添い寝してくれる桑名仁



 不規則で無機質な雨音を聞いていた。室内は暗く、既に照明が消え、夜の懐に抱かれている。自分は畳の上に横たわり、曲げた肘を枕にして眠ろうとしている。布団の上にいるのは、彼女だけだった。出来ることなら新品のものを提供してやれれば良かったのだが、この事務所に人を上げて一泊させることなど想定していなかった。みょうじなまえは突如降り出した大雨のせいで帰路に着けず、一晩だけこの事務所に寝泊まりをすることになった。丸まった背中はどこか硬く、緊張しているように見えた。

「眠れないのか」
「……桑名さんも?」

 振り向くことを躊躇い、背中越しに彼女の言葉に耳を傾ける。外の雨音に世界と一時的に切り離されたように感じるのは、この夜があまりにも静か過ぎるからだろうか。布の擦れる音、落ち着いた呼吸音、あとはひたすらに雨音。屋根や壁、窓を小さなその手で叩いては、はしゃぎ回る子どものように気ままな音を繰り返し奏でている。

「俺は寝ようと思えば、すぐにでも眠れるが、みょうじくんはそうでもないんだろ?」
「滅多にこんなことないから、緊張しちゃって」
「出来ることなら、ここを貸し切りにしてやりたいが、生憎、俺も行くところがないんでな」
「そんな、悪いですよ。しかも、私だけ布団を使わせてもらっちゃって、」
「気にするな。ここで布団を貸せないような奴は男じゃない、それだけだ」

 それに、床で寝るのは慣れてる。と添えれば、目の前の小さな背中が軽く揺れる。彼女の緊張が少しでも和らいだなら、それで良い。サラサラと揺れる艶やかな髪に意識を奪われていると、不意に小さな背中が丸まった。もしや、と思い、声を掛ける。

「寒いのか」

 少しだけ。となまえの声が返ってくる。確かに外は雨が降り、急激に気温が低下している。この事務所も暖房器具はあったが、薄ら寒い部屋であることに変わりなかった。いつもなら、適当に寝酒を嗜み、眠りに落ちる。しかし、彼女が相手ではそうもいかなかった。無理に飲ませることは避けたいが、今から暖房をつけるのも今月の金銭的余裕にヒビを入れかねないものだ。そもそも、便利屋家業は薄給ということもあり、中々金銭に融通が効かない。では、どうするか。
 まずは体を起こし、着込んでいたレザーを脱ぎ、なまえの被る掛け布団に重ねた。次に、体温を冷えゆく空気に奪われる前になまえに告げる。あくまでも紳士的に、且つ、誠実であるように。彼女はこの行動を目にしていたようで、驚いているようだった。

「すまないが、俺も中に入れてくれないか」
「も、勿論です。どうぞ」

 急いで掛け布団を捲り、人ひとりが転がり込めるほどのスペースを確保すると、体が冷えない内に、と招き入れてくれる。悪い気がしたが、薄着の状態では寝付けないからと布団に潜り込んでは、彼女の不安になってしまわぬように背中を向けて横たわった。身を寄せ合い、寒さを凌ぐなど、この時代には似合わないことをしている自覚はあった。だが、こうでもしなければ、彼女はいつまで経っても眠れない。何が悪いという話ではなく、ただ今夜は雨に降られてしまっただけ。それだけのことなのだ。

「これで少しはマシになると思うが、」
「なんだか、今、少しだけほっとしてます」
「人恋しいなら素直にそう言えばいいだろう」
「で、でも、変な子だって思われちゃったら嫌ですし、」
「変な子だと?俺が、きみのことを?」
「……その、」

 なまえの口から飛び出てきたのは、貞操観念の話だった。自分が大らかなタイプであると勘違いをして欲しくなかったのだと明かすなまえの傍に行きたくなって、途端に寝返りを打つ。未だに縮こまっているのは、この背中の後ろに自分が控えているからだろうか。清く美しいことは結構だが、こんな時に話すことではなかった。自分の中で二つの心が揺れ動いている。駄目な大人である自分がそのまま引き摺り込んでしまいたいと願っている心と、綺麗な大人である自分が彼女の意図を汲んで何もなかったことにしたい心だ。
 正直、自分はどちらだろうか。人間の思想や心理はそこまで単純なものではないと知っている。つまり、この場で出せる答えは一つだけだった。ただただ悪人である桑名仁が、なまえの胸に軽く爪を立てることである。傷付けたい訳でも、自分から遠ざけたい訳でもない。何の気なく、ふとした時に、この夜のことを思い出せるようにしてやりたかったのだ。百パーセント綺麗な大人など存在しないように、全てが善意で出来た人間も存在しない。まさに自分がそうであると。

「みょうじくん、俺はきみを色眼鏡で見るようなことはしない」

 そう、どちらでも良かったのだ。あざとくこの胸に転がり込んで来たとしても。今と同じく、一線を引いて適度な距離感を保つことも。だが、時々思うのだ。何故、ここまでして彼女のことを気にかけてしまうのか。彼女は何処にでもいる、ただの女性ではないか。特に何かに秀でていることもなく、ただの平凡な、

「私、桑名さんと一緒にいるだけで嬉しいんです。変哲もなかった毎日が少しだけ特別なように思えて、」

 彼女の言葉が熱を呼び起こす。外の雨音はいつの間にか聞こえなくなっていた。部屋を漂う静寂がまどろっこしい。ここで初めて本心を知る。何故、桑名仁はみょうじなまえを気にかけているのか。何処にでもいるような女性と内心、称しておきながら、その実、今のように絶妙な距離感に焦れったさを覚えている。

「奇遇だな、俺もそうだ。みょうじくん、きみといると退屈な毎日が少しだけ愉快に感じられる」

 思い切って、臆病に高鳴る心臓に構わず、なまえの背中に身を寄せた。初めは驚いていたのか、ぎこちなく硬直している様を目にしたが、掛け布団越しになまえの体に腕を回す。今夜は冷える、風邪でも引かれたら目覚めが悪いからな。と取ってつけた理由に、そうですね。と返す彼女に言って聞かせるのは、

「大丈夫だ、すぐに眠れる。俺はこれ以上、何もしない。だから、黙って目をつぶるんだ」

 それでぐっすり眠れる筈だ。と安眠を願う男の戯言。なまえは小さく頷いた後、自然と呼吸を落ち着けて入眠する。彼女の体が脱力したのを確認すると、一人、夜に大人としての息苦しさに喘ぐ。悪人であるはずの自分が、善人を装ってしまった現実。今更、誰かに良く見られたいなどと都合の良い考えは捨てたつもりでいた。特別だったのだ、平凡であろうとするなまえは。それ故にすっかり雨の止んだ今、気を利かせてタクシーを手配することも出来ただろうに、そうしなかったのは。

「人恋しさに駄々を捏ねていたのは、どうやら俺の方だったらしい」

 眠りに落ちている彼女には聞こえないだろう声量で独白する。あまりにも弱い自分を見せられないのは昔からだ。まるで何も変わっていない、自分を取り巻く環境以外は。その中で彼女に安息を見出しているのだから、タチが悪い。布団の外に投げ出された腕が徐々に冷えていく。彼女の為にと布団を押さえていた手の指先が熱を失っていく。それでも構わなかった、このまま朝を迎えてしまえば、それで良かったのだ。
 大きく布地が擦れる音、僅かに上体を起こして振り向く人影。長い髪がさらりと垂れ、桑名を見下ろしている。桑名も咄嗟に体を起こしたが、寝惚けている表情の美しさに言葉を失うと共に、すぐに降ってきた抱擁に自分がいかに恵まれているかを知る。温かな感触、穏やかな心音、心地良い香り。その全てが複雑な思考の何もかもを忘れさせてくれた。

「これじゃあ、どっちが寝かし付けられてたのか、分かったもんじゃないな」

 寝惚け眼の彼女を再び寝かせてやると、意識がないことを確認し、布団を抜け出した。途端に口寂しくなったのだ。流石にこれを彼女で埋め合わせることは出来ない。布団の上に被せた申し訳程度のレザーを軽く羽織り、事務所の外に出ていく。つん、と冷ややかな空気に肌が粟立つのを感じながら、レザーの懐を探る。しかし、お目当てのものが見つけられない。そして、思い出すのだ。タバコ一式は事務所の机に置き去りにしていたことを。ここに来て、口寂しさを埋められない自分の抜けっぷりに苦笑しつつも、今は夜風に当たっていたいと、なまえの眠る事務所に戻るのはもう少し後のことだった。



| 白昼夢に惑えど |


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