痴情に溺れていた、何故ならそれを良しと許されたからだ。彼女はぽつりとこう言った、ただ駄目になってしまいたい、と。気疲れと言うものもあったのだろう、日々の疲労だけでなく、自分自身のこと、周りにいる他人のこと。彼女はよく周りを見て周りに合わせて生きていく人間だった。何も間違ってはいない、賢い生き方だ、けれど、それだけで順風満帆に人生をやり過ごせるかと言われればそうでも無い。
うわの空、視線はどこか遠くにあり、体はそこにあるのに心もまた遠くにあるようだった。
「どこまでも駄目になれたら、楽ですかね、」
「さあ、どうだろう。それはそれで大変そうだ。」
「逃げ道を探しているのかもしれません、」
「悪い事じゃない、それがあればまた頑張れるかもしれない。」
頑張りたくない、ってのは甘えですかね、と未だ他人事のように、大して意味のない言葉を繋げていく。それは相槌だけを返す会話と同じで、彼女は口寂しさを持て余しているのだと思った。
「俺ならなまえちゃんを、なりたいようにしてあげられる。」
「……告白、ですか…?」
「ごめん、俺にも分からないよ。」
でも、なまえちゃんのこと、放っておけないみたいでさ。と、がら空きの彼女の手に自分のそれを重ねた。彼女の手は細く、小さく、か弱い印象を受け、なるべく柔らかに握り締める。
どうして、綺麗な言葉と綺麗な感情だけでは傷を癒せないのだろう。そう言った言葉を知らない訳じゃない、言おうと思えば何にだって無理矢理こじつけて、あたかもそうだったかのように運命を騙る。そう言った感情を知らない訳じゃない、胸の内で弾けるような煌めきや切なさを孕んだ温もり、頭では分かっていても割り切れない想いと言うものを経験してきた。
ラブホテルに純愛は存在するか、路地裏にひっそりと佇む自動販売機に純愛は存在するか、その自販機の一箱五百円程度のコンドームに純愛は存在するか。二人が何かのしがらみから逃れるように辿り着いたのは、ホテル街にある適当なラブホテルの偶然空室だった部屋。人の目を気にせずにここへやって来たが、二人は結局人の目から逃れられる密室を選び、お互いに向き合いながら、広いベッドの上にいた。
「なまえちゃん、」
「秋山さん、わたし、」
「深くは考えてなかったんでしょ、こうなるまで。」
「ええ、ただの現実逃避のつもりでした、」
秋山の大きな手がなまえの頬を撫でる。本気ではなかった。そんな一人の女の狡い言葉でさえも、今の秋山なら上手く飲み込める。
「でもさ、なら何でここまで来てくれたの?」
「やっぱり、駄目になりたいのかもしれません。」
「そっか。じゃあ、そうしよう。」
頬を撫でていた秋山の手が今度は耳元へと寄せられる。垂れた髪を耳に掛け、その指先で耳朶に嵌められたピアスに触れた。痛かったでしょ、穴開けた時、と慎重で丁寧な手つきで秋山はなまえのピアスを一つ外し、更に反対の耳に残されたピアスも取り去ってしまった。
「なまえちゃんは、…綺麗だね。ピアスが有っても無くても、そんな事関係ないくらいに綺麗だよ、」
滅多に聞くことのない二文字になまえは目を伏せた。唇も狼狽えているのか、微かに歯が立てられており、その様子が可笑しいと秋山はなまえの耳元に置いていた手を頭に置いた。
「いいよ、素直に照れて。ここには俺となまえちゃんしかいないし、何も気にしなくていい。…だから、こっち見て。」
ゆっくりで良いから、待ってる。ただそれだけを口にした秋山はなまえの頭に置いた手で、何度も髪を撫でていた。なまえの視線が自分に向けられたのはそれから数秒後、狼狽えていた唇も無防備に微かに開かれ、こちらを一心に見つめる瞳は可愛らしい我儘のように艶やかに光る。
今この場において、この二人の間に純愛は存在するか。秋山はなまえの体を自分の方へ引き寄せ、なまえはされるがまま拒みもせず、その懐に体を預けて秋山の背中に手を回す。なまえが回した指先は秋山のスーツを掴み、秋山は自分のだらしない胸元に寄せられた彼女の頭に顔を寄せた。
「なまえちゃん。もし俺で良いなら、君のこと駄目にしてあげる。」
自分の胸元で彼女の頭が縦に揺れたのを知ると、秋山はなまえの体を抱き締め、ありがとうと呟いた。
熱い吐息と熱い舌先が絡み合う。触れるだけのそれでは物足りないと痺れを切らした末の交わりだった。体の奥が疼き、痺れ、発熱する。吸い付き、絡み合い、劣情の口移し、足りない、まだ、と貪欲に二人はお互いを求めていく。互いの唾液に濡れる口元を手で拭い、じっとりと湿る空気の中で目を逸らさずに見つめ合う。
「どうして欲しい、」
「なまえちゃんは俺にどうして欲しい、」
彼女の中に欲求が宿っているのを知っていた。だからこそ、口に出させ、もう一度再認識させ、自分の欲求と向かい合わせ、素直に曝け出された本当のなまえが見てみたかった。酷いくらいに我儘な瞳でなまえが秋山に、抱いてください、と告げれば、喜んで、と熱を帯びた声に意識を攫われた。
妙に慣れた手つきでなまえが纏っていた衣服を攫って行ったのも秋山の手だった。躊躇うことなく、動揺する事もない秋山の動きになまえは体にぞくぞくとしたものを走らせ、秋山はなまえのあからさまな表情に欲を募らせていく。下着さえも優しく剥ぎ取って丸裸のなまえにシーツを被せると、今度は自分の衣服を脱ぎ始めた。
どんどん身軽になっていく様をなまえは見ていた。ジャケットを脱ぎ、時計を外し、シャツを脱ぎ、ベルトを外し、スラックスを脱ぎ、秋山も次第に薄着になっていった。なまえの後に続き、秋山もシーツに身を潜ませると、なまえを下に組み敷くような体位で見下ろした。
「本当に綺麗だ、なまえちゃんは何もかも、」
陰る見上げた瞳には自分しか映っていない。ちょっとした優越感なんてものを感じながら、何かに祈るようになまえの額に口付けを落とした。額、瞼、頬へ祈る、彼女の堕落が咎められぬように、と。そしてもう一つ、自らの手で彼女の羽根をへし折る事が咎められぬように、と。
皮膚と皮膚が重なる、躊躇いがちに吐き出される吐息を重ね、再び唇が重ねられる。その瞬間、瞼を閉じる直前でなまえの腕が秋山の首へ回されるのを見た。一瞬の内の無意識、求められるように回された腕が絡み付き、秋山はそこに喜びを垣間見る。求める事は容易である、しかし、求められる事は容易ではない。その事実が秋山の繊細で丁寧だったキスもいつの間にか荒々しく力任せなものへと変えていった。途切れたキスの後には熱い静寂に塗れた二人がいた。
「なまえちゃん、大丈夫?」
「……大丈夫、です、」
「そう、それならいいんだ。でも嫌なら言って欲しい、してもらいたい事、そうじゃない事、あるでしょ?」
「……わかりました、」
力任せなものになってしまった事を反省しつつ、再び繊細なものに触れるような扱いで愛撫を始める。愛でるように口付けを落とし、君が欲しいのは自分も同じであると言うように舌を這わせ、硬い体をほぐすように唇で肌を吸い上げていく。感度が上がり続ける彼女の表情や体の変化を目で、唇で、手のひらで、実感する。劣情は煽られた、安易に気持ちいいかと尋ねた自分は浅はかであったが、それに対して、もう少しこうして欲しいと返したなまえも同じく劣情を煽られているのだと知り、秋山は、いいよ、と答えた。
部屋には荒い息遣いと喘ぎが響く、シーツの擦れる音、内なる鼓動よりも大きなそれが静寂を埋め尽くす。続けられた愛撫や口付けの果てにあったのは、痛いくらいに高められた性交欲だった。それはどちらか一方が、ではなく、お互いにその欲求を抱えていた。なまえは喘ぎの合間に腰を浮かせる事があり、秋山も不意に反り返る熱がなまえの腹部に触れると、焦れったそうに微かに跳ねる事があった。苦しい、もどかしくて、熱くて、上手く言葉に出来なくて、切ない。
「……秋山さん、」
「なまえちゃん、」
潤んだ瞳を見た瞬間、秋山は全てを察した。けれど、まだなのだ、彼女の羽根をへし折り、捥ぎ取る前にもう一度聞いておきたい事があった。俺にどうして欲しい、と問う、二度目の質問である。なまえは秋山しか映らない潤んだ瞳でこう告げる、駄目にして欲しいと。ベッドサイドテーブルに置かれた、衛生的な個包装のパッケージを破り、ゴムを取り出した秋山は遂になまえの両翼に手を掛ける。
反り返る熱がゆっくりと挿入されていく、なまえはその快楽に体を震わせている。彼女の陰部は深く根元まで咥え、秋山ももう何度目になるか分からない口付けで唇を塞ぐ。みっちりと詰め込まれた下腹部、口付けでさえも二人の体を繋いでいた。
次第に快楽を貪るようなピストンが始まる。いつまでもこのままじゃいられないと焦らしに焦らされた欲求に従うように腰を動かす。肌は弾け、膣内を掻き乱す熱になまえの思考一つ一つをゆっくりと潰されていく。じわりと体が熱くなり、嬉しそうな悲鳴がだらしない口元から簡単に漏れていった。そこに理性的である二人の姿はない、あるのは肉欲と痴情に溺れた裸の体が二つあるだけ。中途半端に被ったシーツはごそごそと形を変え続け、秋山は白の波間に溺れる彼女の翼を折っていく。
純愛の名のもとに、彼女の両翼は捥ぎ取られ、後に残ったのは女の形をした体だった。組み敷かれ、不自由なその体は快楽に揺さぶられる。深く、深く、より最深部へ、酷く敏感であり、淫らなそこで熱が弾けるまで。嬉しい悲鳴は止まらない、膣内の肉壁を犯される度に体は痺れ、血は滾り、与えられる刺激に絶頂を覗く。
「なまえちゃん、好きだよ。」
秋山の切なそうな声が降り注ぐ。切ない声、切ない視線が降り、秋山の長い髪が垂れ下がる。綺麗な言葉と綺麗な感情、どうして欲にまみれた後にそれはやって来るのだろう。肉の結び目、欲が混ざり合い、求めては奪っていく。
「わたしも、同じです。秋山さん。」
何度も名を呼び、確かめる。決して独り善がりではないのだと、相手がいるからこそ、今ここに自分は存在するのだと。乱れた呼吸の間に、二人は声なき声を口にする。
君をこれから先も離さない、こうした責任を負う覚悟は出来ている。あなたの言葉に全てを委ねる覚悟がある、だからこそ、あなたでなければならない。
絶頂を覗いた瞳は閉ざされ、緩やかに誘われるそこへと向かう。押し寄せる波に意識が弾けた、体は大きく跳ね、絶頂の余韻に微かに震えている。それから遅れてもう一つの体が爆ぜた。白濁は解き放たれない、しかし、吐精は確実に行われる。熱が自身から消失していく感覚に呼吸は深いものへと変わり、体は未だ続く吐精の刺激に毒されていた。倦怠感に襲われながら、秋山はなまえの寂しそうな胸元に顔を寄せる。そして当たり障りのない場所の皮膚に吸い付いた。数秒強く吸い付き、啄まれた皮膚は薄らと紅色に染まり、秋山を満たしていく。
「ねぇ、なまえちゃん。俺はさ、多分君のこと、簡単に手放さないと思うんだ。」
絶頂の余韻に浸っていたなまえが今まで閉ざしていた瞼を開け、秋山を見た。とろんとした瞳から愛おしさが溢れてくる。もっと、その目で求めて欲しい、奪い尽くして欲しい。
「……わたしは、秋山さんじゃないと駄目だって思います。」
「へぇ、嬉しいねぇ。なまえちゃんの口からそんな言葉が聞けるなんて。」
「駄目にしてくれると言ってくれたじゃないですか。だから、私は秋山さんじゃないと駄目なんです。それに、好きって言ってくれたから。」
「…なまえちゃんのそう言うところ、好きだなぁ。」
地に落ち、ずるずると這いずる女の声が心地良かった。自分で大切なそれを奪っておきながら、求められる事の心地良さに浸る。しかし、満足げなのは秋山だけではなく、なまえもまたそうだった。這いずり回る自分の拠り所を見つけ、求めれば与えられる喜びを噛み締め、再び目を閉じた。秋山は眠るように目を閉じたなまえの額に一つ祈りを落とす。彼女の居場所が自分であり、また、それが揺るがないものでありますように、と。
ここでふと思い出す事がある、なまえの告白かと言う問いに返した自分のわからないと言う言葉を。わからない、本当はそうじゃなかった、わかっていた、好きだと。けれど、自分の狡さが勝ってしまったのだろう。純愛を騙り、彼女の両翼を落とさなければ、本心を告げられなかったのだ。ごめんね、と呟いてみるものの、なまえは既に意識を手放しているようで反応はなかった。更に続けるつもりだったのだが、それは彼女が起きてからでも良いだろうと飲み込んだ。
白の波間、そこに横たわる体は二つ、静かな呼吸を繰り返し、果てたそれをゆっくりと沈ませていく。
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