かつて、西谷誉は鬼を娶ったのだと言う。この時代に、一体、誰がこのような戯言を真に受けると言うのか。どたどたと騒がしい足音がとある部屋の襖へと近づいて行く。開かずの間と呼ばれる、近江連合本部で異質なその部屋に無断で立ち入ることは許されない。たった一人、鬼仁会の『西谷誉』を除いて。しかし、今日、その開かずの間へと侵入を試みようとする男がいた。勢いのまま、乱暴に襖に手をかけた先には、大きく開かれた窓辺の満月、部屋の片隅に置かれたたった一本の火が灯る蝋燭。そして、広く持て余した畳に臙脂色の美しい着物を垂らして夜酒に興じる女の姿があった。
「お前か?開かずの間に棲む鬼ってのは」
鮮やかな青地のスーツを纏う傍若無人な男の、彼女の部屋の畳を踏み荒らす白い革靴は止まることを知らない。粗末な扱いを受けた畳を憐れむようにようやく着物の女は振り返る。薄らと彩られた赤の目元、気の強さが伺えるきつく閉ざした口元、女が鬼であると信じ難いほど細く白い首元。
「あんた、こないなところでなにしてんの、」
凛とした声音、女を見下ろしている男の異様さにもたじろがず、堂々とした態度で女は告げた。男は女の態度が気に食わなかったのか、腰を屈めては嫌でも目線が重なり合うように女の顔を覗き込む。端正な顔立ちをしている男の浮かべた笑みはどこか厭らしく、まるで眼前の女を品定めしているようであり、反対に着物の女は外面の良さとは裏腹に、射抜く眼光に密かに怒りを滲ませている。
「俺はお前に会いに来た。近江の古参幹部が昔から匿っている女とやらにな」
「……あんた、名前は?」
──── 西谷誉。
着物の女はその名を耳にした途端、神妙な面持ちで近くの蝋燭の火を細指で摘む。微かに肌の焦げた匂いが鼻を突く。唯一の火を失い、部屋は満月の月明かりに照らされている。だが、その月明かりも雲に遮られるとすっかり夜闇に塗り潰されてしまい、着物の女の顔は見えないでいる。男は再び立ち上がると、女の影を見下ろし、懐から一本の得物を取り出した。その刹那、影は瞬く間に男に襲い掛かり、次の瞬間には男を畳に組み敷くと女は深い翳りの中で口を開く。
「そんなんじゃあ、私は殺せへんよ」
「やってみなきゃ分からねえだろ、どけよ」
「馬鹿な子ほど可愛いってこの事やろか」
「普通はさ、逆だろ?女が男を下にするんじゃなくて、男が女を下に敷くんだよ」
男は手にしたままの得物の鞘を抜き、鋭利な切っ先を女の影目掛けて振突き立てた。頭、首、肩、腕、脇腹、胸、何処を穿ったとて構わない。ただこの一撃が女にとっての脅威になれば良いと、西谷誉は手にしたドスを確かに女の柔い肉に突き立てたのだ。しかし、けたたましい悲鳴は聞こえない。手応えは確かであるくせに、男を組み敷く女は依然として男の上に居続けている。それに留まらず、女の影は姿形を変えているように見えた。見通しの悪い闇の中で蠢くのは、女の頭蓋を撃ち抜くように伸びる二本の角。骨の軋む音が響き、男は息を呑む。夜風に雲が攫われ、ようやく月明かりが部屋を照らし出す。
枝垂れ柳の長い髪、目に突き刺さるほどに美しい臙脂色の着物、真冬に深々と降り積もる淡雪の肌、瞳は黒地の金色だった。感嘆の溜息、男の頬は紅潮に照る。手にしたドスの行方は女の脇腹に収まっていたが、流血の跡はない。女は男のドスを握り締める手に自身のを重ね、突き立てられたドスをゆっくりと引き抜いた。目線は決して逸らさず、紅に染まる刃先を体内から引きずり出して行く。ぐちゃ、ぐちゃ、と悪戯に肉を引っ掻く音、その後は静寂だった。
「私を組み敷けるのは、夫だけや。それも私が愛した、あの人だけ」
女は、かつて西谷誉が娶った鬼だった。手にしたドスは愚直に赤く滑り、鈍く光る。再び切っ先が女の体より出でる時には、組み敷かれていた男の様子が変わっていた。呼吸が荒い。暗闇の目潰しの中でもはっきりと分かる。掴んだ男の腕が熱く感じられる。何より、暗闇であると言うのに女を見据える男の目線に妖しい光が灯る。何かがおかしい男の顔を真上から覗き込み、様子を伺う。
「なんやの、さっきから黙り込んで。だらしのない……」
「お前は、本当に西谷誉の女なんだよな」
「そうです、あんたやのうてね」
「──── いいや、今は俺が西谷誉だ」
骨抜きってヤツだよ、お前、噂以上にいい女だな。いや、いい鬼か?
予想外の一言に鬼は言葉を失う。絶句していた、唖然ともしていた。真下にいる男の命を掴んでいると言うのに、この期に及んで色恋の類を口にするとは。ふと、懐かしさが込み上げてくる。気の所為だと、鬼は靡きもしない。しかし、真下の男は違う。端正な顔を歪ませて愉快で心底堪らないと笑みを浮かべているのだから。
「なあ、本気でアンタに惚れてんだよ。名前くらい教えてくれたってバチは当たらねえだろ?」
「呆れた人、何考えとるん?」
「……初めてだ、こんな女。本物の鬼、」
「ええから、さっさとこの部屋から出てって」
女の呼び掛けにも一切応じない男を置き去りに、その傍を離れていく。乱れた着物を直しながら、再び窓際に腰掛けると溜め息混じりに男を見た。男、三代目である西谷誉はと言うと、ゆっくりと体を起こし、先程まで手にかけていたドスの赤く照る刃先を恍惚の表情で見つめている。そして、一言『決めた』と口にしては興奮冷めやらぬまま、女の正面へと再び近付いていく。
「アンタをこんな所に閉じ込めとくのは勿体ねぇ」
西谷は女にギラついた瞳を向ける。何か良からぬことを考えているのだろうが、女は全くそそられない。ええ加減にして、言うてるやろ。と強く突っぱねれば、目を丸くして不敵に笑うばかりだった。
「そのキッつい顔、本当に好みだよ」
「誰がキッつい顔やって?」
「正直、見てくれだけの良い女なんかどうでもいい。アンタみたいな引き攣った顔見せてくれる女の方が唆る」
「これが三代目やなんて、ウチも落ちたもんやね」
一方通行を皮肉で打ち返そうとも、依然として西谷には通じない。確かに『西谷誉』の名を継ぐ相手としては相応しいのだろう、昔を断片的に懐かしめるほどには共通点もいくつかある。しかし、だからと言って目の前の『西谷誉』の言葉を聞き入れてやれるほど、『西谷誉』に盲目的ではない。
「じゃあ、どうしたら俺の所に来てくれんだよ?」
「私はこの部屋がええ。せやから、アンタの所なんぞ、行かれへんの」
「何が欲しい、金か?男か?それとも、気に食わねえ奴らの首か?」
「そないなもん、並べ立てても行かん」
「……なあ、俺ぁ本気だぜ」
不敵に笑う口元から飢えが見え隠れする。どうしても欲しくて堪らないのだと心底、女に陶酔しているのが分かった。聞き分けのない子どものように、ああだこうだと駄々を捏ねて一欠片でも欲しいと喚いている。正直なところ、三代目であるこの男の所業は小耳に挟んでいた。先代である二代目の下で口にするには憚られるほどの行いをしてきたことも周知の事実だった。病的に渇望しては飢えを満すまで執着する姿には、やはり重なる部分があった。
女が聞き分けのない子だと口にしようとした瞬間、右手に違和感を覚える。やんわりと触れる柔らかな指の腹。音もなく手の甲に寄せた西谷の薄づきの唇。そっと触れるだけの口づけを落とした男の、狂気すら孕んでいる両の瞳。時代は違えど、どうしてこうも面影を見てしまうのか。ふと、当時は描きもしなかった未来を口惜しく思った。もし、子を成していたなら、と考えて止める。くだらない弱音を口にしてしまったなら、地獄で待つあの人に顔向けが出来ないと女、なまえは密かに下唇を噛む。
「ほんまに馬鹿やね、アンタは」
パン、と軽く弾ける音が部屋に響いて消えた。なまえは西谷が口づけを落とした手の甲で、西谷の右頬を軽く叩く。なまえの真意を察したのか、西谷はどこか満足そうになまえの手に触れると、今度はこっちにビンタさせてやる。となまえが敢えて選ばなかった左頬に添えた。
「ほんなら、期待せずに待っときましょ」
「絶対にここから連れ出してやる、楽しみにしてろよ」
覚えとったらね、と男と女のつれる、つれないの応酬。西谷は名残惜しそうに、しかし、確かに闇の中でなまえの姿を捉えたまま、部屋を後にした。夜風に吹かれながら、なまえは思いを馳せていた。自分が人の子として生きた半生、鬼に転じて男の伴侶として生きた余生。その余生は今も尚、続いている。一九八八年に命を落とした夫の後を追うつもりだった。だが、組の人間が残党と化した現実に、無条件に命を絶つことは出来なかった。鬼仁会はかつて彼の人がいた場所、その子分らは彼の人が盃を交わした人の子達。行く末を見届けずには居られなかった。出来ることなら、全てが無に帰すその時まで生き、そして、死した後には、地獄の淵で彼の人に笑い話にでもして耳打ちしてやりたい。
「ここで簡単に着いて行ってもうたら、あの人、収まりがつかんくなるからね」
時代は極道を人として見なくなって来ている。この命の終わりもそう遠くはないのだろう、あの男、三代目である西谷誉は自分を何処へ連れて行くつもりだったのか。いつも肝心の相手が居なくなってから気持ちが揺らぐのが、なまえが人間の頃からの悪い癖だった。しかし、こうも思うのだ。『西谷誉』の名を継ぐ者なのだから、きっとすぐにでも顔を見せに来ることだろう、と。あの、並々ならぬ執着の塊のような男のことだ。今度もまた馴れ馴れしくこの部屋の襖を開けて、畳を踏み荒らすに違いない。その時には駄目な人と口にして、またあの右頬を軽く叩くのだ。
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