趙天佑と喧嘩して仲直りする 脳裏に何度でも甦る光景がある。それは異人町に置き去りにしてきた、彼女のことだった。喧嘩別れだった、最後の最後で自身の長所だった器用さを上手く出せなかったのが唯一の心残りだ。まるで泥沼のように、訪れたその時は目も当てられないほどに酷いものだった。趙の真意はただ一つ、無関係であるなまえを決して巻き込まないこと。異人町を離れて神室町へと向かうのは、二つの街を取り巻く環境が複雑且つ狡猾さを増してきたからだ。異人町の三竦みの関係が露呈してしまった当時、神室町へ向かい、事件を収束させねば、あの街に未来はない。つまり、住人であるなまえも無益な抗争に巻き込まれてしまう。それだけは避けねばならなかった。例え、趙となまえの関係に終止符が打たれようとも。
神室町へ向かう前日、趙はなまえと二人きりで話をした。慶錦飯店、横浜流氓のアジトであるその場所に立ち入れる一般人は異人町で一人しかいない。かつて自身が総帥であった組織のアジトに彼女を呼び、事の経緯を全て明かした。趙がいかになまえのことを大切に思っていても、最後の日に上手い嘘など吐けるはずがなかった。もしかしたら、こうして話が出来るのも最後かもしれないと考えていたのだから。
「……趙くんは東京に行って無事に帰ってこれるの、」
「分かんない。今回は流石に俺も無傷ではいられないと思う」
「どうしても行かなきゃいけないことなの?そんな、命を危険に晒すようなことまでして、」
「俺が行かなきゃいけないんだ。一緒に戦ってくれる仲間もいるし、それに街の皆の為にも……」
普段と変わらず飄々とした態度の趙の言葉を遮ったのは、なまえだった。眉間に深い皺を刻み、受け入れ難いことなのだと唇を噛み締めている。
「ごめん、なまえちゃん」
「……私は見ず知らずの人達のことより、趙くんの方が大切なの」
「うん、分かってる」
「ひどいヤツだって思うかもしれない。でも、私は、私だけ安全な場所で趙くんの帰りを待つだなんて、」
……できない。
今にも彼女の胸は張り裂けてしまいそうなほどに、追い詰められているのだろう。きっとこんな話など聞きたくなかったはずだ。声を振り絞り、なまえは嗚咽を漏らしながら、それでも尚、理不尽な現実に抗おうとしていた。彼女の気持ちは痛いぐらいによく分かる。趙天佑でさえ、この告白を躊躇っていた程だ。しかし、それでは救えるものが救えなくなってしまう。ここで仲間が一人でも欠けてしまったなら、強大な敵を追い詰めることが出来なくなってしまう。裏社会に生きる者だからこそ、見える未来がある。正しくとどめを刺されなかった者は皆、不条理な死と不幸を招く。そして、その的にかかるのは、なまえであってもおかしくはない。ならば、自分に出来ることは、
「なまえちゃん、俺と別れてほしい」
「……え?」
「今のでよく分かった。俺はなまえちゃんと釣り合わない人間だって、」
「何言って……、」
「俺はさ、そこまで大切に思われるような人間じゃないってこと。まあ、一応総帥なんて立場にいたし、」
やっぱ、裏の人間が表の人間と仲良くなろうだなんて無理みたい。寂しいけどね。
これ以上は見ていられなかった。彼女が見る見る内に憔悴していく。なまえの言い分は趙も理解出来た。理解出来たが、それで何もかもが解決するほど、世の中は甘くない。男女の関係に決着をつけたところで、全てが帳消しとなり、無関係と見なされる訳ではない。それでも、みょうじなまえが偶然のお目溢しに肖ることが出来るなら、何でもする覚悟でこの場に臨んだのだ。
「嘘だよ、そんなの嘘」
「なまえちゃんに俺の何が分かるのさ」
「わかるよ、趙くんのことなら。今までもそうだったから」
「勘違いってヤツじゃない?」
「……なんて言われようと無駄、私は、」
「ごめん、話にならないから帰るわ」
なまえの返事を待たずに、趙は慶錦飯店を後にする。一人置いていかれた彼女のことを今だけは考えたくなかった。少しでも思ってしまえば、この足はすぐにでも踵を返すだろう。この腕はすぐにでもなまえを懐に隠すだろう。薄情な男だと思ってくれて良い。その代わり、自分のことなど綺麗さっぱり忘れ、薄情な男だったと吐き捨て、次の幸せに向かって歩き出して欲しい。どうか、縋り付いてくれるな。どうか、覚えていてくれるな。どうか、待っていてくれるな。それが叶わぬのなら、無能で傲慢な神の首を削ぎ落としてやる。
なまえの泣き顔を趙は一度も見たことがなかった。不思議と波長が合うような相手で、同年代と言うこともあり、組織で板挟みになる自分の良き友人だった。しかし、それが恋であると気付いたのは一体、いつのことだっただろうか。すっかり忘れてしまって思い出せない。つまり、それほど昔からなまえのことを好いていたのだろう。果たして、どちらが後ろ髪を引かれていたのか。それは言うまでもなく、最後に持ち前の器用さを発揮出来なかった男の方に違いない。
***
神室町と異人町を取り巻く抗争が終幕を迎え、趙は異人町に戻って来ていた。どことなく懐かしく、どことなく寂しい。この街は脅かされる未来を回避したのだ、趙や春日達の活躍によって。しかし、それを共に喜ぶ相手はいない。今と引き換えに失ってしまった、大切なものだ。この街だけでなく、裏表を問わずに街の住人達を救うことが出来た。この街が平和であることで、趙も救われるはずだった。だが、一人きりで歩く異人町はどこか味気なく感じられた。気晴らしの散歩がてらに故郷を歩いて回れど、一向に気が晴れない。寧ろ、抜け殻のように心には虚ろが広がっている。
物思いに耽っていると、不意に懐の携帯が震える。自分宛の電話であると、携帯に耳を添え、通話に応じれば、通話先の相手は女だった。聞き慣れた声は親しげにこちらへと話し掛けてくる。
「……趙か?私だ」
「珍しいじゃん、ソンヒから掛けてくるなんて」
「なあに、友人から言付けを預かっててな」
「友人?ソンヒの友人なんて、誰だろ。心当たりないんだけど、」
「いいや、お前が知っている相手だ」
電話口、ソンヒが明かした言付けの相手は、彼女だった。端的に告げられる言付けは、趙を慶錦飯店へと向かわせる。年甲斐もなく街を、通りを駆け抜け、どんなに息が苦しくなろうと、見苦しくともその足を止めることはなかった。慶錦飯店、いつもの席で待ってる。と彼女は言ったのだそうだ。趙はなまえに自身の帰りを告げてはいないのにも関わらず、なまえが自発的にそう言ったのだと。ソンヒには異人町の全てを託し、任せていた。組織のことだけではなく、一番守りたかった彼女のことも。
見慣れた景色、見慣れた店の、見慣れたドアに手をかける。今更、どんな顔をして会えばいいかだとか、会わせる顔がないだとか、何も考えずに彼女との約束の席へと向かう。今はそれしか出来なかった、彼女は、なまえは待っていてくれたのだろうか。がらんとした店内の、中央の二人がけの席に座する女の姿が見えた。趙はその場で立ち止まると、ようやく吐き出し続けてきた息を胸いっぱいに吸い込んだ。ここまで来ると焦りは消え、冷静に彼女の傍へと歩いて行った。
「なまえちゃん、」
恋しき人の名を呼べば、女は、彼女は、なまえは趙の方を向き、穏やかな顔でおかえりと口にした。
「ソンヒさんに教えてもらってたの、東京での趙くんのこと」
確かにソンヒになまえを監視対象に加えてほしいと告げたが、まさか友人関係にまで発展しているとは思ってもいなかった。
「ねえ、これでもまだ裏の人間は表の人間と仲良くなれない、なんて言える?」
恨み言を吐き出す。しかし、その姿はどこか清々しいといったもので、趙は何故なまえがそのような顔をしているのか分からずにいた。
「待った、趙くんが帰ってくる今日まで。それで、待ってみて分かったの」
関係が途切れた相手を待ち惚けるのは、気力のいることだったと。帰ってくるかどうかも分からぬ相手を待ち続けるのは、時間のいることだったと。こうして再び顔を会わせることすら約束していない相手を待ち望むのは、心の強さがいることだったと。なまえが次の句を口にするよりも先に、本心を吐露する。
「なまえちゃん、俺、嘘吐きだった」
なまえの命を脅かさずに済むのなら、この身、この命でさえ投げ打つ覚悟だった。しかし、そんなものは弱気な自身を奮い立たせるが為の、大嘘でしかなかった。真に覚悟が出来ていたとするのならば、何故この街に戻って来てなまえを恋しく思ったのか。務めは果たした、ならば何も求めることなどないだろうに。つまり、趙は自身が思うほど崇高でもなく、非情にも徹し切れず、詰めの甘い人間だったのだ。別れを切り出しておいて、いざ寂しく感じているのは趙自身なのだから。
「趙くん、私、喧嘩別れしたままなんて嫌だよ」
やっと帰ってきたのに、無関係の赤の他人のままでなんていられない。
なまえは穏やかな顔を崩して涙を零した。口元に張り付けた笑みをそのままに、ちぐはぐな泣き顔に趙は今まで自分が佇んでいた理由を知る。なまえの真隣に歩み寄ると、座する彼女の頭を自分の腹部にそっと引き寄せた。じんわりと温かな涙が布越しに染みてくる。懐に身を寄せるなまえの背中をさすっては、涙が枯れるまで待ち続けた。
「あの日、俺は逃げ帰ったんだ。俺のせいで荒んでいくなまえちゃんを見ていられなくて、」
「だけど、俺はそこまでしないといけないって思い込んでた。だって、なまえちゃんのこと大切に思ってたから」
「でも、意味がなかった。なまえちゃんはずっと俺の帰りを待っててくれたし、俺もなまえちゃんのことを忘れずにいられなかった」
──── ごめんね。
趙の最後の言葉になまえはしっかりと頷いていた。ここでようやく、趙は救われたような気がした。僅かに視界がぼやける、サングラスのカラーレンズ越しには愛しい恋人が存在している。
「趙くん、私ともう一度……」
「付き合って」
なまえの言葉をなぞる。それが二人の到達した答えだった。顔を上げた頬の濡れた女と、その女を懐に抱き締める薄情になれなかった男。もう二人を脅かすものは何もない。この街には平和が訪れたのだ。
「俺さ、思い出したんだ」
「……なにを、」
「付き合いが長いなまえちゃんのこと、いつから好きだったのか」
「いつからって、」
***
あの瞬間は今になって鮮明に瞼の裏で甦る。受け継がなければならない家業を任せられた日のことだ。周囲は新たな総帥の誕生を喜び、盛大な宴を催した。たった一人、乗り気では無い趙を除いて。家業を継ぐということは、総帥という肩書きを与えられるということは、今まであった表の繋がりを断ち、裏社会で生きていくことになる。例えば、学校での友人や教師、勿論それ以外の関わりがあった人間達との繋がりが消えてなくなるのだ。複雑な思いを抱えたまま、趙は一人でその場を抜け出した。外の空気を吸いに、と適当なことを取って付けて。
すると、突然携帯が鳴った。電話をかけてきたのは、偶然にもなまえだった。趙が最も繋がりを断ちたくない相手からの電話を中々取れずにいると、それは自然消滅する。画面の表示が着信から、着信履歴へと変わっていくのを見て、すぐに電話をかけ直した。画面の切り替わる様がまるで自分達のように見えてしまったからだ。なまえは思いの外、素直に通話に応じてくれた。
「あ、もしもし、」
「なまえちゃん、ごめんね。電話取れなくて」
「忙しいなら、かけ直さなくても……」
「いや、忙しくないから。それに丁度、なまえちゃんの声が聞きたかったんだよね」
食い気味で答えたのが彼女にとって面白かったのか、電話口で聞き慣れた笑い声が響く。
「俺、遂に家業を継ぐことになっちゃってさ、」
「……家業って、」
「そ。今日で俺、組織の一番偉いやつになっちゃった」
「趙くんは嫌じゃなかったの?お家のこと、」
「だから、なまえちゃんとこうして話せるのも今日までかなって。そう思ったら、電話かけ直したほうがいいなって」
誰にも打ち明けられぬ本心を、なまえにならいつも打ち明けることが出来た。なまえは少しの間、押し黙ると本音を口にした。
「わたし、多分また、電話かけるよ」
何度でも、話したいことがあったらかけると思う。例え、相手が自分とは全く違う世界の人になっちゃっても。
なまえの言葉に趙は自然と、会いたい。とこぼす。なまえからしてみれば、それが意外だったようで、しかし、拒む理由もなく。いつにする?と問い掛けた声が、趙にとって一番欲しいものだったと知る。つまり、この時から趙はなまえに対して、自身の心の行方を自覚したのだろう。
***
「だから、もう一回だけ俺に付き合ってくれないかな」
「もう一回だけってどういうこと、」
「あとはなるようになるだけ、しか残ってないじゃない」
「なるように……って、」
やっと街が平和になったんだから、あとは俺達の好きにしていいんじゃないの。と懐のなまえに言って聞かせれば、涙で潤んだ瞳が瞬きをする。その瞬間に愛おしさが溢れ、様々な感情が押し寄せていく。居場所のなかった指先で彼女の涙を掬う。何度も何度も、頬に残る涙を掬い上げて始めて、互いに許されたような気がした。なまえはこれから先、趙の傍を離れずに済み、趙もまたなまえを自身から遠ざける必要がない。つまり、二人は赤の他人のままではいられず、再び隣人でいることを選んだのだ。
「ねえ、東京の話とか教えて」
「それじゃあ、落ち着ける場所にでも行こうか」
「おすすめの場所があるの?」
「うん、俺も最近になって見つけたんだ」
だが、もう少し二人きりの余韻に浸っていたいと趙は優しくなまえを抱き締めた。なまえも、もう少ししたら行こうか。と抱き締められることの喜びを噛み締めていた。
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