浮気と勘違いする馬場茂樹



「兄貴、呼び出すようなことしてすみません、」
「いきなり何や、馬場ちゃん」

 あの冴島大河を困らせているのは、話があると連絡を入れた馬場だった。場所はどこか近くの適当に入った喫茶店で、兎にも角にも馬場は一人で抱えたものを吐き出さずにはいられなかった。それぞれ一杯ずつ飲み物を頼み、二人は向かい合っている。浮かない顔を見せてしまったことは冴島に対して申し訳なかったが、ここで全てを話し、楽になってしまいたかった。

「最近、みょうじさんが素っ気ないように思えて」
「みょうじ?あの、みょうじがか?」
「ええ、もしかしたら気の所為かもしれないんですけど。でも、俺、」
「心当たりあるんか?」
「いや、俺の方は全く……。ただ、やっぱり俺じゃあ駄目だったんですかね」

 慣れぬ恋をした。他所からやって来た、訳ありの男を快く受け入れてくれたのが、隣に住むみょうじなまえという女だった。何かと気にかけてくれる心根の優しさに、少しずつ距離は縮まっていった。それから、馬場が恋の芽生えを自覚するのに時間はかからず、ほんの数ヶ月前にようやく想いを打ち上げ、二人の関係は始まった。とても言い表せないほどに蜜月で、物騒で命が危うい世界とはまるで違う居心地の良さに酔っていたのだ。しかし、冒頭の通り、つい最近になってなまえの様子が一変してしまった。
 何も大袈裟なことを求め合う仲ではなかったが、かと言って質素を極めた訳でもない。人並みの密やかな付き合いを続けていたが、最近のなまえは馬場と顔を合わせなくなってしまった。理由は不明、喧嘩さえまだ一度もしておらず、少し気恥ずかしい話だが、二人は未だプラトニックを貫いているのだ。焦ることなく、互いのペースで歩み寄ることを納得しながら、理解し合いながら歩を進めてきた、つもりだったのかもしれない。

「俺から見ても、馬場ちゃんとみょうじはよう似合っとった。そのまま一緒なってもおかしないほどにな」
「ありがとうございます、そう言ってもらえると嬉しいです」
「にしても、みょうじが素っ気ないってのはホンマなんか?」

 冴島は信じられないと言った顔で馬場に問い掛ける。すると、馬場は不確定な根拠を並べていく。隣人でありながら、仕事から帰ってくると早々に部屋に閉じこもってしまうこと。今まではどちらかの部屋で夕食を共にし、恋人らしく慎ましやかに会話を楽しむ。明日の仕事が憂鬱だと零すなまえを慰め、労うのが馬場は好きだった。そうしてやると、なまえは人懐っこい笑顔を見せて自分の胸に飛び込んで来てくれるのだ。その笑顔もここ数週間は見れていない。休日には遠出をしたり、一緒にゆったりと過ごすありふれた恋人像であったはずなのに。

「みょうじさんに負担かけてたのかな、俺」
「馬場ちゃん……、」
「俺、本当に好きなんです。あの子の前向きな姿を見てると、俺も頑張ろうって思えるんです」
「ええ関係やないか」
「それでも、俺がみょうじさんの迷惑になってるなら、いっそ別の男の所に行ってくれた方が、」

 言いかけてやめる。苦しくなってしまった、冴島に伝えたかった言葉はこれだったのかもしれない。素っ気ないと言うことは、自分に向けられていた関心が誰かに向いているのではないか。そう思うと恐ろしさに眠れぬ夜を越えてきた。あまりにも不釣り合いなくらいに、綺麗な人間だと思っていたからだ。男の影があるんか、と訊ねる冴島に確証はないと告げる。ただ、もしそのような結末を迎えてしまっても、仕方ないのだと馬場は目を伏せる。

「まずは二人で話し合わな、始まらん」
「そう、ですね」
「……ただ、どうにも俺はみょうじがそうやとは思えんのや」
「なんでですか、」
「あの子、心の底から馬場ちゃんを好いとる。惚気聞いてるこっちが恥ずかしくなるほどに、や」
「みょうじさん、俺とのことを兄貴に……?」

 知らなかった、とこぼす馬場に冴島は、なら、余計確かめなあかんやろ。と力強く背中を押され、返事をすると手元に置きっぱなしになっていたコップを思い切り傾け、一度に全てを飲み干すと冴島に礼を告げて席を立った。

「おう、頑張りや。馬場ちゃん」
「それじゃあ、俺、みょうじさんと話してみます……!」

 そして、喫茶店を後にする馬場の姿を見送った冴島は口元に笑みを浮かべ、深く考え過ぎんのが馬場ちゃんの弱いところやなと、ようやく手元のコップに触れるのだった。


***


 冴島の言葉に突き動かされ、馬場は今なまえの住む部屋の前で佇んでいる。インターホンのボタンを押し込んでしまえば、中にいるだろう彼女は顔を見せてくれる。しかし、直前になって踏み止まり、思い悩むのが自分の悪い癖だと前々から思っていたが、まさかここでもその癖が足を引っ張るとは思ってもいなかった。知りたい、なまえの心の方角を。聞きたい、なまえの胸の内を。何も明かされぬ現実より、残酷であっても真実を知りたいと思うのが人間であるような気がした。
 呼吸を整えて、ボタンを押し込む。扉の向こうでチャイムの音が鳴っているのが聞こえた。不在なら不在で構わない、行動した自分を褒めてやりたいと思えたからだ。だが、こういう時の願いは大抵却下される。つまり、家人はいたのだ。近付いてくる足音に馬場は顔を強ばらせる。普通に、極めて普通に接する。それだけは守らなければならない、自身との決まり事だった。もう一度、呼吸を整える。大丈夫だと自分に言い聞かせてすぐ、目の前の扉は控えめに開かれた。

「……あ、茂樹くん。どうしたの、急に」
「えっと、みょうじさんに会いたくなって」

 歯切れの悪い言葉、互いに口数が少なくなっていくのが目に見えて分かる。久々に顔を合わせたというのに、ぎこちない雰囲気のまま、大人しく自分の部屋には帰れない。馬場は意を決して、なまえに問い掛ける。もし、そうだと言うのなら、潔く身を引く覚悟だ。

「みょうじさん、俺のことどう思ってますか」
「え?茂樹くんのことをどう思っているかって……?」
「俺、確かに駄目な所あります。人には言えないことだってしましたし、みょうじさんに迷惑をかけている部分だってあるかもしれない」
「ちょ、ちょっと、」
「……それでも、俺、みょうじさんのことが好きで、」

「だけど、みょうじさんが俺じゃなくて、他の人と幸せになれるなら……、」

 そこまで言いかけて途端に口を噤む。いや、馬場は自ら口を閉ざしたのではない。なまえの伸びてきた手で両頬を挟まれ、寂しげな言葉を吐き出せないように止められていた。なまえは慌てふためいている。

「待ってよ、違う。茂樹くん、変な勘違いしてる……!」
「……か、勘違いって?」
「私にもよく分からないけど、どうしてそんな話になるの……?」
「だ、だって、最近のみょうじさん、俺と顔合わせてくれないし、何処か素っ気なくて」
「それはね、」

 なまえから明かされたのは、馬場が一度たりとも考えることのなかった予定だった。この時、馬場は初めて思い出すことになる。何故、みょうじなまえと関係を結ぶことになったのかを。すると、脳裏に次々となまえとの蜜月の日々や思い出が甦る。初めて顔を合わせた時の、初々しい他人行儀だった自分達を。顔を合わせる度に交わし続けた挨拶の日々を。他人行儀から脱却し、徐々に二人の距離感が縮まっていた時間を。臆病な恋の始まりを打ち明けた時の、赤く頬を赤らめ、照れ臭そうにしていたなまえの表情を。仕事を憂うなまえを初めて胸に抱き締めて、労った日の胸の高鳴りを。全ては数ヶ月間という互いを思いやり、積み重ねた時間があったから。

「今日は私と茂樹くんが付き合って半年の記念日でしょう」

 その一言で全てが腑に落ちる。やはり、杞憂に過ぎなかった。冴島の言葉が嫌というほどに効いてくる。なまえが冴島に自分との大切な日々を惚気けていたという事実が、じんわりと胸元と瞼を熱くさせる。酷い勘違いを詫びたいと自分の頬に置かれた彼女の手に触れ、なまえを見た。

「みょうじさん、俺……」
「確かに最近、素っ気なかったけど、それは今日の為に準備をしてたから」
「……今日の為に?」
「そう。一応、記念日だから、部屋とかも飾ってみたりして」

 だから、夕食も一緒に食べられず、仕事終わりの憂鬱も溜め込んだまま。寂しさも勿論あるが、何より馬場の、大切な恋人の驚く顔が見たかったのだと明かすのは誰よりも愛おしい恋人。不意に鼻が鳴る。泣いてるの?と眉を下げたなまえに、ううん、何でもない。部屋に上がってもいいかな。と伝えると、なまえは嬉しそうに頷き、馬場の手を取ったまま、今日の日を祝う会場と化した自室へと連れていく。だが ──── 、
 玄関の扉が閉まる瞬間に、その陰りの中で弱さが溢れてしまった。馬場は自分より足りない背丈のなまえを後ろから抱き締める。なまえはそんな馬場の気が済むまで、玄関でまともに靴も脱がずに佇むことを選んだ。自分より大きな体の恋人が何かを思って、体を寄せているのだ。無下には出来ない。

「ねえ、茂樹くん」
「……な、なんですか、」
「なまえって呼んで、」
「……なまえ、さん」
「付き合ってもう半年経ったんだって。信じられないよね」
「俺、ずっと、ずっとなまえさんのこと、」

 ──── 好きですから。
 馬場の言葉になまえは言葉を詰まらせた。そして、私も好きだよ。と一拍遅れてなまえの本心が響く。か細く聞き逃してしまいそうに小さな、けれど、何かに焦がれた声だった。抱き締める腕が彼女を離そうとはしない。しかし、馬場はなまえを懐から解放すると、自分と向き合うように名を呼ぶ。振り向きざま、なまえは優しく触れる熱に目の前が真っ白になる。濡れた唇、刹那的感触、次第に追いつき始める頭。何も言えないで見上げた先にあるのは、自分と同じ、きっとなまえと同じように愛に焦がれる顔をした馬場だった。
 きょうはかえりたくないな、誰かの懇願が陰る部屋に消え入る。視線の応酬、静寂の間に取り残された二人が清廉潔白なプラトニックを忘れるまで、残り僅か。



| 雪解け、陽だまりの園 |


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