初めて、彼女をこの手でどうにかしてしまいたいと思った。追い縋る姿の、なんと哀れなことか。不自由な体の、なんと哀れなことか。真に繋ぎ止めたい相手は皆、自分の元に留まってはくれない。実らぬ思いの、なんとあわれなことか。酷くやるせなくて怒りが込み上げる。この胸に穴さえ空いていなければ、この体の自由が何一つ欠けていなければ。
心地良さに浸れる時間はそう多くない。瞬きの間に現実に追いやられ、今日も今日とて不随の下肢に絶望するばかり。自分より低い背丈の頭の先を見下ろすことは叶わない。この胸に抱き寄せ、彼女を両腕の中に閉じ込めることは叶わない。共に歩き、彼女の気が済むまで外の景色に溶け込むことすら、叶えられない。最後の砦の岸壁にへばりついている、そんな気分だ。
「あ、あの、怖いです……、」
静まり返った部屋の重苦しさに耐えかねた彼女が、震えた声でこちらを見つめていた。怯えた表情からは先程までの優しげな笑みは消えており、ひどく緊張しているのが見て取れた。彼女は、父である荒川真澄が雇ったヘルパーだった。どこにでも居る、替えの利く女だった。荒川真澄がどのようにして彼女を言いくるめたのかは不明だが、その話を持ち掛けられた翌日、互いに顔を合わせることになったのを覚えている。初めて自分を見た時の強ばった笑顔は、忠実になまえの性格の一端を表しているように思えた。
なんせ、ヤクザの息子なのだ。一般家庭の、青年風情であったならどれほど良かったことだろう。なまえの引き攣った恐れが自身に由来するなどと知らずに済んだと言うのに。しかし、彼女は、根気よくこの部屋に通い続けた。どんなに理不尽さに打ちのめされようとも、刺々しく突き刺さる言葉に切り裂かれようとも。すると、否が応でも自分自身が甘い人間だと思い知らされる。嫌悪の対象である、甘い人間に自分が成り下がっていたのだと。
***
「幾らでこんなこと、引き受けたんだよ」
汚れた皿を流しで洗うなまえの小さな背に問いかける。長い髪をゆるく一つに括ったなまえの髪が揺れた。不思議そうにこちらを振り返り、どうかしましたか、真斗さん。と家事の手を止めては傍に寄ってくる。水の音で良く聞こえなかったのだろう、普通であれば二度目を口にするのは憚られる問いを再び投げた。
「だから、この仕事は幾らだって」
「それを聞いてどうするんですか……?」
「アイツが俺に幾らかけたのか知りてえだけだよ」
「お、教えられないです……。そんなこと、言って良い話じゃありませんから、」
「守秘義務ってやつか?馬鹿真面目だな」
人が生きていく上で避けては通れないのが、金の話だ。特に自分のような、健常さに欠けてしまった人間にとっては。好きで欠けた訳ではない。しかし、現実は何度もその事実を突き付けてくる。誰もがいつかぶつかる壁が、自分の前には生まれた時から幾重にも立ち並んでおり、自力で乗り越えることが出来ない。それがどれほど残酷なことか、分かるだろうか。欠けた自分が今こうしていられるのは、皮肉にも父親の組が成す財力のお陰だと。そのどこにも自身が作用しておらず、生を全うするのに湯水の如く、薄汚れた金を注ぎ込まなければならない。
「真斗さんは、それを聞いてどう思うんですか」
「……なんだよ、偉そうに。説教か?」
「せ、説教だなんて、とんでもないです。でも、」
「でも?」
「私は、自分でここに来たんです。確かにお金の話も大切ですけど、わ、わたしは、」
みょうじなまえは気の弱い女だった。けれど、自分の意思のようなものは臆せずに伝えることがある、不思議な女だった。今の話ですら、馬鹿真面目に受け取って、懸命に自分の思いを訴えている。初めに比べれば、その青臭さや偽善とさえ思える態度に嫌悪感を覚えていた。だが、彼女と生活を共にする内に、その嫌悪感が薄れていくのを感じていたことも事実だった。傍から見れば、理不尽さを強いた時間だと思うだろう。振り返れば、確かに悪いことをしたかもしれない。しかし、いつ離れていくか分からない人間にそこまで心を割く必要は無いと思っていた。それでも、なまえは日々この部屋に通い続けた。自身の、荒川真斗の手足となるべく、通い続けたのだ。
「……チッ、悪かったよ」
「え、……あ、あの、ごめんなさい」
「仕事の邪魔して悪かった、もう戻れよ」
この時、安堵の表情を浮かべて家事に戻ったなまえの姿に、言い表しようのない安心感を抱いたのを今でも覚えている。世の中には一定数、金や権力に靡かずに対人関係を築くことの出来る人間が存在しており、彼女もまたそう言った人間だった。勘違いを起こさず、下手な距離感で近付いてくるでもなく、必要な時に、必要な分だけ手を貸すのが上手なのだと思えた。優しさの正しい使い方を知っている人間、自分の中で唯一だった。
だが、なまえがどれほど優しさの正しい使い方を知っていようが、世の中はヤクザの息子である自分に優しさを与えてはくれない。堂々巡りの自己嫌悪のループに囚われた自分が今更どうして報われるだなどと夢を見たのだろう。ヤクザの息子であることを心から嫌悪していたくせに、そのヤクザが稼いで来た薄汚れた金に溺れ、虚勢を張っているだけだった。どれだけこの世の全てを嫌悪していようが、この世の全てがなければ満足に生きて行けないのだ。
そして、その全てを無下にしてきた報いが自分にそっくりそのまま返って来たのだと思った。
***
「お前、俺が怖いって言ったのか?」
追い縋る亡者だった。生者である彼女が手に入らないと知り、絶望の底に身を委ねようとしている生きる屍だった。一度ならず、二度までも心臓を奪うだけでは飽き足らず、それを粗末にも投げ捨てられたのだ。飛び散る血飛沫は物言えぬこの胸の慟哭だ、未だ息絶えず微弱に生を繋げていく心臓だったものの塊が自分自身の憐れさと重なる。場面は依然として冒頭の通り、重苦しい空気がこの身を突き刺す。救われない、掬われない、すくわれない。
「俺の、何が怖いんだよ」
なまえは恐怖に怯え、両の手を強く握り締めていた。左手の薬指の根元には、密やかに光る指輪がある。気弱な性格であるにも関わらず、はっきりと言いのけたくせに、何故。どんなに理不尽なことがあっても傍を離れなかったくせに、何故。夢乃を除いて、他に心を開けた相手などいなかった。それなのに、何故。何故、別の誰かに容易く掠め取られてしまった。何故、なまえは平然としていられるのか。何故、自分はいつも蚊帳の外なのか。
強い視線を感じたのか、なまえは咄嗟に左手を後ろに隠した。それがひどく腹立たしい。また、また自分から何かが欠けていく。もうこれ以上、何も失いたくないのに強要され続けている。自身が荒川真斗である限り、この地獄は延々と続くのだろう。打てぬ終止符を恨む、それすら打てぬ自分を恨む。胸に込み上げる苦々しさに嗚咽すら覚えるほどに。
「最初から、こうなるって分かってた。所詮はヤクザの息子だ、何もかもが俺の人生の足枷になる」
「そ、そんなこと、」
「そんなことねえ?優しいこと言ってくれるんだな、今日はその引き攣った顔で」
「どうして、そんな目で私を見るんですか、」
いつもの、いつもの真斗さんに戻ってください。
か細い声が胸を突き刺した。心の底から悲しいと言った具合に、彼女は涙する。わざとらしさはなかった、寧ろ彼女らしいと思えるほどに歩み寄ることを諦めていなかった。つくづく甲斐甲斐しい女だった。分かっていた、分かり切っていた。どちらが身勝手であったのか。
「……俺にはもう、お前しかいない」
この意味が分かるだろうか。これは単純な告白などではない。現状況下において、怯えて涙する女に告げるのは場違いな感情ではない。荒川真斗は、『荒川真斗である』ことを棄てる。そのための協力者の目処は立っている。ただ、ひとつの心残りがあることを除いて。それがみょうじなまえだった。彼女を残して、姿を消すのが不憫で仕方ないと考えていた。しかし、現実は足早に彼女の居場所を用意してやれるほど、優しかったのだ。自分とは違う、彼女の為に。
「お前だけなんだよ、俺の傍に居てくれるのは」
告げなかった約束を果たす責任など一切ないと分かっていながら、今はそれがどうしても欲しい。だからこそ、あの指輪が邪魔だった。一体誰が自分から彼女を掠め取ろうとしたのだろう。しかし、最早関係ないのだ。そう、決めたのだから、誰が相手だろうと関係ないのだ。死した人間を娶れるほど、この世界は優しく出来ていないのだ。追い縋り、引き摺り込む。今生では結ばれなくとも、間近に控えた来世で結ばれてくれれば良い。
「……こんな我儘はこれで終わりにする。するから、」
今生の、苦しみの全てを噛み締める。二度と汚泥を啜らずに生きていけるように。不出来な姿では羽ばたけぬと知った。それならば、この体の全てを溶かし、もう一度だけ蛹からやり直すのだ。
「着いてきてほしい、なまえに」
震える声に彼女は手を伸ばしていた。きっと肩にでも添えてくれる筈だったのだろう。しかし、それが良くなかった。無防備に触れてはならぬものがある。今は、自分が、荒川真斗がそうだったのだ。自分へと伸ばされた細い手首を掴み、小さな枷を奪う。なんて粗末な指輪だろう、贈るべき相手を間違えた出来損ない。その刹那、どこかで見たような覚えがあるが、そんなことはどうでもよかった。既に、蛹化は始まっているのだ。だが、なまえの顔は更に涙に濡れていくばかりで、終いには指輪を返して欲しいと懇願し始める。
「お願いです、返してください。すごく大切なものなんです、」
「新しいのなら俺が買ってやるよ」
「い、いらないです、私にはそれがあれば充分ですから……!」
初めて見せたなまえの執着に、気が触れてしまいそうだった。そして、同時にやはりこのまま生きていくことは出来ないと知った。今すぐにでも、捨てなければ。今すぐにでも、棄てなければ。俺と一緒に死んでくれ、と奪い取った指輪を握り締めて告げる。なまえのかけがえのないものはこの手中にあり、選択肢などない。
泣き崩れる女をいつまでも見下ろしていた。どうして、と嘆く女の言葉が他人の声のように聞こえる。どうして。それに答えはない。少しずつ女の声が聞こえなくなっていく。荒川真斗の終わりが近づいている気がした。これから先、女にはどうすることも出来ない現実が待ち受けており、男はその禍根すら引き受ける一心で生きていかなければならないが、これが荒川真斗として最後にくれてやれる愛情のすべてだった。
──── その指輪は、真斗さんからもらった、大切なものだったのに。
誰かの独白が静寂に呑まれていった。か細く上手く聞き取れなかった言葉、誰かを思う女の心をひどく羨む。すべてが一瞬にして終わりを迎えたのだ。女の泣き崩れる光景が、薄情な部屋の静寂が、男の網膜に焼き付いていく。決して忘れられない。男は女を深淵へと引き摺り込んだのだ。誰が彼女に指輪を贈ったのかさえ、思い出せないまま。家事や介護ばかりで荒れた男っ気のない手を憐れに思ったことを、思い出せないまま。
それは冬の、ひどく寒い日のことだった。
| 柘榴 |back