真島吾朗に甘やかされる「みょうじ様、ただ今お迎えに上がりました」
家のチャイムが鳴り、普段と変わりなく玄関ドアを開けてすぐがこれである。名を呼ばれたなまえはドアの先にいた男の、恭しい振る舞いに驚きを隠せない。綺麗に磨き上げられた黒い革靴の爪先は白銀が控えめに輝き、皺一つないタキシードは出迎えた男の誠実さを表しており、端正な顔付きである男の隻眼が凛々しさを物語る。一つに括った黒髪が流線を描き、黒々とした髪が艶めく。切れ長の目で自身を捉えるのは、あの蒼天堀一とされるキャバレーグランドの支配人である真島吾朗という男だった。
何故、そのような相手が今宵なまえの元にやって来たのか。それは数日前へと遡る。ある日、突然自宅の郵便受けに見慣れぬ封筒が入っていた。差出人は真島吾朗。端的に言えば招待の手紙で、場所は法眼寺横丁にあるサンシャインというキャバクラだった。そこになまえを招いて、大切なひとときを過ごしたいと書き連ねられていた。しかし、なまえからしてみれば、知らない仲ではないが、キャバクラに招待される理由が分からない相手だ。
「……真島さん?」
「はい、どうされましたか」
「あの、私、」
「今日のお姿、とても綺麗ですよ」
図らずも真島の口から出て来た甘言に、なまえは頬が熱くなるのを感じた。真島の言葉も、なまえの装いも普段通りのものではなく、今日の為に特別に用意したものだ。真島が彼女をサンシャインに招待した理由も、なまえがドレスコードになぞらえて華美なドレスに身を包んでいる理由も、全ては今日の為だった。
「真島さんに面と向かって、そんなこと言われるなんて思ってなかったから、」
「本当によくお似合いです、メイクもヘアセットも全てみょうじ様の良さを引き出している」
「そ、それに、みょうじ様だなんて、いつもそんな風に呼んでなかったじゃないですか、」
「大変申し訳ごさいません、本日の私はみょうじ様のボーイ役でございます」
「……ボーイ役って、」
なまえと真島は以前より親交がある。路上の酔っ払いに絡まれているなまえを真島が仲裁に入り、事なきを得たことがきっかけだ。丁度、なまえの職場の帰り道にグランドがあるからか、たまに帰路を共にしている。グランドの屋上で煙草を吹かす姿を見かけた日には、軽く手を振り合えるほどの付き合いだと言うのに、真島のこんな姿は初めて見るものだった。几帳面な蝶ネクタイなど、外に出れば直ぐに外し、窮屈な首元のボタンを外しているような相手だった。しかし、なまえの目の前にいるのは、あのキャバレーの支配人である真島吾朗のような気がした。
なまえには分からないことだらけだったが、一つ分かるのはこのコーディネートは上手くいったという事だけである。真島の声に誘われるよう、なまえは予め出しておいたヒールに足を伸ばす。すると、突然真島が玄関先に膝を着いたかと思えば、片方のヒールを手に持ち、どうぞ、肩にお掴まりください。と待ち構えている。一人で履けると伝えたものの、真島はそれを譲らず、これは私の我儘です。とまで言い切って見せた。そこまで言われてしまってはなまえも無下に断れず、真島の言葉に甘えて肩に手を添え、片足を恐る恐る伸ばしていく。
「ご心配には及びませんので、力を抜いてください」
左足、右足と順に靴を履かせていく真島の、手が爪先や足の裏に触れる度に、なまえは慣れぬ緊張感と羞恥心を抱いていた。男性特有のごつごつとした手が、割れ物を扱うかのように繊細に触れる。一方でなまえは、普段見下ろすことのない相手の献身を目の当たりにし、動揺していた。ほつれることなく束ねられた長髪の、ゴムの根本を見ても落ち着かず、手を置いた肩の男性らしい逞しさに気を取られ、やはり落ち着いていられない。そもそも、普段とはまるっきり違う真島となまえの置かれている状況に、冷静に対処出来るはずがなく、なまえはただ真島の言う通りにする他になかった。
「では、参りましょう」
柔和な笑みを浮かべる真島に手を引かれて、家を後にする。褒められたばかりのドレスでは外気が冷たく肌に突き刺さっていた。それを察してか、真島は手配したタクシーに乗り込むよりも先に上着を脱ぐと、さも当然であるかのようになまえの肩を覆い隠した。咄嗟に真島を見れば、私以外の方の目に触れるのが惜しくなりました。と歯の浮くような言葉を並べるものだから、なまえはその上着を遠慮することなど出来なかった。悪い気はしないが、どうしても慣れない。慣れないながらも嬉しいのは本心で、連れられるがままにタクシーに乗り込んだ。
「どうして、今夜の真島さんはこんなにも良くしてくれるんでしょう」
単なる疑問だった。未だになまえは自身が真島にエスコートされている現状が分からない。今に至るまでも明かされず、ただただ戸惑ってばかり。仮に真島が何かを期待しているとして、なまえはそれに応えられる自信がない。種の明かされないマジックほど魅力的で後を引くが、底の見えぬ何かに恐ろしくも感じるのだ。
「それはこの場では明かせませんが、私もたまには誰かの為に動いてみたいと、そう思ったのです」
「誰かの為に?」
「ええ、青臭くてお恥ずかしいですが、その通りなのです」
「……それなら、私が遠慮がちでいることは、真島さんにとって良くないことなんですね」
「お付き合いいただけますか、みょうじ様」
「はい、私で良ければ」
ありがとうございます。と艶やかな声音が耳に響き、なまえは、ピン、と伸ばしていた背筋の力を抜き、ようやく後部座席の背もたれに体を預けることが出来た。しかし、真島は見逃さなかった。なまえの態度が軟化したこと以外に、なまえが真島に掛けてもらった上着に皺がつかないよう、優しく掴んでいたことを。いじらしさに溢れそうになり、急いで飲み干す。なまえは車両の窓から覗く、サンシャインへ続く道を目線でなぞっている。ぐらついたのは、どちらなのだろう。二人は大人しく口を噤んで到着の時を待っている。
***
それからタクシーは真島の合図で路肩に停車し、二人を下ろした。なまえは真島の上着を羽織ったまま、真島は一方的に支払いを済ませ、なまえの体が冷える前に店の中へと連れていく。再び手を引かれ、煌びやかな照明の眩しい店内へと進んでいく。先程まで頼りないヒール音が響いていたことも忘れて、フロアの赤いカーペット地の床を踏み締めていた。サンシャインのフロアはテーブルが六席あり、あとはカウンター席が設けられているのだが、テーブル席の中で一つだけ花が飾られている場所があった。
あちらの席です。と添えた真島はいよいよ、店のボーイのように見える。花が彩られたテーブル席に通され、なまえはゆっくりと腰掛ける。そして、今まで体を温めてくれていた上着を真島へ手渡した。真島はそれを受け取ると、極めて静かな動作で上着に袖を通す。手早くボタンを留め、身なりを整えると遅れて腰を下ろす。
「本日は私の我儘にお付き合いくださり、ありがとうございます」
真島の、男性特有の低い声音が心地よく響く。
「今宵、私から提供させていただくのは、特別なひとときでございます」
誘導するように視線を逃がした真島に釣られてテーブルの上を見れば、白磁の肌に美しい花の絵があしらわれたティーポットとカップが寄り添っており、更にその傍にはいくつか種類の異なるお菓子が乗せられたケーキスタンドが置かれていた。ここがキャバクラであることを忘れてしまいそうになるほど、喫茶店然とした雰囲気が漂っている。緊張した面持ちで真島を見ると、慣れた手つきで温かなティーポットを傾け、鮮やかな赤色の紅茶をカップに注いでいく。仄かに漂う穏やかな香りと、蒸気する湯気の白に贅沢さすら感じられる。角砂糖が二つ、その赤に投じられては音もなく溶けていく。
「どうぞ、お召し上がりください」
差し出されたカップに手を伸ばし、外の冷たい空気に凍えていた唇を押し当てる。傾斜をつけ、真島の淹れた紅茶が熱と共に体の中へと流れていく。心地良い温かさになまえはようやく緊張がほぐれていくのを感じ、……おいしい。と口にした。そして、真島を数秒ほど見た後に、タクシーの中で聞けず終いだった目的を訊ねる。
「本当に、どうしてここまで」
「……それは。それは、みょうじ様が最近酷く疲れているように見えたのです」
真島が明かした秘密は、意外にも自分に関することだった。しかし、なまえは真島に今夜のセッティングを頼んでいなければ、寧ろ招待状が届くまで何も知らされていなかった。招待状を貰うまではこの夜が来ることさえ、想像もしていなかったのだ。次に真島が語ったのは、毎夜グランドの屋上から見ていたなまえの姿だった。先述した通り、真島の職場であるグランドの屋上からなまえの姿は視認出来る。特にそれは夜の八時頃によく見かけていた。なまえは真島の姿が目に入ると、その場で立ち止まり、小さく手を振る。しかし、最近になってなまえは立ち止まることは愚か、見かける時間も遅くなりつつあった。
「ですから、そんなみょうじ様の為に私はこの場を設けました。今夜だけは悩みや何もかもを忘れて、お休みいただけるこの場を」
なまえは自身に向けられた言葉と優しさに震えていた。だが、震えを悟られないように両腕を抱く。それでも、頼りない。それでも、平常心ではいられない。真島の献身が摩耗していた心に沁みて、痛む胸の内を素直にさらけ出せないでいた。なまえの不器用な姿に、真島もいよいよ綺麗な仮面を剥ぎ取る。
「……ホンマによう頑張っとる、なまえちゃんが毎日どれだけ大変かは聞かんでも分かる」
「なんで、」
「周りはそれに気付かんと見て見ぬフリをする。せやけどな、俺にはそないなこと出来へんかった」
「……なんで、真島さんはこんなに優しくしてくれるんですか」
「なんで、ってそりゃあなあ……、」
もう随分となまえちゃんの笑った顔、見てへんねん。
いよいよ、返す言葉がない。なまえは滲んでいく視界の止め方を知らなかった。唇には紅茶の風味と温かさが残っている。好きな味だった、なまえが好んでいる紅茶の。こんな些細なこともいつ話したか思い出せないほど、余裕がなかったのだと気付くと、もう一口が恋しくなった。
「紅茶、もう一口いただいてもいいですか」
「なまえちゃんの為に用意したもんや、好きなだけ飲んだらええ」
鼻先をくすぐる悪戯な香りもそのままに、なまえはもう一度だけカップを傾ける。そして、なんで、こんなに美味しいんだろ。と小さく呟いた。ここまで自分に良くしてくれる真島の為にも、湿っぽいままではいられないと涙を拭う。
「真島さん、ありがとう」
「お気に召していただけたなら、本望でございます」
「もう、いいですよ、そういうの、」
「ほな、次は好きなもん食うたらええ」
未だ手付かずだったケーキスタンドはお菓子で飾られており、真島は何の気なしにその内の一つを手に取ると、なまえの方へと差し向けるものだから、自然な流れで真島の指から掠め取ってしまった。
「なんや、食べさして欲しかったんかいな」
「……あ、いや、これは、その、」
「ほんなら、最初っからそう言ってもらわな、」
改めて言葉にされるとなまえは頬を赤くし、無意識の恥ずかしさに下唇を噛み締めている。そして、ちゃんと自分で取って食べようと……と言いかけたところで、再び真島がお菓子を手に取り、こちらに何も言わず差し向けていた。恥ずかしさからなまえは首を横に振るが、真島は声を出さずに自身の口を開けては次を要求している。何度、首を横に振ろうとも、意地として譲らない。つまりはなまえの根負けである。
真島の差し出したお菓子だけを取ってしまおうと、花の蜜を啄む小鳥のように唇を尖らせる。柔らかな感触に食まれ、真島の指はうっすらと熱に濡れた。なまえはなまえで未だに気恥ずかしさが抜けておらず、ぷい、と顔を背けて口にしたお菓子を咀嚼する。しかし、真島は見たのだ。図らずも真島の指に唇が触れた時、なまえは照れ臭そうにはにかんで笑っていたことを。
「なまえちゃんは、これが好きなんやな」
「だ、だから、違いますってば……!」
すっかり慣れた調子に戻ったなまえを前に、真島はケーキスタンドから一つを摘んで、自分の口に放った。確かにこれは美味い、と程よい甘さと口当たりの良い食感に耽っていると、こちらをじっと見つめる瞳があった。なんて、説得力のないことだろうか。あれほど否定していたくせに、両の目を輝かせて焦れったく唇を閉ざして待つ姿を見せられては、やらずにはいられなくなる。
「ほれ、」
控え目に口を開いたなまえに、自分が食べたものと同じお菓子を食べさせる。無防備に開かれた口内に劣情を抱く前に、真島は先に視線を切って紳士然とすることを選んだ。そう、あくまでも今夜の主役は彼女なのだ。そして、自分はしがないボーイで、彼女のひび割れたシュガーコートを手直ししていくだけだ。
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