「帰らないでほしい」
特段、いつもと変わらない様子だった。しかし、事務所に取り残されるのを良しと思わないのか、本人の顔は曇った表情のままだ。まるで今にも泣きそうな、心の真ん中に据えた支えが折れてしまいそうな、そんな表情だった。事の発端は十分ほど前に遡る、何となしでスカイファイナンスに顔を出したことが始まりだ。大した用もないのに、ただ一言二言交わしたくて事務所にやって来た。すると、秋山駿は来客用のソファーに寝そべっていたのだ、何ら変わりないいつもの風景である。そのまま帰ってしまおうかと思ったのだが、何故だか帰る気になれず、自分も向かいのソファーに腰掛け、雑誌を顔に乗せたまま眠る、器用な秋山の寝姿を観察していた。
秋山駿とみょうじなまえの関係性で特別なことは何もなかった。男女の仲でもなく、神室町で暮らす同じ住人という薄い関係性だった。しかし、だからと言って人付き合いが希薄という訳ではなく、たまにこうして互いの顔を見に来るくらいには親交があった。なまえにとって、今日もその日常の延長線上でしかなかったのだ。秋山が目を覚ますまでは。
「……あ、えっと、」
普通におはようと声を掛けるつもりだった。飛び跳ねるように起きた秋山の顔に焦燥感と絶望感がなければ。顔に乗せていた雑誌は床に落ち、見開きのページは落ちた衝撃でぐしゃぐしゃに潰れている。秋山は秋山で悪い目覚めと同時に、事務所内になまえがいると知り、急いで目元を袖で拭った。たったその行動だけで、秋山が悪夢を見ていたことが推察出来た。ひどい悪夢だったのだろう、目が覚めた今でも言葉を失ったままだ。
つくづく、タイミングの悪い人間なのだと思った。ここに居るべきではなかった、浅はかな考えに自分を密かに責める。秋山だって、吐き出したい感情を吐き出せずに、目の前にいる人間に気を使わなければならないなど苦痛だろうに。予期せぬ失敗から逃れようと、咄嗟に席を立つと ────。冒頭の通りである。
「でも、その、お邪魔じゃないですか……?」
秋山が次にとった行動は無言で首を横に振ることだった。言葉も交わせないほどに、何かが秋山の喉元をきつく締め付けているのだろう。しかし、いつになく振り絞った様な掠れた声で、迷惑ならやめとくよ。と言う他人行儀な言葉になまえは余計に身動きが取れなくなっていた。どうして、そんな突き放すような言葉選びをするのだろう。今、目の前にしている秋山が全くの別人のように感じられる。一人で勝手に傷心していた、そこまで冷たい間柄でもないだろうに。
「帰りません、わたし」
「……本当に?俺のこと、嫌になっちゃうとしても?」
「帰らないでほしいって言ったの、秋山さんですよ」
「なまえちゃんが思うほど、俺は良い人間じゃない」
初めて見た焦燥しきった姿に、二の句を忘れていた。突き放したい素振りと、それでも離れてしまわぬようにと手を伸ばす躊躇いに秋山駿の弱さが見え隠れしているような気がする。帰って欲しくない、それだけが本心であると願いながら、再びソファーに座する。人は、相手を試そうとする時、欲しいものが得られるかどうかを見定めている。全くの無関心を装いながら、その反面、子どものような幼い顔を、止まらぬ体の震えを隠して。恐る恐る伸ばした手を叩き落とされないか、試している。確かに、そんな秋山はあまり良い人間だとは思えず、寧ろ心外であった。
「大丈夫ですよ。何も言われなくったって、ちゃんとここに居ますから」
試されるような人間であると思われているのが、心外だった。顔色を伺い、聞こえの良い言葉だけを与え、健やかで美しい関係でいなければならない相手だと、思わせていた事実が許せなかった。時に誰かの伸ばした手を無自覚に振り払ってしまうこともあるだろう。けれど、利己的な部分は誰にでも持ち合わせている要素で、それがまた人間を人間たらしめるものであると内心誰もが理解している。
大人になるにつれて、何もかもが複雑になってしまった。簡単で分かりやすかったことが今では絡み合った糸のように難解で固く、人の数だけ答えが用意されている。それに間違えてしまえば、不相応の痛みを伴い、正解だったならば、相応の信頼を得る。そのせいで随分と薄情な世の中になったとさえ思うが、いつだって選択を委ねられるのは自分自身で、その積み重ねが今の世の中なのだろう。ヒトは動物の中で最も臆病な生き物だ。
「……魘されていたんですか、」
「時々、夢に見るんだ。自分がしくじった時のことを」
それ以上を秋山は語らず、なまえもそれ以上を聞くことはしなかった。自分ではその悪夢の芽を摘むことが叶わないと知っていたのだ。結局は他人だった、どれほど距離を縮めようと肝心なところで他人の仮面を外すことは出来ない。だからこそ、黙ったままソファーに座り続けた。帰る素振りを見せない、それだけがなまえに出来ることの全てだ。どうすることが出来ないと分かっていても、知っていることはある。悪夢から覚めると、人は言い表しようのない靄に包まれ、目覚めてすぐのこれからが嫌になってしまうことを。
「ごめんね、面倒くさいこと頼んじゃって」
あまりの沈黙に耐え兼ねたのか、秋山が先に口火を切る。その火花に釣られ、秋山の顔を見れば、先程より些か顔色が良さげに見えた。しかし、口火を切った言葉に何処か寂しさを覚える。自虐的な意味が込められているかのように受け取れるその言葉を選んだのは何故か。この時、沈黙を恐れる理由の一つなのだと知った。皆が押し黙ると、心にもない何かが脳裏を過ぎり、余計なことを考えさせられる。ならば、相手が思いもしないだろう感情や陰鬱な思考を深く読み取った気になることも、そうなのだろう。
「面倒くさいなんてこと、私は思ってません」
「……はは、俺より大人だね。なまえちゃんは、」
「やっぱり、私、帰りましょうか」
なまえは自分でも何故、こう言ったのか分からなかった。寄り添いたい気持ちは確かにあったと言うのに、どうして今、秋山を突き放すような言葉選びをしてしまったのか。虚を衝かれた顔でこちらを見ては硬直している。だが、秋山の目は物語っていた。一人になりたくないのだと。
「どうして欲しいんですか、秋山さんは」
単純に分からなかった。一人になりたくないくせに、人を試すような素振りをする本心が。怒っているのでは無い、ただなまえも知りたかったのだ。秋山が自分にどうして欲しいのか。焦れったい沈黙が事を急いている。帰り際の素振りが秋山に深刻な事態であると伝えてくれたのだろうか、言葉を詰まらせていた秋山もようやく口を開く。
「ひとりにしないでほしい、今だけは」
許しを乞う口元は僅かに乾いて見えた。こっちに来て欲しいんだ。と次を乞えば、なまえは座っていた席を立ち、姿勢を正した秋山の傍に腰掛ける。俺を見て欲しい。と三度乞われ、ゆっくりと視線をスライドさせていく。本当は脈が震えていた、自分は弱った相手を思うがままにしたいと思っているのではないかと。次の瞬間、視界に臆病な瞳が映る。センターパートの前髪の陰りから、その瞳がこちらを見ている。寝起きだからか、乱れた髪の隙間にその瞳がある。ぞくり、と背筋が震えた。
「本当に、私でいいんですか」
「……今はなまえちゃんが良い」
こくり、と頷けば、秋山はようやく終わらなかった悪夢から覚めたように、安堵の表情を浮かべていた。しかし、なまえは未だに鼓動のやかましさに冷静さを欠いている。良からぬことをしてしまった、と自責の念を抱えていると、不意に耳元で声が聞こえた。
「俺となまえちゃん、本当はどっちがここに残りたいんだろうね」
心臓を握り締められていると錯覚してしまう程の衝撃だった。咄嗟に見た秋山駿の顔は、摩耗し、焦燥の色が見えた先程までの顔をしていない。なまえは本能的に息を殺している。ここで思い出す、一体誰が秋山駿は孤独を嫌うと言ったのだろう。思い上がっていたのだ、その報いが男の形をしてやって来たのだ。
「このまま傍にいてよ、なまえちゃん」
果たして、弱みを見せていたのは男と女、どちらだったのか。男の手中に収まってしまった女は二度と人並みの恋愛を望めないことは明白だ。みょうじなまえと秋山駿の、居心地のよい依存関係はこれから始まり、未来永劫続いていくことだろう。
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