天蓋付きのベッド、間接照明はピンク、控えめにぶら下がっているのはお粗末なシャンデリア。レース地のカーテンを揺らしたのは、勢い良くベッドに倒れ込んだ二人の男女。顔を合わせて早々、二人は再会を喜ぶ前に情事へと縺れ込んだのだ。シーツに腕を着いて下に女を敷いているのは品田で、その影に覆われながら、蛇のようにしなやかな曲線を持て余しているのがなまえだった。
「……久しぶり、だね」
「辰っちゃんなら、来てくれると思ってた」
「その、相変わらず綺麗だね、」
じっとりと肌に張り付くような視線に晒されながらも、なまえはこの瞬間を待ち侘びていた。奇遇にも男と女の形をしていた。初めて会った夜にも似たような邂逅はあったものの、結局は至れず終いで口惜しい思いをした。だが、今夜は違う。あの時、交わした約束が果たされる日なのだ。例え、この両腕が彼の輪郭をなぞり、唇や頬、額に触れようとも拒まれはしない。少しだけ爪の長い指先が彼の首筋を走り、鎖骨を愛でようとも拒まれはしない。なまえはこの瞬間が堪らなく愛おしかった。
「なまえちゃん、今夜は、 本当に……、その、」
躊躇いがちな品田はなまえが小さく頷くのを見ると、途端に目を伏せた。何かを噛み締めているように、又、何かがせめぎ合っているようにも見える顔で中々次へ移れない。鎖骨を愛でた指先で胸元に触れれば、苦しげに品田は目を開く。なまえは目の前の男が苦悩していることに察しがついていた。やはり、今夜もそういうことなのだろう。視線、言葉、肌、行動からは確かに飢えていることが窺えるが、本心だけは未だに理性の城に鎮座しているようだった。例え、どんなに狡猾にその胸元へ滑り込もうとも、肝心の鍵が開かないのなら、なまえにはもうどうしようもないのだ。
「ごめん、やっぱり出来ない」
絞り出された声に既知の答えを知る。しかし、拒まれたところでなまえは怒りを感じることはなかった。前々から分かっていたのだ。このホテルで落ち合った時から、あの夜の初々しさが消えておらず、全く本能的なものを感じることが出来なかった。優しい人、と呟けば、品田はより悲痛な顔をして身動きが取れずにいた。
「実は、……実は俺、」
品田はようやく胸の内を明かす。この部屋にやって来るまでにあった苦悩の全てを。自身が勤める編集者に連絡があった時、なまえとの再会を喜んでいた。そして、自分に出来る限りで良い記事を書こうと意気込んでいたことを。しかし、それは日が経つにつれて、一つの違和感を生じさせた。寝ても覚めても離れない映像がある。あの夜、偶然に目にした彼女の照れ臭そうな笑顔だ。本当に嬉しいという気持ちが伝わってくるほどの、美しい笑顔がいつまでも胸を焦がして消えてくれないのだ。
すうっと背筋が凍えていく感覚は今でもはっきりと覚えている。一つの事実が突き付けられていると、ようやく気付かされたのだ。まるで身が入っていないと他の女の子からも言われる始末、つまり、これはそうなのだろう。この体はすっかり抜け殻になってしまった。あの夜に意図せず、彼女が心を奪ってしまったのだろうと。昔、学び舎で他国の歴史をなぞらえた時には、傾国の美女など何人居たって良いだろうに、と他人事のように思っていたのだ。しかし、自分自身が今、傾国の美女へ寵愛を捧げたいと願ってしまっている。
「なまえちゃんのこと……、ごめん、これじゃあ約束が違うってのに、」
人の形を成した異形は、人の子の告白にどうすれば良いのか分からなかった。時々、人の感情はこの両目を曇らせる。特に品田辰雄という男を相手にすると、その傾向が露骨に見られるのだ。ならば、何の為にこの身体に命を与えられたのか。なまえは困惑していた、目の前の男のことを思い、決して顔には出さなかったが。ただ、不思議と胸の奥が熱い。情欲とはまた別の何かが、胸の奥で芽吹いてしまったように思う。サキュバスであるなまえにこれが何なのかは分からなかったが、身体は誰よりも素直であった。
「……なまえちゃん?」
「おいで」
「で、でも、俺、」
「いいから、来て」
両腕を広げて、乞う。今夜も酷く冷えるからと、何者も温めてくれぬこの身を憐れんで欲しいのだと。路頭に迷う野良犬のように品田はなまえの懐に身を寄せる。彼女の言う通り、肌はどこもかしこも冷たくなっており、これ以上冷えてしまわぬように品田は懸命に肌を重ね合わせる。
「今なら少し、辰っちゃんの気持ちがわかる気がするから」
なまえの言葉にどこか救われた顔で、品田は柔らかな胸元に頬を寄せる。ごわついた髪に触れ、大きな人の子の頭をなまえは優しく撫で続ける。なんて憐れなほどに可愛い子だろう、これは誰の心境だろうか。何度も細い指に黒々とした短髪の束を梳かしていく。
「私ね、なまえって名前好きなの」
「それって、」
「そう。辰っちゃんが付けてくれた名前」
「はは、まさか気に入ってもらえるなんて思ってなかったから」
「ねえ、また私の我儘聞いてくれる?」
「そ、そりゃあ、何でも聞いてあげたいけど、」
「じゃあ、今夜も私の傍にいて欲しいの」
ダメ?と聞かれると弱いのは前と変わっていないが、なまえの申し出に驚きを隠せないのも事実だった。性行為を求められるものだと思っていたからだ、それが何故。品田は咄嗟に言葉を詰まらせるが、なまえのささやかな我儘と知ると、いいよ。と返した。自分より華奢でありながら、その細さからは想像も出来ないほどに柔らかな肌は吸い付くように手のひらに触れる。魅惑的な弾力に包まれていると、穏やかな気持ちで居られた。先程まで抱いていた緊張さえ、忘れてしまうほどに。
「これじゃあ、俺、プロ失格だよ」
「そんなこと言わないで。だって、そうなっちゃったら仕方ないわ」
「なまえちゃん。俺さ、そこの線引きぐらいは出来るつもりでいたんだ」
それなのに、俺。と思い詰めた顔をする男を不憫に思った女が耳触りのよい言葉を選んで吐き出していく。
「辰っちゃんが私のこと、好きでいてくれて嬉しい。ほんの少ししか傍に居なかったのに」
「だ、だって、すごく、可愛い子だなって思ったから」
羽根を揺らして、心の表面を撫で上げる。傷がついて傷み出した、赤く腫れた表面は熱を帯びている。患部が傷んで腐ってしまう前に、悪い毒を吸い取ってやりたい。
「私もね、辰っちゃんのこと好きよ」
傷口の悪いものを取り除いて、取り除いて、出来る限り綺麗にしてやれば、忘れた頃に跡形もなく治ってしまうだろう。
「私のことで一生懸命悩んでくれる姿がすごく可愛いの」
「俺が……?」
「だって、今もどうしようって困った顔してるんだもん」
なまえは胸元に収まる品田の頬を撫でた。親指の腹で何度も愛おしげに頬骨をなぞれば、次第に品田の表情も変わり始める。急激に熱を帯びる体、体越しに鼓動が伝わってくる。ぎこちなく柔肌に触れていた男性的な手がうっすらと汗ばんでいる。今更になって、火がついたなんてあまりにも。
「……したい?」
「今だったら、出来そうな気がする」
ふふ、と餞別に微笑みを一つ。ようやく期待が膨らんできたところで、現実を見る時間である。時が来たと言わんばかりに、冒頭と同じく品田は四つん這いになるとなまえに覆い被さる。今度こそと情欲の匂いを嗅ぎとったが、なまえはするりと品田の下から抜け出てしまった。そして、ベッドの端に腰掛け、床に脱ぎ捨てたキャミソール丈のネグリジェを手に取る。勝手に身支度を始めるなまえに品田は面食らっていた。
「……え?ちょ、ちょっと、なまえちゃん」
「どうしたの、辰っちゃん」
「えっと、その今から始まりそうな雰囲気だったじゃない」
「そうね、辰っちゃんもやっとそういう目で見てくれてたもの」
「それじゃあ、何で」
「見て、時計」
なまえのその言葉に品田は凍りつく。まさか、いや、そんな馬鹿な。とベッドのサイドテーブルに置かれた時計を手に取れば、約束した時間がもうすぐ底を突きそうになっていた。愕然とした品田に擦り寄っていくのはなまえだった。
「ありがと、温めてくれて」
「いや、これから、もっと温かくしてあげられるのに!」
「ううん、駄目。時間内に出来なかったんだから、特別扱いしてあげないの」
「で、でも、俺、もう……!」
「また今度ね、我慢して」
「そんなあ……、」
お預けを食らった犬のような品田を尻目に傍を離れようとすれば、すぐに後ろから抱き締められる。切実そうな腕は僅かに震えている。どこまで行っても品田は可愛い男だとなまえは一人微笑む。ボサボサの毛並みが肌をくすぐっては離れがたそうにしている。
「こんなお預け食らったままなんて生殺しだよ」
「じゃあ、次はしようね」
「……せめて、キスだけでも、」
「してあげない」
それじゃあ、そろそろ行かないとだから。となまえの声が聞こえた時、またいつの日かの再演のように品田の意識は徐々に薄れ、その場に倒れ込む。ほんとうにかわいい人ね、となまえは意識のない品田の頬に唇を優しく押し当てると、その部屋を後にした。
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