心臓が震えた。その刹那、言い表しようのない冷ややかな何かを覚えた。手足がそっと静かに冷え切ってしまうような感覚に、とてもよく似ている。二人きりの部屋で布団に横たわる彼女の、口から溢れた無意識に深く胸を切り付けられて動けない。花輪喜平はみょうじなまえの教育係だった、自分に次ぐ後世の管理者として育てる為に。自分を慕う姿ばかりが目に浮かぶ、虚しさを覚えるほどに。一般的に考えても大した一言ではないのだろう。しかし、花輪はその言葉に息継ぎの仕方を忘れてしまう程、切り裂かれていた。

 ──── 浄龍。
 みょうじなまえは無意識に男の名を口にした。その男とは、大道寺のエージェントとしてやって来た元東城会の極道だった。だが、今では過去を捨て去り、エージェントの末端として任務を共にしている相手だ。勿論、信頼の置ける男で、なまえを預けようと思える数少ない人物でもあった。そう、数少ない人物だったのだ。つい、先程までは。
 今回、なまえと浄龍は二人で同じ任務に着いていた。なまえは管理者見習いとして、浄龍は腕の立つ優秀なエージェントとして。二人は無事に任務を遂行した帰りに神室町で飲んでいたのだと言う。その誘いは浄龍からだった。未だ見習いであるなまえの管理者たる働きに、浄龍は良かれと思い、労いの場を設けようとしたのだ。自身と同じ前線に赴き、任務遂行の為に尽力する。管理者として、大道寺の人間として、第一に求められる姿勢だ。その姿勢はアンタから学んだんだろうな、と浄龍は口にしていた。


 二人は他に比べて遅くにアジトへ戻ってきた。神室町で飲んでいたのだ、無理もない。しかし、明らかにいつもと様子が違っていた。なまえは浄龍に体を支えられて戻ってきたのだ。どうしたのかと話を聞けば、飲み過ぎてしまったらしいと浄龍は申し訳なさそうに答えるばかりだった。

「すまねえ、俺が安易に誘っちまったばっかりに」
「確かに不用意な行動は慎むべきでした。しかし、浄龍、あなたの気遣いも分からないでもない」
「頼めるか、みょうじのこと」
「こうなっては仕方ありませんね、私が部屋まで連れていきましょう」
「足元が覚束ねえんだ、あまり無理させないでやってくれ」
「ええ。今日はこのまま休ませますが、明日には私の方からよく言って聞かせておきます」

 では、と会話を切り上げ、意識が朧気ながらも申し訳ないと言った顔をしているなまえを連れて、空き部屋へと向かった。このような状態では楽な格好に着替えさせることも容易ではなく、一刻も早く休ませてやらねばならない状況だった。肩を貸してやれば、なまえもふらつく体で懸命に歩いているのだと知る。大丈夫ですよ、無理せずに寄りかかってくれて構いません。と声を掛けると、小さくか細い声で、ごめんなさい。と聞こえてきた。
 謝る気力も今はないだろうに、その絞り出した声のか細さに表面的な付き合いの長さを知る。組織の一員である以上、時に深く過去を詮索する場合がある。ただ、なまえには特筆すべき注意事項も、表社会での経歴を見ても危険要因のない人物だった。そして、日陰者として生きる組織の人間は私情を挟む余地などなく、事務的に任務を遂行することが最優先だった。

 いつ居なくなってもおかしくないと分かっていながら、割り切れない甘さを抱えている。もし、そこを悟られ、弱みとしてつけ込まれてしまったのなら、自分を含め、なまえにも浄龍にも明日はない。仮に一命を取り留めることがあったとしても、非情にも『不本意』を強いられ、ただの傀儡と成り果てるだろう。それだけは避けたかった。甘い、甘過ぎる。組織と個人の認識にズレが生じるようになってしまったのは、意地でも信念を曲げない男と真っ直ぐに自分を見つめてくれている女と出会ったからに違いない。信頼に足る人間を、自己を抹消してから見つけるとは何とも皮肉なことである。

「あなたもたまには柄にないことをするようです、意外でした」

 返事はない。酔いも回っていることから、認識能力が劣るのだろう。ただ自分に向かって聞こえてきた声に反応して、こちらをぼんやりと見つめているだけだ。赤みの残る顔の、幼さすら感じられるあどけなさに口を噤む。今まで、一度も見ることのなかった顔を今日になって初めて見た。肩を貸す自分の胴体に手を当て、頼りきりになってしまわぬようにと無意識の気遣いを見る。よくできた人間だ、自分なんかよりとても人間らしい女性だ。浄龍にでなければ打ち明けられなかったこともあるだろう、それは自分も全く同じだったのだから。しかし、僅かに沈んでしまうのは、やはり自分が日陰者たる所以なのかもしれない。

「今晩はここで休んでください」

 それから間もなくして、布団の敷かれた部屋へ入り、ふらつく体をゆっくりと布団の上に座らせた。膝を着き、手を着き、腰を下ろすなまえに心配が勝って目が離せない。同様に畳に膝を着き、なまえと変わらない目線で声を掛ければ、うつらうつらと微睡む瞳があった。もうそろそろ限界を迎えるだろう彼女に、もう一度だけ声を掛ける。

「ご気分はいかがですか。何か欲しいものがあれば、言ってください」

 ふるふる、と力なく首を横に振るなまえの上着を脱がせると、気だるそうな体を優しく横たわらせ、そっと掛け布団を被せてやる。とりあえずは肩までそれを掛けてやれば、なまえは意識を手放す間際に小さく、ありがとうございます、花輪さん。と口にした。だが、なまえの表情は浮かないままで、酔っているとしてもこの現状に薄々勘づいているのかもしれない。

「今夜はもう構いませんよ。ゆっくり体を休めてください」

 熱を出した子供のように赤く色付く頬を、骨張った指の背で撫でた。その頃にはすっかり眠りに落ちたなまえの寝顔があり、張り詰めた胸の内が徐々に弛緩する。酔いが回っている状態と言うこともあり、花輪はなまえが眠りについてから数分はこの部屋に留まり、様子を見るのが良いだろうと畳に座していた。その間は無言を貫いていたが、複雑な心中は晴れることのない霧に包まれたままだった。布団からはみ出した腕をそっとしまってやり、なまえの表情が曇っていればその背中をさすってやった。そうすることで、僅かに晴れる思いがあるが、所詮一時凌ぎでしかなく、本当の意味でこの胸の霧は晴れることを許されなかったのだ。
 もう頃合いだと、腕時計に目を落とす。これ以上、長居する必要がないことからその場を離れようとした時だった。ごそごそと布地の擦れる音がして、花輪は振り返る。障子に掛けた手を引っ込め、視線の先にあるなまえを見た。すると、上半身を起こしてぼんやりとした顔をしていた。中途半端に目が覚めてしまったせいか、ぼんやりとしたままで無口を貫いている。花輪は急いで傍に戻り、再びなまえの体を横たわらせた。

「全く、あなたって人は……。しっかり休んでください、これじゃあ明日に差し支えが出る」

 意識がはっきりとしていない内に眠りにつかせる。そうでもしなければ、明日とんでもない頭痛に呻くのは彼女だと花輪は入念に言って聞かせた。再び横たわらせてから程なくして、なまえは二度目の眠りについた。花輪は三度目の心配をしていたが、すうすう、と寝息を立てて眠るなまえの横顔に、その心配はいつの間にか鳴りを潜めていた。これだから放っておけないのだと、口にはしないものの、花輪は自分が何故、みょうじなまえに甘いのか、その一端を知る。すると、不意に声が聞こえて来た。初めはもごもごとしており、上手く聞き取れない。しかし、耳を傾けている内になまえの口が編んだ言葉の形の全貌を耳にすることとなる。

「──── 浄龍、」

 花輪は、自分からしてみればなんてことの無い寝言としか思っていなかった。しかし、なんてことの無い筈のうわ言で、名を呼ばれた男のことを考えるのに時間はかからなかった。思考がぐるりと一周する。晴れない胸の霧が勢いを増して、黒くとぐろを巻く。なまえの傍に今度は正座で座すると、ぽつりと問い掛ける。

「やはり、あの人は他者を惹き付ける強い光を宿している」

 眼鏡の奥で瞳が曇る。花輪自身を除いて、この苦々しい口元を知る人間はこの部屋にはいない。

「みょうじさん、あなたもそうなのでしょうか。あなたも、桐生一馬の亡霊に惹かれて」

 届かぬ独白を続ける男には、まだ知らないことがある。みょうじなまえが浄龍に酒の席で明かした、自身の教育者であり、優れた管理人である花輪喜平への憧れと、身の丈に合わないほどの個人的な感情を、皮肉にもこの時の花輪は知る由もない。ただ、いつまでも名を呼ばれなかった一瞬を延々とサルベージし続けている。同じく名を消した男として生きる花輪は、ただひたすらに『桐生一馬』という存在がもたらす呪いをまざまざと見せつけられたような気がした。
 もし、自分が『桐生一馬』であったなら、目の前には無限に選択肢が広がっているはずだろう。しかし、花輪喜平はあくまでも『花輪喜平』でなければならない。それが今を生きる理由になっているのだから。ないものねだりなど、いつぶりだろうかと思いを馳せると同時に、よく出来た理性が行き場のない感情へ歯止めを掛けていた。夜が更けた今、何事もない顔で明日を迎えることをひとり恐れている。



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