みょうじなまえが死んだ ────。
 夏場のどんよりと曇った空に轟く雷鳴のように、彼女の訃報が耳に突き刺さる。一瞬にして思考の全てを奪われ、真っ白に弾け飛ぶ。その時、自分は一体どんな顔をしていたのだろう。受け入れ難い現実を必死に飲み下そうとする、愚かな男のように見えたことだろう。その報せは大道寺のアジトである寺で住職と話し込んでいた時にやって来た。何気ない日常の幕間にたった一人が欠けてしまったのだ。夏の強い日差しに焼けた、畳の淡い黄緑が瞼に焼き付いて離れない。あの時感じた、心臓の迫るような鼓動に形容し難い恐怖すら覚えていた。

『花輪さん、こんにちは』

 鈴の音が鳴る。彼女の声はこの茹だるような暑さを忘れさせてくれる、心地良く響く音色だった。彼女は自分のように組織に属する人間ではなく、大道寺が面倒を見ている稀有な人間だった。彼女の父親は大道寺と古くからの友人で、彼女が父親を亡くしてからは大道寺は進んで生活の援助を行っている。その担当が自分だった。窓口としての仕事を担う他、時々彼女の様子を見に行き、最低限の言葉を交わす関係だった。しかし、組織の人間と言えど、日々繰り返される繋がりに絆されていたのだろう。いつの間にか、彼女との時間は張り詰めた心の緊張を解きほぐす、かけがえの無い時間になっていた。
 トラブルとは一切無縁の場所にいたと言うのに、何故彼女は死ななければならなかったのか。いつまでも答えのない問いを繰り返してばかりで、今までのように感情を割り切り、冷静に対処することは出来なかった。外の轟く雷鳴が、何度も鼓膜に響いて消えないでいる。先程まで呑気に鳴いていた蝉のけたたましい鳴き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。彼女は夏に呑み込まれてしまったのだ、彼女との日々が、繋がりが安穏と続くと思い込んでいた自分を置き去りにして。


***


 次に覚えているのは、真っ白な部屋に置かれた粗末なベッドの上に寝かされた彼女の体だった。ここからは記憶があやふやでまともに覚えていないが、失せ物になった彼女の手が帯びた冷たさだけは今でもはっきり覚えている。青白い肌、細い指先、その指先の爪の色でさえも寒色に染まり、本当に命を落としたのだと告げられているようで。どんなに長い時間、手を握り締めていようとも、自分が分け与えた以上の温もりを宿さない事実に胸をズタズタに切り裂かれ、一瞬の合間に何度も地獄を見た。
 日に透けた褐色の髪が風にふわりと攫われていた。適度に焼けた肌は健康そのものであると告げていた。暑さに喘ぎ、寒さに凍えては何処にでもいる人間と何ら変わらない存在だった。何も特別なものはない、寧ろ脅かされることなど有り得なかっただろうに。大道寺という存在がありながら、何故彼女は死んだのか。死因、死亡動機、何一つ不明だった。ベッドの上で白い布で覆われた彼女は、摘み取られてしまった白百合のように儚げであった。

 そして、最後に覚えているのは、見慣れたアジトの寺で自分が喪に服している時に見た、真四角の箱だった。真四角の厳かな白い箱を膝に乗せ、敷かれた座布団の上で黙って正座をしていた。住職曰く、その真白は全部で二・一キロ程あるのだと言う。みょうじなまえの、彼女たらしめた全ては跡形もなく燃え尽きてしまった。彼女は荼毘に付したのだ。物言わぬ骨だけが残り、本当に骨と化したのが彼女なのかは証明のしようがない。ただ、事務的に処理されていく彼女の変わりゆく姿を目の前で淡々と見せつけられているだけだ。
 よく夏の日にはここに足を運び、見舞いの品や手土産を持って来ていた。日々の援助を有難いと感じる反面、自分には身に余る施しだとも言っていたのが懐かしい。初めはただの稀有な女性程度の認識だった。何も持たず、大道寺の恩恵にあやかるなど、並大抵の幸運の持ち主でないと有り得ない非現実的な話だ。しかし、その度を超えた幸運は女の形をして現れた。真っ直ぐな心根、無邪気で可憐さを秘めた振る舞い、驕らぬ素朴さ、一本、芯の通った気持ちのいい女性だった。

『花輪さん、また難しい顔をしているのね』
『いつものことです。あなただって、何度も見ているでしょうから、もう見慣れたのでは?』
『ふふ、そんなこと。ねえ、住職さん』
『私に振られては困ります。生憎、ただの生臭坊主ですから』
『もう、そんなこと言って煙に巻かないでください』

 そんな彼女が今、たったの二・一キロでしか存在していない。その重さの分しか『彼女』が残っていない。てっきり、自分はとうの昔に人の生き死にには慣れ切っており、身近な人間が居なくなったとて、動揺することなく平静さそのもので居られるとばかり思っていた。だが、自分はそこまで出来た人間ではなかった。平静さを欠き、動揺し、慣れたと思い込んでいた失った命の重みに潰されそうになっている。かつて、何度もこの身に追い縋ってきた手を振り払っていた。それは今も変わらない。変わらないくせに、彼女の追い縋る手を見つけてやれなかったことを延々と責め続けている。
 何故?何が違う?今まで振り払ってきた手と、彼女の手は一体何が違う?自分は組織側の人間だ。組織の命令は絶対だ。なら、彼女の死は組織の命令だったのか?そうではない。飛躍しそうになる思考を僅かな理性で縛り上げる。彼女の死は、偶然だった。運命の気まぐれな事故だった。何度理解しようとしたことか、何度呑み込もうとしたことか。しかし、やはり、自分には出来ない。

『そんな、しかめっ面してたらダメですよ』

 彼女の、みょうじなまえの言葉が色づいて、音を乗せて甦る。大切に抱いていた二・一キロはいつの間にか無くなっていた。目の前に佇む、白百合を見たかと思えば次の瞬間 ────。


***


「……花輪さん、大丈夫ですか?」

 咄嗟に体を起こす。景色は変わらずアジトの寺のままだ。しかし、一つ異なることと言えば、自分の隣にあの白百合が座していたということだ。その表情は不安と心配で曇っており、浮かない顔をしている。

「なまえさん……?どうして、」
「どうしてって、今日伺いますって言ってませんでしたっけ」
「いや、あの、」
「……花輪さん、泣いてるの?」

 なまえの言葉で初めて気付かされる。眼鏡のない頼りない目元が薄らと濡れていることに。微かに震える指先で涙を拭い、急いで枕元に置いた眼鏡を手に取り、レンズ越しになまえを見た。ぼんやりとしか見えていなかった不安と心配が彼女の形をして、こちらを見つめている。

「確かに苦しそうにしていたもの、魘されていたのね」
「……ええ、酷い悪夢でした」
「でも、目が覚めたんだからもう大丈夫……、」

 白百合を抱き締める。臆病な心臓の音を悟られようが、何と思われようが関係なかった。この現実が地続きの悪夢でないことを確かめずにはいられなかったのだ。繊細の茎や葉、花弁を傷めないよう、身を寄せる姿のなんと情けないことか。それでも、この今が夢でないことが何より重要だった。

「……もう大丈夫ですからね、怖くないですからね」


 ──── 野に咲く白百合を手折る。
 これだから、人間であることが嫌になる。たった一人の男が揺らいだ心を持ち直そうと寄りかかったのが、自分より若い女だった。いや、本当は初めて出会った時から勝手に支えにしていたのだ。無関心であることを装って、稀有なほど純真無垢だった彼女を拠り所にして。
 白百合はそう多くない花弁を自ら千切って見せた。その男に罪悪感を抱かせないように。決して、男のせいで千切れたのだと責め立てぬように。花弁に触れる男の手はひどく震えていた。悪夢に白百合を奪われた恐怖は未だ鮮明に焼き付いている。土の付いた白百合は事を終えても、自身を手折った男を責めなかった。恐ろしい悪夢に囚われていただけなのだと、優しくさざめいている。

「きっと明日からは、いつもの日常に戻りますから」

 彼女が言の葉を紡ぐと共に、自分は呪いをかける。

「私はあなたを脅かすものの存在を赦さない。例え、それが私だと言うのなら、私は、」

 口から溢れる呪詛を飲み干したのは、白百合だった。淡く伝う甘露に後悔を覚える。不必要に彼女を、なまえに傷を付けたのは他の誰でもない自分であると思い知らされたからだ。だから、不必要に人を傷付けてはならないのだ。因果なものだ、こうして縁が結ばれていく。無垢な白百合を手折った罰なのだ。

「……一緒に…………くれないと、嫌です」
「分かりました、約束します」
「今なら後戻り出来るかもしれません、」
「いえ、私に選択肢はありません。私に出来るのは、」

 指先が悴んでいる。この時期には似合わないほどに指先が冷え切っていたのだ。目の前の呪詛を飲み干した彼女もまた、凍えて震えている。蒸し暑い夏の日の、刹那の出来事だった。彼女は夏に呑み込まれたのだ、姿の見えない恐怖に駆られた浅はかな男の手によって。
 この百合が百年の歳月を越えることは叶わないだろう。そして、男もまた百年の歳月を許されるほど善良な人間ではない。



| 夏霞 |


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