街を埋め尽くす夜闇に紛れて、密やかに闊歩する人影がある。浮かれた人波に上手く紛れ込んだ二人は神室町を横断していく。夜の匂いがする繁華街は、堅苦しくスーツを着込んだ二人組のことなど知らん顔で酒と金に目を眩ませている。通りに漂う煙を遮り、この街の人の目が届かない場所へと潜り込む。人には明かせぬ仕事に就いている。今更、その選択肢を選んだことを後悔する訳では無い。ただ時として、ふと寂しくなるのだ。目の前にありふれている当然を謳歌出来る人生を。自身が選んだのは、何もかもから次第に遠のいて行く明日。通りから離れれば離れるほど、元いた世界の眩しさに気付かされる。悔いはない、悔いは。しかし、最近は仕事ばかりで息が詰まりそうだった。そのせいで、たかが移動中だと言うのに、内心、うわの空で仕事に身が入っていない。いつかは悟られてしまうかもしれない、花輪という男は人の思惑を探るのが上手い人物だからだ。
「みょうじさん。あとは戻るだけですが、油断は禁物ですよ。気を引き締めてください」
どんぴしゃ、である。反射的に視線を滑らせると、怪訝そうな表情で眉間に皺を寄せる、すっかり見慣れた姿の花輪がいた。このままでは居心地が悪いと、背筋を伸ばして合流地点へと向かう。仕事については先程、無事に遂行を果たしたところで、後はアジトに戻るだけなのだが、何故だかこの日は街の住人達が浮ついているように感じられた。時折、すれ違う人々の軽装は夏特有の浴衣姿で、もしかして、と思考する前に答えを知る。神室町の街頭モニターに大きく表示されていたのは、夜空を彩る夏の風物詩。過去に撮影されたであろう、夜空に散る美しい花火と共に開催日時が載っており、それは今夜行われるとのことだった。
「花火大会、ですって」
「ほう、もうそんな時期ですか。一年は早いものです」
「だから、浴衣姿の人が多いんですね」
「……思い出しますか、ご自身がかつて、」
「いいえ。そんなの、もうとっくに過ぎたことです」
変に気負わせることのないよう、勝ち気に笑って見せる。このように表情を偽ることには慣れたものだった。時として寂しくなることはあるが、過ぎたことに構っていられるほど、この稼業は暇ではない。花輪は何を思ったのか、暫し沈黙すると、そうですね。と添え、再び黙り込んでしまった。自分としても、感傷している場合ではない。何故なら、あまりにもこの夜は浮き足立っており、道行く人々が眩しく感じられるのだ。こんな夜にたった一人で感傷していて何になる?勿体ないではないか。ならば、忘れてしまおう。そして、許されるなら合間を見て、花輪にでも何かねだってみようと思う。ほんの少しのじゃれ合いのおかげか、闊歩する足取りが軽くなったような気がする。
そして、自身と花輪は当初の予定通り、合流地点に辿り着くと、待機してあった車に乗り込み、後はアジトへ帰るだけだった。だが、この時、想定外のことが起きた。それは、花輪の行動である。車を待機させていたエージェントを降ろすと、そのまま二人だけで合流地点を後にしたのだ。運転席には慣れた手付きでハンドルを切る花輪、助手席には状況がいまいち掴めていない自分。ゆっくりと走り出した車両は細い通りから、やがて大通りへと向かい、気付けば神室町から遠く離れ、どこまでも続く三車線道路をひたすらに無言で走っていた。
行き先が不明なだけではなく、あの花輪が何を考えて迎えに来たエージェントを降ろし、自身の手で運転しているのか。あまりにも無言が続くものだから、つい気分を変えようとそれとなく問い掛ける。
「あの、花輪さん。これはどう言うことでしょうか、」
「これは、とは、私が車を運転している状況についてでしょうか」
「車に乗った後はアジトに戻るだけだと聞いていますが、」
「ええ、その通りです」
ぱたり、と会話が止む。先程より車内の空気が重たくなった気さえしている。しかし、そんな空気などお構い無しで花輪は車をどこかに走らせている。あまりにも不可解であったが為に不安が募る。大道寺という組織は掟に厳しい一面がある。例えば、花輪と同じ管理者である吉村などは平気で意にそぐわないエージェントの間引きを行う。それは大道寺の看板を背負う者のあるべき姿なのかもしれない。だが、花輪は吉村と違い、部下であるエージェントをよく理解し、上手く使うことに長けている。そこまで分かっていながら、何故か脳裏には切り捨てられる自分の姿が何度も再生され、内心穏やかではない。エージェントは代わりの利く駒だ。だが、誰もその替え時を知らない。
「もう間もなく到着するはずです」
花輪の言葉に、何が待ち受けているのか想像し切れない。ただ、願わくば、この命が摘み取られないことを祈る。
***
ざあざあと喚くような波の音。黒い夜の中を颯爽と吹き抜ける風。辺りに人気はなく、そこには適当に停められた車と二人の人物が車を降り、外の空気を吸っている。風に波打つ水平線、貨物を積まれるだろうコンテナ、船に貨物を運搬する重機など、当初の目的地であった大道寺のアジトとは程遠い。つまり、花輪と共に神室町から離れた位置にある埠頭に来ていた。髪や頬、肌を濯ぐように流れていく風が心地よい。だが、未だに内心は穏やかではいられなかった。わざわざ、予定を変更してまで埠頭に来た理由は明かされていない。こちらから切り出した方がいいのか、それとも。
「何故、自分たちはこのような場所にいるのか」
先に口を開いたのは花輪だった。いつもと変わらない固い表情のまま、埠頭にやって来た自分達について語る。
「あなたが察しているような、他意はありません」
「じゃあ、どうして」
「私の小言の詫びです」
「詫びだなんて。花輪さん、私に何か言いましたっけ」
心当たりを探るも上手く出て来ない。その様子を見た花輪は小さく笑うと、単に人が良いのか、大物なのか分かりませんね。あなたは。と続けた。
「頑張りが全て報われるかと言われれば、そうではありません。報われぬものもあるでしょう」
ただ、今夜の私はその頑張りに報いてみたいと思えたんです。そう言えば、分かってくれますか。
もしかしたら、要らぬ心配をかけてしまったのかもしれないと花輪の言葉に一人黙り込んでいた。報われたい、そんな思いは持ち合わせていなかった。生きていく内のほんの数秒、空想する程度で。だが、同じような思いを抱く人間が組織にはどれほど存在することだろうか。何故、花輪喜平という男が管理者になり得たのか、その理由を知った気がする。
「それに私だってたまには報われたい、そう願ってもバチは当たらないでしょう」
「じゃあ、ここで今から楽しいことでもするんです?」
「ええ、丁度始まる頃合いかと」
「始まる頃合い……?」
花輪がレンズの奥で目線だけをこちらに向けた瞬間、遠くの空で何かが破裂する音が響いた。そして、間髪入れずに視界に大量の火花が散る。轟音が静寂を裂き、赤や青の散りばめられた閃光が花びらのように夜空に咲き誇る。勢い良く燃え上がっては、その身ごと無数の光を道連れに儚く消えていく。凪いだ海辺に届くはずのない火薬の匂いを嗅いだ。それが花火だと知るのに時間がかかってしまったのは、不意に与えられたからだ。地上に触れるよりも早く燃え尽きてしまうその身に思いを馳せる。
花輪が言い淀んだ先にある、かつての自分自身は神室町を行く住人と何ら変わらなかった。だが、知らず知らずの内に裏社会に染まってしまった女を、世間が許すはずがない。愚かでいることの罰なのだと思った。目の前で自身の心臓と札束が天秤に掛けられ、それはそれは大きく傾いたのだ。幾重にも積まれた札束の皿に。だからこそ、この出会いは偶然だった。逃避行の果てに大道寺という組織に巡り会い、かつての自分ごと燃やし尽くしてしまったのだ。
「我々のような人間は日陰に生きなければなりません。それはみょうじさんも、もちろん私も例外ではない」
ただ、と続けた花輪は励ましの言葉をあまり言い慣れていないのか、眼鏡の縁に指を添えると、ぐい、とそのまま押し上げた。切れた視線の刹那、花輪の隠し持っていた閃光を目にした。
「日陰に生きなければならない人間ですが、日向を見つめることなら許されている」
違いますか、と誰ともなく問い掛ける花輪に、込み上げる感情が視界を歪ませる。この歳になって簡単には泣いていられないと、上を向き、夜空に輝きを散らす花火を見た。そうでもしなければ、溢れた涙を上手くやり過ごせそうになかった。密やかに深呼吸、涙が少しでも早く引っ込むように、胸を詰まらせながら花火を見ていた。すると、花輪は頼まれてもいないのに、慣れぬ親切心からか、忙しなく話題を提供してくれている。
「ふふ、花輪さんって意外に欲張りなんですね。わたし、全然知らなかった」
「え、ええ、そりゃあ。私も俗世にいた人間ですからね」
「……本当に優しいんですね、」
「いえ、エージェントの不満を解消するのも、管理者の務めですから」
「あ、照れてます?」
「……みょうじさん、」
「ごめんなさい」
これ以上、温かな雰囲気に水を差すことはやめて、最後の一発が打ち終わるまで埠頭の夜空を見つめ続けていた。次から次へと夜空に打ち上がる花火を見ては無邪気にはしゃぎ、宥められ、付近の自販機で買った飲み物を流し込みながら、夏の余韻を噛み締める。夏の夜の蒸し暑さに喘ぎながら、互いにジャケットを車内に預けては薄くなった装いに腕まくりをしていた。
「みょうじさん、ここ」
持て余すくらいの髪を一つに束ねれば、不意に温かな指先を項に感じた。咄嗟に花輪を見ると、ここ、結び忘れてます。とやんわりと髪に触れていた。それが不思議と嬉しく感じられ、もう一度ゴムを解き、今度こそ全ての髪を一つに束ねてから花輪に合図を送る。しっかり結べていると頷く花輪はどこか満足気だ。
「実は私、誤解してました」
「誤解?一体何を、」
「花輪さんが埠頭に連れてきてくれたこと」
「まあ、言ってませんでしたからね」
「私、てっきり処分されるのかと思いました」
「それは酷い誤解ですね」
「だから、今日ここで一緒に花火が見れて、嬉しかったです」
ありがとうございます。と告げれば、花輪はやはり慣れていないのか驚きに丸くなった黒目を他所に逃がす。
「私も帰り道を間違えることぐらいあります」
「そうですね」
不意に腕時計を見れば、あと数分で花火大会は完全な終わりを迎えるだろう。ほんの一時間だったが、とても大切な時間を貰えたように思う。それじゃあ、アジトに戻りましょう。と車に乗り込んだ花輪の後を追うように、数分遅れて助手席のドアに手をかけた。
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