている、いつの間にか。

「神室町はお姉ちゃんがいつまでも一人でおれるほど、ええ街やない。知っとるやろ?」

 男の言葉に頷いた。その自然な優しさが痛いところを突く。

「せやったら、はよ帰らなあかんで、」

 親切心に背中を押されている。本当にこの男は自分の身を案じてくれるいい男で、けれど、その親切心が痛かった。帰りたくない理由を携えた彼女、なまえにとっては嬉しくもあり、余計なお世話でもあった。男の言葉を最後に黙り込んでしまったなまえを、男もまた黙ったまま見ていた。
 夕暮れが迫る、ここにいるべきではないと。夕暮れが迫る、もうすぐこの街は夜の顔になるのだと。


「……帰られへん理由でもあるんか?」
「え?」

 夕暮れが足を止めた、この男が最後であると。

「まぁ、俺もそう言う時があったわ。気が進まへんちゅうか、嫌気が差すっちゅうか。」
「……お兄さんも?」
「せや。お兄さんも、って事は、やっぱりお姉ちゃん帰りたないんやろ。」

 してやったり、と男の顔は緩む。ついうっかり、となまえは自分の口を押さえる。変な強がりはやめとき。帰れる場所があるんはええことや。と、諭すように背中に触れた腕を払い除け、その腕を掴む。行かないでほしいと力を込めて、男の腕を握り締める。訳ありである事を察した男はなまえに掴まれた腕を無理に解こうとはしなかった。
 呼吸と瞬きで沈黙を繋ぎ、なまえは男に置いていかれなかったことに安堵するが、妙な空気の漂う公園のベンチは居心地が悪い。なまえが図らずも隣の男を止めてしまったからだろう。

「帰る場所がないっちゅう訳やないんやろ?」

 言葉を捨て、なまえはただ頷く。そうか、せやったら、どないしよか、と今度はまるで自分の事のように男が考え始めた。

「お兄さんは帰らないんですか、」
「ああ?人の足止めたんはお姉ちゃんやろが。帰ってもええなら帰るわ。」
「お兄さんは今何を考えているんです?」
「お姉ちゃんの事や。どないしよか考えとる。」

 より深く、その言葉に突っ込んでいくと、男の口から意外な事が語られた。男には兄弟同然のような付き合いをしている人物がいて、その人物に妹が一人いるらしく、その妹と自分が何となく重なって見えると言ったのだ。
 男にしか分からない事情に首を傾げながら、それでも行き場のない感情を抱えて公園に居座っていた自分の事をどうにかしようと考えてくれているのだから、この男に対して有難くもあり、申し訳なくもあった。焦れったい、自分の揺れ惑う心情も、我儘に徹し切れぬ中途半端な自分も。もうやめてしまおうと男に声を掛けようとした直前で、先に男にそのチャンスを掠め取られる。


「いつまでもこないな所おってもしゃあないな。お姉ちゃん、行くで。」

 奪った筈の腕に今度はなまえの腕が奪われた。ベンチから立ち上がり、男に連れられるがままに公園を後にする。どこに行くのかと聞けば、行先は決まっておらず、ただ漠然と歩くと言う事だけが与えられた答えの全てだった。


 ネオンと街の喧騒を潜り抜け、男となまえはひたすらに歩いて行く。行く道を遮るキャッチも、ギラギラと目に痛くていかがわしい店の看板も、二人の足を止める理由にはならず、それらはあっという間に流れて行った。なまえは腕を引かれながら、流れる風景の中でずっと男の妙な柄のシャツを見つめていた。
 見ず知らずの男とこうして神室町を歩くのは初めてだった。変な気も見せず、正直に行く宛が無いからとこの街を適当にぶらぶらと彷徨いている。それなのに嫌な気にならないのだ、野蛮な下心を探る事も、周りの景色からどこかに連れ込まれるかもしれないという警戒心も、要らない。

「お姉ちゃん、名前は?」

 男が尋ねる。なまえは男が一服したいと立ち寄った公園のブランコの上に座っていた。男はブランコの周りの柵に腰掛け、ぷかぷかと口から綿のような煙を吐き続けている。

「なまえ、です。お兄さんは…?」
「俺か、俺は真島っちゅうもんや。」
「…真島さんは帰らなくていいんですか、」
「まぁた、その話かいな。好きやな、お姉ちゃんも。」

 呆れたような顔をして苦々しい煙を吐く真島の姿になまえは名残惜しいと思っていた。二人でいた時間はとても気楽なものだったが、それはいつまでも真島の時間を奪っていい理由にはならない。

「お姉ちゃんがな、阿呆みたいに寂しそうな顔しとんのが悪いわ。気になってもうて、今更一人に出来へんのや。」

 尖った言葉選びではあったが、男が、真島が言いたかったことは全てその一文に含まれていた。

「じゃあ、今の私は、阿呆みたいに寂しそうですか、」

 白煙が弧を描き、こちらを振り返った真島の両目がなまえの顔を捉える。それだけでは分からなかったのか、真島は柵を離れ、わざわざなまえが座るブランコの前までやって来ると、その場で腰を下ろし、なまえの顔を覗き込んだ。苦々しい煙が辺りに漂い、彷徨って、消える。

「ちゃうな。今は俺と一緒におるのが楽しくてしゃあない、離れたないって顔や。」
「なら、真島さんは次に何をしますか。私とまだ一緒に居てくれたりしますか。」
「ええで、」

 あっさりとした返事になまえは驚いていた。真島のシャツの胸元にギラつく喜平ネックレスさえもこちらを見ている、真島の鋭い両目も。今になって心臓が焦り始め、体が熱くなる、緊張だろうか。どくどくと血液を送るのに忙しい心臓の喧しさに毒され、明らかに緊張していく自分を止められない。狼狽えていたのが丸わかりだったのか、真島は笑いを噛み殺すように笑っている。


「なんや、お姉ちゃんは勝負師かなんかかいな。」
「いえ、そんなんじゃ……、」
「せやろなぁ。慣れへん駆け引きなんぞするもんやない、緊張しとんのがバレバレや。」
「…ですね、真島さんの言う通りです。」
「俺やなかったら、お姉ちゃんの余裕勝ちやったかもしれんが、今日は相手が悪かったわ。」

 怖い笑顔をしていた、それなのに不思議と緊張が薄れていくようで、煙草に視線を落としている真島の笑みを残した口元に同じように笑みが零れる。静かに笑っているつもりだった、けれど、ご機嫌やなぁ、と真島の声が聞こえてきて、真島がこちらを見ているのだと気付く。

「やだな、なんでこっち見てるんですか、」
「先にそうしとったんはお姉ちゃんやろ、」
「お姉ちゃん、じゃないです、」
「なまえちゃん、やったか、」
「ちゃん付けなんて恥ずかしいです。それに真島さんにちゃん付けで呼ばれるの、なんかぞわぞわしちゃって、」
「何、我儘言うとんのや、人が気ぃ遣うてんのに。せやったら、もうちゃん付けはやめや。」

 いつの間にか短くなった煙草を靴の裏で捻じ消し、真島は最後の白煙を吐き散らす。

「もう行きますか?」
「そうしたいとこやが、なんせ行く宛が無いからのぉ。」

 爪先のプレートが光る革靴はずっと公園の砂地を踏み締めていて、どこへ向かえばいいのか迷っているようだった。なまえもこの次を考えてみたものの、今の真島と同じように次を見つけられずにいる。迷い続けた先に答えを手にしたのはなまえだった。


「一緒に帰りませんか、」
「あ?帰りたない言うてたのはなまえやろ。それがどないなったら帰る言うことになんねん。」
「まだ真島さんと一緒に居たいので、だから、一緒に帰れば…って思ったんですけど、」

 なまえの提案に真島は目を丸くしたまま固まっていた。それから何度も口ごもったり、あちらこちらに視線を飛ばし、終いにはあっちこっちを行ったり来たりしている。

「まあ、その、なんや…。まだ一緒におりたいっちゅうのは分かった。せやけどな、それはあかんわ。」

 あかん、と口にしたのにも関わらず、なまえの腕を再び掴んだ真島は何かを決心したかのようになまえをブランコから引き剥がすと、とある場所へと向かって行った。



***



「兄弟、これはどういうことや。ちゃんと説明せえ。」
「八百屋のおっちゃんに捕まってもうてな。見てみい、仰山野菜押し付けられたんや。」
「この神室町のどこに、野菜と一緒に女売り捌いとる八百屋があんねや。」
「…えっと、あの、野菜だけじゃなくて、お肉もあるんです。」
「おう、そうか。えらい買い込んだな。せやけど、姉ちゃん、なんで兄弟……真島と一緒におるんや、」
「まぁ、これにはちぃと訳があってな。」

 真島はなまえに声を掛けた冴島を部屋の窓際まで連れ去り、ひそひそと話をする。なまえと冴島の妹である靖子は二人して顔を見合わせると、にこにことした表情で会話をしていた。


「ホンマにどないなってんねや、兄弟。女引っ掛けるんはええが、ウチに連れ込むか?普通、」
「引っ掛けたんちゃうわ、たまたま、出会して、」
「で、なんでウチなんや、」
「帰りたない、言うててな。それで何か土産でも持って、兄弟んとこ行こかってなったんや。」
「帰りたない言うてんなら、自分の部屋に置いといたらええやないか。」
「そないなこと出来るか。それに、俺の部屋は女連れ込めるような場所ちゃうねん!」
「アホか、せやったら連れてくるんやない。ガキでも分かることやぞ。」
「せやから、手土産言うて今晩のメシになりそうな野菜と肉買うて来たんやないか。」
「……あかん、こんなんじゃ埒が明かんわ。」
「ここが俺の最後の良心なんや。堪忍や、兄弟。」
「意味のわからん事抜かしよって…。」

 まさか、惚れたんか?と冴島が耳打ちすると真島は、ちゃうわ、そんなんやない、と返し、たまにはええやろ、と顔を逸らす。真島の見つめた先には笑みを交えながら会話をするなまえと靖子の姿があり、冴島も真島にああ言いはしたが、結局楽しそうな顔をしている靖子となまえを見てしまうと、意外と悪くないと思えた。大きく溜息を逃がし、冴島はなまえと靖子の二人に、今日は兄弟の買うてきたもんで何か作ってくれや。と口にする。

「今日のは貸しやで、兄弟。あの姉ちゃん、借りてもええやろ。」
「ほんなら、俺はビールでも買うてくるか。折角のええ食材なんや、酒でもなきゃ始まらんやろ。」
「だったら、俺も行くで。兄弟には聞かなあかんことがあるからな。」


 せやな、と力なく答えた真島を連れ、冴島はアパートを出て行き、残された二人は沢山の野菜と肉を抱えて、台所へと立つ。そのどちらも冴島兄妹に、どうやって出会ったのか、と質問を投げられることになる、そんな夕暮れ時だった。



| 帰れぬ日の言い訳を |


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