行き詰まっている心情、別の誰かと全く同じ形の幸せでは満足出来ないからこそ、分からない。時にはケーキを口にした日を、時には母の作る夕飯の包丁がまな板を叩く音を、時には夢中になれる何かを見つけたことを。幸せと呼んでいた頃には戻れないと内心、分かっている。幸せは時を超えてはくれない、同じ熱量で存在し続けられない。宝物もいつしかただの子供の頃の憧れであったと知ってしまう。曇ってしまった、当たり前だと思っていたものを見失うくらいには。綺麗だと大切に隠し持っていたのは宝石などではなく、ただのガラス玉だった。
「充分じゃねえか」
そう口にするのは、隣で風に髪を撫でられている男だった。まるで、彼自身の人生がそうであったかのような物言いだ。だからか、名を呼べぬもどかしさを風に攫われていた。すっかり軽くなった気持ちに気付けず、まだ悩んでいるのだと小難しい顔をしているのは、男と再会した女である。
「小さい頃はキラキラ光るものは全部、宝石だと思っていたのに、今じゃそれが何なのかさえわかってしまうのが寂しくて」
幼くあどけない子供の頃、この世界は全て宝物で出来ているのだと思っていた。突き抜けた広さは清々しく、底なしの青さはどこまでも透明で、胸いっぱいに吸い込む空気も限りなく澄み切っていた。誰かがその手で作り上げたものはみな魔法で、自分以外の誰かとの意思疎通は奇跡だった。何もかもが新鮮で愉快なほど、未知に満ち満ちていた。眠りに落ちる前に読み聞かせてくれた物語のように名残惜しく、まだまだ聞き入っていたい愛おしさに包まれていた。遠い昔の、小さな自分の世界は不可思議で愛すべき尊い世界だった。
昔、よく背伸びをしていた。爪先だけで立ち、ほんの少しだけ足りぬ背丈を補うように。しかし、背伸びの本当の意味を知ると、その仕草を好んでいた理由を忘れてしまった。一つを知れば、一つを失う。そうして、人は幼い頃に大切にしていた世界を去り、全てが文字で形作られた無機質な世界で生きている。かつての未知は不可思議のままではいられず、それぞれ適切な言葉を与えられ、世界の全てがラベリングされてしまった。
「そうだな、確かに今は何でもかんでも答えが用意されてる」
「答えを知ってしまったら、もう元の私には戻れないじゃないですか」
「知りたくねえもんまで知っちまうこともある」
「自分の歩幅で歩いていくことも難しくて、」
「……大変だったんだな、あの後から」
「ううん、別にいいんです。怒っても恨んでもいませんし、大人ですから」
でも、突然会いに来るからビックリしちゃいましたよ。……覚えていてくれたんですね、住所。
男は女の家の庭先で佇み、体のあちこちを通り抜ける風に好きにさせている。女は見慣れた庭先がいつもと違う風景であることを内心喜び、しかし、行き詰まってしまった自身の生き方に疑問を抱いていた。かつて、人は幸福であった。だが、誰もがその幸福の形を覚えておらず、直面する現実に心をすり減らしている。女も、みょうじなまえもその一人だった。
「見慣れないコートと鞄、最初は知らない人だと思ってました」
「やっとゆっくりする時間が取れたんだ、格好なんざ気にしてられねえ」
「変わらないんですね、全く」
それが嬉しいのだと言うように笑うなまえを、見慣れぬ装いをした男は懐かしく思う。名を捨てた男は、桐生一馬ではなく、鈴木太一と名乗っていた。なまえは理由があるのだからと、男のことは鈴木と呼んでいた。いつの日か耳にした、捨ててしまったものは帰ってこないけれど、失くしたものなら戻ってくるのだという言葉を密かになぞる。また一つ、この世界の不思議に触れた気分だった。どうして、無慈悲に奪い去るくせに、ふとした時に与えてくれるのだろう。この世はそんなことばかりだ。
「忘れるつもりだった、俺に関わった奴らの為にも」
「……こう言う時は、忘れられなかったって言うんですよ」
「それに、そう簡単には忘れてくれそうにないと思っていた」
「わたし、しつこい女ですもん」
「それがなまえの良いところだ」
良いところ、と耳触りのよい言葉を反芻する。足りなかった自分の中の何かが満ちていく感覚を覚え、なまえは薄らと笑う。好きで欠けたわけではないが、いつの間にか、自然と角が取れていった。誰かに望まれたことも、請われたこともなく、今日を積み重ねて生きていく内に、大切に思っていたものが少しずつ丸みを帯びて取れてしまったのだ。好きなように生きていくことの難しさを知った。不可思議で愛すべき尊いはずだった、世界の正体を見抜いた気になっていた。しかし、ふとした瞬間に。例えば、心より大切な人と言葉を交わしただけで、見えなくなっていた世界の姿をぼんやりと思い出すのだ。
「もっと早く来てくれたらよかったのに、」
「こう見えても、忙しくしてたんだ」
眉間に刻まれた皺が浅くなったように見えた。なまえにとって大切な相手であった鈴木は、心地良さそうに風に吹かれながら踵を返す。
「なあ、やっぱり充分じゃねえか。これ以上、何がいる?」
幸せとは、一体どのような形をしているのだろう。宝物とは、一体どのような物を指すのだろう。自分の望んだ形をしていなければ、幸せと呼べないのだろうか。宝石に見間違えたガラス玉では、宝物になり得ないのだろうか。
風がそよぎ、陽だまりの庭先でなまえは自分より大きな影にすっぽりと覆われていた。顔を上げて、その先の景色を見る。泣きたそうに見える、穏やかな笑みを浮かべる ────、
「桐生さん」
示し合わせた答えは、全てが様変わりする前の過去だった。その頃の鈴木太一は桐生一馬で、みょうじなまえは夢見がちな若き女性だった。なまえは桐生に強く惹かれていた。桐生はそんななまえに本気になるなとあしらっていた。まるで、あの頃と寸分違わない姿で二人は向き合っている。そして、気付くのだ。大切なものは全て失くしてしまったと思い込んでいただけだと。本当は大切に後ろ手に隠し持っていただけで、ガラス玉でも立派な宝物だったのだと。きっと、桐生は先にそれに気付いたのだろう。
「失くしたふりはもうやめだ。今ここに、目の前にちゃんとある」
声が震えている。それはどちらもがそうだった。暖かな陽だまりの中に留まり過ぎたのかもしれない、大人は察しのよい生き物だ。だから、あるはずの無い海辺の潮風の香りが、涙の匂いと同じであるとすぐに察してしまう。胸を、声を、言葉を詰まらせて、再会を喜ぶ。
「桐生さん、泣いてるんですか」
「ああ。柄にもなく、な。そう言うなまえも、目が赤い」
「だって、今の桐生さんがすごく素直だから」
「今までは違うのか?」
「うん、全然素直じゃなかった」
「耳が痛いな」
数十年ぶりに背伸びをする。今になって足りない背丈を補いたかったのは、目の前の奇跡を抱き締める為だ。思い切り、精一杯、力の限り、強く抱き締める。桐生は手にしていた鞄から手を放すと、いつになく優しくなまえを抱き締め返した。触れることの出来なかった過去までも受け止めるように。言葉で伝え切れない思いを分け与えるように。生きていくことは酷く険しく、困難な道のりである。しかし、生きていくこととは心の在り方を、幸福を探す旅でもあるのだ。決して簡単に切れない縁に繋がれて、交わり、別れていく。痛みと喜びを引き換えに。
「ただいま」
解けた腕の隙間を縫うように、陽だまりを背にして頬に唇を寄せる。高過ぎた背丈はどこか窮屈そうに見えた。身を屈めた桐生はなまえの涙で濡れた頬に触れたのだ。外だからと長くは続かないキスになまえは心底嬉しそうな声で、こう言った。
「おかえりなさい」
自由に空を行く鳥達の羽ばたきが、自由に吹き荒ぶ風音が、息を吹き返したかのように高鳴る鼓動が、この時だけは世界の祝福の音色のように響いていく。
| 0と1の福音 |back