灯る蝋燭の細い火が頼りなく部屋の暗がりを照らす。既に夜も更け、自室の障子を青白い月光が人知れず寒色に染め上げていた。明日も早い理由があるのにも関わらず、この屋敷の主である土方歳三は布団に入ることをしなかった。日中はさっぱりとした淡い黄緑の畳も今は冷水のように淡い青に染まる中、敷かれた座布団に座して何かを待っているようだった。土方が無言で座し、暫くすると部屋の襖越しから女の声が聞こえて来た。その声の主である女は、この屋敷の女中だった。かつて、身売りに出されていた場面に偶然通りかかった土方が懐の銭全てと引き換えに、その場で女を連れ帰ったのだ。
「旦那様、夜分遅くに失礼します」
真面目な性分の緊張しいな女だった。土方は連れ帰った女に、その日からこの屋敷を任せたいと言付けた。突然の申し出に女は戸惑っていたが、先程の自身が置かれていた状況を思えば、女中として屋敷で働くのに何の抵抗もなかった。初めは不慣れで炊事や洗濯、掃除に苦戦していたが、健気に取り組む様は見ていて胸を打たれるほどで、いつの間にか家事の全てを要領良くこなすようになった。土方は自身の目の届かぬところで積み重ねた彼女の頑張りを何かしらの形で報いたいと考えていた。
「入りなさい」
音を立てぬように襖が開き、廊下で返事を待ち、座していた女が部屋へと入ってくる。その手には一冊の書物があり、彼女がこのひと時をどのように思っているのかが窺える。みょうじなまえは自身が生まれ育った環境が原因で、文字の読み書きが苦手であることを憂いていた。よく日常で目にするものなら、問題なく読み取れるものの、読み取った言葉を文字として紙面に書くことが出来なかった。なまえは度々、自身のことを寂しげに話すことがある。元々、身売りに出されていたのだから、彼女の生活環境はあまり褒められたものではなかったのだろう。
「ありがとうございます。今夜もよろしくお願いいたします」
「そこまで固くならなくていい。いつも君は緊張しいだな」
「……申し訳ございません。ですが、」
「君が私に恩義を感じていることは分かっている。だが、私も君にこの屋敷を任せているんだ。もう少し砕けた態度をとってくれても構わない」
「まだ、私には難しゅうございます」
伏し目がちに困惑した表情を見せるなまえに、困らせてしまったかな。と訊ねれば、慌てた様子で首を横に振ってくれる女中に土方は明かせぬ思いを抱いている。みょうじなまえという女はどこか放っておけない類の人間だった。全てにおいてという訳ではなく、土方が不在にしている間は屋敷を任せるに足る人間なのだが、こうして顔を突き合わせると途端に弱い相手だった。
「さて、昨晩はどこまで読んだか」
「……確か、ここまで読んでいただきました」
なまえが自身が持ち込んだ書物を適当に開けば、前回まで読んだ頁と頁の間に小さく切った手ぬぐいの切れ端が挟み込まれていた。始まりの文を目でなぞれば、一度読んだ覚えのある箇所で、なまえはその切れ端を取り除くと、土方が読み始めるのを黙って待っていた。大人しくこちらを見つめるなまえの瞳からは好奇心が透けて見え、土方は顔色一つ変えずに昨晩の続きを読み始めた。ゆっくりと小節ごとに分けて読み、なまえの反応を見てはその時々で注釈を入れてやれば、自身の言葉を用いて答え合わせをする。その繰り返しのおかげか、最近のなまえはある程度の書物であれば、大まかに内容を理解出来るまでには知識を深めていた。
このような夜を迎えるようになったのは、土方が土産として書物を持ち帰った日からだった。日中の家事が落ち着いたら読んでも構わないと手渡したものの、先述の通り、なまえは文字を読むことが出来なかった。当時、引け目を感じたのか、初めて土方の前でなまえは曇った表情を見せた。いつもは溌剌として、明るく主を出迎えてくれるなまえが、土方の前で初めて暗い感情を出したのだ。それを不憫に思った土方は、日々新選組の任務をこなしながらも、屋敷に戻ればなまえに教鞭を執ることを厭わなかった。
静まり返った二人きりの部屋に、土方の男性特有の低く、落ち着いた声音の乗った文が凛と、そして丁寧に読み上げられる。土方がなまえに贈る書物は多岐に渡っていた。教養書に始まり、人情本、談義本、滑稽本など、どちらかと言えば庶民向きのものが多く、土方の気遣いに気付いた時にはなまえは何度も何度も頭を下げ、礼を言っていたほどだ。なまえはまだ知らなかった。土方は彼女に頭を下げて礼を言ってもらうことよりも、土方が読み上げた文を理解し、時に肩を揺らして笑い、時に切迫した様な真剣な表情をし、時に人目をはばからず涙する姿を、時に男女の恋愛模様に頬を赤くする様を見せてくれることが一番の礼になっていることを。
灯る蝋燭の芯がジリジリと燃えていく音、男女二人分の息遣い、着物の布地が擦れる音、書物の頁に指が触れた時の掠れた音、障子の外で夜更けの風が慌ただしく駆け抜けていく足音、夜空がひとり囁いでいる音。静寂の中にも息衝く存在と共に過ごす穏やかな時間だった。二人にとって夜更けに書物を読むことは生活の営みの一つだった。限られた時間の中でそれは毎夜行われた、二人の体を傍に置きながら一つの書物を共に読む。どちらも表立って口にはしないが、一日の内でこの時間が一番愛おしいと感じている。この時ばかりは新選組の鬼の副長と呼ばれた男ではなく、一人の男として土方は彼女の隣に居られるのだ。それを愛おしさを呼ばずに何と呼ぶのか。
「今夜はこれくらいにしておこう。続きはまた明日だ」
「はい。旦那様もお疲れでしょうから、どうぞお休みください」
「なまえさん」
「……はい、なんでしょうか」
「なまえさんは文字が読めるようになったら、何をしたい」
いそいそと自身が持ち込んだ書物にあの切れ端を挟み込み、部屋を出ようとしているなまえに土方は訊ねた。なまえは咄嗟の問いにすぐ言葉は出て来なかったが、数分してから秘めた胸の内を明かした。どこか頼りなさげに手にした書物を胸に抱きながら、それは細々と語られる。
「手紙を書きたいんです」
「……手紙を?それはどうして」
「一人、手紙を出したい方がいるんです」
「それは初耳だった。君に良い相手がいるとは」
「い、いえ、そういう相手ではありません。でも、いつかその人に手紙を出したいのです」
「なら、君がその目的を達成出来るよう、私も尽力しなくてはな」
なまえは自身の胸の内を初めて明かしたのか、ほんの少し俯いては恥じらっているようだった。彼女の良い相手についてはこれ以上、言及することはしなかったが、彼女の人柄をよく知っている土方からすれば、そのような相手がいてもおかしくはないと思えた。それから間もなくなまえは部屋を出ると、暗がりの廊下を伝って自室へと戻って行った。
「手紙、か」
一人、蝋燭の傍で土方は恥じらうなまえの姿を思い出していた。良い相手がいる、その事実に胸を撫で下ろしている自分がいるのは、彼女も知っての通り、新選組という組織の幹部に身を置いていることが原因だろう。いつ命を落とすか分からない世界に生きている自分では、好いた女一人幸せにしてやることは出来ない。ならば、良い相手と一緒になれるよう、見送ってやることこそが唯一出来ることなのではないだろうか。不思議と妬みや嫉みといったものを感じることはなかった。ただ、ぽつんと灯る一本の蝋燭のように寂しげであるだけだ。ふ、と息で部屋の灯りを吹き消せば、相変わらず静寂な部屋で布団に潜り込んだ。
***
斎藤、土方、沖田、永倉が京を離れ、土佐へと向かう道中、船上で土方はなまえから持たされていた握り飯を口に運んでいた。竹皮に包まれたそれを食べ進めていくと、一つ不自然な点があった。握り飯を包んでいた竹皮が二重になっており、その違和感に気付いたのは仲間である沖田総司だった。
「なんや、歳チャンに女の影があるとは知らんかったわ」
「そんな相手じゃない、私の屋敷にいる女中だ」
「にしても、その包み、なんか奇妙やなァ」
沖田は米粒一つ残っていない竹皮に手を伸ばすと、二重になった上側のそれを引き剥がした。すると、竹皮の間に一通の手紙が細く折り畳まれて隠されており、土方はその突如現れた手紙に手を伸ばす。そして、中に綴られた文字を目線でゆっくりとなぞっていく。真剣な表情で読み進めるものだから、傍にいた沖田は変に口を挟むことが出来ず、土方が読み終えるのを退屈そうな面持ちで待つ。一頻りに手紙を読み終えた土方は、広げたそれを再び元の形に戻すように折り畳んでいく。
「それで、なんて書いてあったんや」
「私の無事を祈る内容だった、それもあまり上手くはない字で」
「下手な字で手紙を送ってくる相手なんぞ、想像も出来ひんなァ」
沖田の言葉を他所に、土方は折り畳んだ手紙を懐に忍ばせる。癖があり、歪な形をした文字は、確かにあまり上手くのない字だった。だが、その相手をよく知る土方からしてみれば、この一通の手紙は何よりもかけがえのないものだった。苦手なことにもめげず、根気よく取り組むことが出来る相手。その心当たりのある人物は、今日も屋敷は変わりないこと。京を離れて土佐へ向かう土方への心配が尽きぬこと。そして、心配の果てに無事を祈っていることを実直に書き綴ってくれたのだ。
「ああ、そうだろうな。だが、私はこれを貰わなければ、この先のどこかで命を落としても構わないと思っていた」
「……まあ、正直誰が居らんようになってもおかしないで」
「沖田、私には、」
「あ?なんや」
「いや、やめておこう。柄じゃないのでね」
言いかけて止めた言葉に沖田は眉間に皺を寄せた。しかし、土方は一度言い出したら決して折れない相手であると知っているからか、沖田もそれ以上は深追いをしなかった。ならば、先程土方が言いかけて止めた言葉とは。土方は甲板に立つと、潮風に吹かれながら一人、胸の内を吐露する。
「もっと教えてやりたい言葉や読んでやりたいものがたくさんある」
君が目的を達成したように、私も必ず叶えてみせよう。と波間に消え行く言葉を残して、まだ見ぬ明日を共にありたいと強く願った。そして、斎藤ら四人は土佐へと到着し、この国の命運を賭けた戦いを挑むことになる。日本の夜明けは未だ遠く ──── 。
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