部屋の台所に立つ大柄な男の背後に、ぴったりとくっつく女の姿がある。女の顔は無言でありながら険しく、男は流しで夕食後の、丁度一人分の食器を手洗いしている。カチャカチャ、と食器同士が擦れる音が続いたかと思えば、まとめて洗い溜めしておいた食器に向けて蛇口を捻れば、台所のシンクを打ち付ける強い水圧音が響く。その音はもう直に男の家事が終わり、手持ち無沙汰になることを告げているが、それでも尚、背後の女は険しい表情を崩さない。寧ろ、しがみつく腕に力が入り、より密にくっついていた。
「もう少し離れられへんか。さっきから不便でしゃあない」
水、飛ぶで。くっついとるから、泡がついたやないか。なまえの分も洗っといたわ。と女の名を呼んだ男、冴島大河は背後にいるなまえへ何度も語り掛ける。しかし、なまえは名を呼ばれても目立った反応をせず、冴島の家事が終わるまで背後にくっついていた。だが、いよいよ食器洗いを終えた冴島はいつまでも台所に立っていられないと強行手段に出た。先程まで食器を洗っていた手は冷水でとても冷えており、その手をとにかくなまえの肌に押し付けた。すると、あれほどしがみつくように張り付いていたなまえがあっという間に自身から離れていく。
「堪忍や」
そして、距離を置いたなまえの体を思い切り抱きかかえると、そのまま台所を離れてリビングへと連れ込んでいく。小さな悲鳴を上げたなまえの体を軽々しく持ち上げた冴島は至って涼しい顔だ。なまえはなまえで、眉間に皺を寄せたまま、冴島にされるがままに抱きかかえられている。
「ほんで、今日はどないしたんや」
いつもよりほんの少し高い位置になまえの顔があり、僅かに見上げる形で覗き込む。音もなく、冴島の首に回されたなまえの腕が力んでいた。そして、なまえは険しい顔を更に曇らせたかと思えば、か細い声で鳴いた。
「……大河さあん、」
今にも泣き出しそうな顔をして、なまえは冴島の名を呼んだ。二人の時にしか呼ばない呼び方に、冴島はなまえを抱えているからか、寂しげな背中を撫でてやれないことを悔いていた。ぐずぐずし出したなまえは一時的に弱っているだけなのだと知った。一体、何が彼女をここまで弱らせたのか。
「今日、朝から全然ついてなくて、」
「そら大変やったな」
「私、もういい歳なのに、道で盛大にコケて、」
「コケた?怪我はないんか?」
「膝と手のひら、擦りむいちゃって、」
「なまえの分も洗っといて正解やったわ」
「明日。……明日デートなのに、着たい服も着れそうになくて、」
「なまえがえらい楽しみにしとった、あの服か?」
こくり、と黙って頷くなまえが更に弱り始めていく。明日は前々から計画していたデートの予定があった。冴島は普段とあまり変わらない様子だったが、なまえはそうではなかった。デートの予定が決まってからは、それを頑張りに今日まで仕事をこなして来た。先週の休みには、以前から着てみたいと言っていた服を買って備えていたのに。恐らく、今日の不運でなまえは大きなショックを受けたのだろう。だから、浮かない表情をしていたのも納得だった。
「その服は明日、着れそうにないんか」
「あれ、スカートだから、履いたら膝の擦り傷が全部見えちゃうんです」
「それは確かに残念やな」
「本当ですよお……、」
なんで、こうなるかな。と無意識に呟くなまえに、冴島は自然と近くにあったソファーに腰を下ろす。すると、なまえは突然冴島がソファーに座るものだから、自身の体の不安定な揺れにより強く腕を回していた。背もたれに体を預けた冴島はどこか脱力しているようで、やはり成人女性一人分の体を抱えるとなると、相当の力や体力が必要になるのだろう。なまえは恐る恐る訊ねる。
「……やっぱり、重たかったですか」
「重たない、俺が持ち上げた中で一番軽いくらいや」
どう答えていいのか、この時のなまえは迷っていた。素直に受け取るべきか、そんなことはないと照れ隠しに突っぱねるのか。ただ、今日のなまえは朝からついておらず、心が多少揺らいでいる。ならば、少しくらい自分に甘い言葉を信じても良いような気がして、遅れてから首を縦に降ると、冴島はどこか満足気に笑っているように見えた。機嫌が良いからか、冴島は自然となまえの背に手を回すと、何度も優しく撫で付けていた。大きな手のひらが、何度も背を撫でてくれる感触になまえは安堵する。まるでお手の物、最初からこうして欲しかったのを知っていたかのように。
「この間、着とった服はあかんのか」
「……この間って、買い物に行った時の?」
「あん時、なまえが着とった服、正直言うて俺の好みやった」
あかんか?と求められてしまえば、なまえがそれを拒む理由もなく、再び首を縦に降る。ほんなら、それで決まりやな。冴島は柔和に笑い、なまえもつられて笑い出す。その空間が心地よいからと、素直になった女は今度はそっと体を預ける。男は自身に身を寄せた女の髪に触れては頭を撫で、手に触れては優しく手の甲を撫でた。
「……大河さん、」
「なんや、」
体を預けていたなまえはべったりとくっついていた冴島から少し離れると、黙り込んで何も言わずに冴島の両目を見つめていた。……なまえ?と呼び掛ける冴島の言葉にも反応せず、なまえはひたすらに両目を見つめ続ける。ここでようやく勘のいい冴島が一つの答えに辿り着く。もしや、
「なんか、して欲しいんか」
なまえはその答えを待っていたかと言うように目を輝かせると、次に目を閉じ、つん、と唇を尖らせた。ここでようやく、冴島にも硬い表情が見え始める。
「なあ、おい、ホンマに今なんか、」
「今です。今、すっごいそういう気分なんです」
目を閉じたまま、楽しそうになまえは待ち構える。尖らせた唇のまま、その時を待つ。こういう時のなまえの粘り強さは冴島もよく知っていた。しかも、自身から振った手前、どう収めようかと悩んでいると、閉ざされたはずの目が開き、こちらを見たかと思えば、どこか悲しそうに眉を下げる。それが冴島の良心を揺さぶる。何も恋人である女とキスをするのが嫌なのではない。もっと適したタイミングがあると主張したかった。今まで一度たりとも軟派な行動はとったことはない。だからこそ、こういった状況の彼女に弱いのだろう。
「大河さん、」
「せめて、明かりくらい……」
「わたし、離れませんからね」
断固として、自身の上から離れようとしないなまえに冴島はようやく心を決める。軽々しくするんは性にあわんのや。とぼやきながらも、待ち侘びるそこへ自身のものを重ねれば、長く続かないキスはすぐに終わりを迎える。どんな顔で膝の上の彼女を見ればいいのか分からなかったが、実は同じように目線の落ち着ける先を探しているなまえの姿に息を呑む。そうだ、彼女の、なまえのこういうところが、胸の奥の柔らかいような、くすぐったいような、とにかく一番大切なところを焦がしていくから、愛おしいのだ。
なまえ、と掠れた声で呼んだのは慣れぬ行為に頬が熱くなっている冴島だった。なまえはやや上擦った声で名を呼ぶ冴島に意識を奪われる。すると、ぐるり、と姿勢が傾いて横転する。背中に広がるのは、弾力のある布地の柔らかさ。視界に広がるのは、慈しむような瞳で女を見下ろしている男の姿だった。だが、体勢としては冴島に組み敷かれてはおらず、なまえの体だけを隣に転がしたのだ。なまえが体を起こせば、冴島の膝に自分の足が乗っており、絆創膏が貼られた痛々しい膝小僧が丸見えになっていた。
「これか、怪我っちゅうんは」
あんなに冷え切っていた冴島の手のひらが帯びる熱の心地良さを肌越しに感じていた。あの、無骨な指先が患部を憐れんで優しく触れる度に、なまえも先程の冴島同様、胸の奥の、とにかく一番大切なところが焦がされている感覚に陥る。そして、壊れ物を扱うかのように優しく触れてくれる冴島になまえもまた、愛おしさの意味を思い出す。
「はよ治るとええな」
「うん」
「今日の風呂は沁みるで、我慢せんとな」
「……大河さん、」
「なんや、今度は」
「大河さん、一緒に入りたい」
今日はとことんそういう日なのだと、遂に冴島は観念することにした。……しゃあない、一緒に入るか。と告げれば、飛んで喜ぶなまえに、可愛いヤツやで、ホンマに。と惚気を吐き出すのは今から数秒後のことだった。
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