日中、蒼天堀の賑やかな大通りを外れた脇の細い小路にひっそりと佇む生花店がある。古くからその地で商いをしているのか、生花店の外装は古ぼけており、客足もあまり多くはなかった。しかし、その日はとある男が店を訪ねた。生花とは無縁そうな、小綺麗な身なりの胸元には極道の代紋が小さく光る極道の男。店内の様子が一目で分かるガラス戸を開けては中に入り、カウンターの前に立つ店員の女に声を掛けた。
「毎度どうも、なまえさん」
慣れた様子で挨拶を交わす男に、カウンターの女は破顔して返事をする。この二人の態度からして、あまり悪い関係ではないように見える。
「珍しい、鶴野さんが来るだなんて」
「まあ、月に一回は顔出さな、親父に叱られますんで」
「渡瀬の親分さんのこともありますし、あまり無理してまで、」
「いいや、極道相手にも清い商売をしてくれる店は蒼天堀のどこを探してもここしかない。せやから、親父が気に入っとるんですわ」
「そんな大層なことはしてませんよ」
「せやから、ええんです」
そう言えば、親分さんの出所の日は?まだ当面先になります。じゃあ、親分さんの出所の日には、私の方でお花包みますから。と現生花店の店主であるみょうじなまえは微笑んだ。ヤクザの男とカタギの女、傍から見れば搾取する側とされる側にしか見えないだろう。しかし、鶴野が若頭を務める渡瀬組と蒼天堀の小さな生花店を営むみょうじ家には奇妙な縁があった。
それはなまえが生まれる前に遡る。当時、家業であった生花店を継いだなまえの父の店へ、急遽、慶事用の花輪を用意して欲しいと渡瀬が駆け込んで来たのがきっかけだった。肩書きのないヤクザの頼みなど、今後のことや店への影響を考えて、普通ならば蹴って然るべきなのだが、なまえの父はその頼みをあっさりと受け入れたのだ。そして、当日には美しい花々で彩られた祝いの花輪を用意してみせた。
「親父にとって、今も昔もここは大切な店の一つなんです」
あの一件を境に、渡瀬組と生花店は繋がりを深めていった。組内で何か祝いごとがあれば、渡瀬がなまえの父に花の手配を頼み、なまえの父も晴れの日に相応しい花々を用意して届ける。その信頼関係は娘であるなまえの代になっても変わらなかった。蒼天堀も神室町と同じく、シマを争う組も少なくない。シノギとアガリは必要不可欠なのだが、実を言えば、この店だけはその被害を全く受けていなかった。他の組のシマにありながらも、あの渡瀬組が贔屓にしている店。且つ、組長である渡瀬が目を掛けているということもあり、他の組も手出しが出来ない状況だった。そして、店のケツモチとして、渡瀬組が唯一面倒を見る店がここの生花店なのだ。
「ねえ、よかったら奥で休んでください。鶴野さんもきっとお疲れでしょう?」
「あ、いや、俺は、」
「気にしないでください。どうせ、お客さんなんて滅多に来ないんだから」
「……なまえさんにそう言われたら、断れませんわ」
「ふふ、適当に座布団でも丸めて寝ててもかまいませんからね」
「あの、親父には言わんとってくださいよ」
鶴野はなまえの言葉に甘えて、色とりどりの花達がプランターや花瓶、花筒に活けられている店内スペースを抜けて、奥の居間へと足を踏み入れていく。昔ながらの畳とちゃぶ台、上下で磨りガラスと普通のガラスが張られた戸。どことなく馴染み深い内装に、鶴野はまず一度背伸びをした。ここ最近は多忙を極め、なまえにも話した通り、中々顔を出しにも来れていなかった。自身がこの店に来ることで、周囲への抑止力にもなる。ヤクザが出入りしている店なのだ、これならば変な虫もつきようがない筈だ。
流石にすぐ横になることははばかられた。それ故に何気なく、店で働くなまえの姿を目で追っていた。なまえはシンプルなエプロン姿で、展示スペースにある花達の世話を毎日欠かせないのだと言う。美しく新鮮な花々に手を入れることで、いつまでもその美しさを保ってあげられることが嬉しいのだと以前に聞いた覚えがある。邪魔にならぬよう自身の髪を一つに括り、甲斐甲斐しく花々の世話をする姿は、いつ見ても胸の奥に訴えかけてくるものがある。
「ホンマに、よう働く姉ちゃんやで」
鶴野のぼやきはなまえには届かず、なまえもまた自身が鶴野に見られているとも気付いていなかった。もし、所帯を持つとしたら、このような女が良いのだろうと思えた。もっとも、今は現を抜かしている場合ではない。秘密裏に進めている計画もある。近江連合が解散した後のことも不透明だ、最近になって将来が見えないことが多くなった。だが、極道の未来を考えた時、それ以外に手段は無い。人の命に価値がなくなった日、世間は今までの報復と言わんばかりに必ず牙を向けてくるのだ。
ぼんやりと後ろ向きな未来をなぞっていると、なまえと本人以外の声が店内から聞こえて来た。陽気な若い男の声が数人と、どこか困惑しているなまえの声だ。それは店の出入口付近から聞こえてくる。相手らは鶴野が奥にいると気付いていないようだった。だが、ここで先走って出て行ってしまい、せっかくの客を逃すことになるのは避けたいと思い、まずは会話に耳を傾けてみた。どんな花を探しているのかと訊ねているのはなまえで、その問いを適当に躱しているのが男達だった。
「ご家族か、誰かに贈り物ですか?」
「いや、そうじゃなくって、さっきたまたま店の前を歩いてたら、お姉さんが見えたので、」
聞くに堪えない戯れ言である。あまりにも不純な動機に、鶴野は自身の眉間に皺が深く寄っていくのを感じる。あとは想像に容易く、男らによる、さほど面白くない話の連続だった。今から三分は待つことにしたものの、居間の壁に掛けられた時計の秒針がカチ、カチ、カチ、と音を立ててすぐ、鶴野は居間から飛び出して行った。
「おう。何やねん、お前ら」
低く唸る声に、店内にいた全員が鶴野に視線を奪われる。なまえはどこかほっとしたような顔で、反対に男達は緊張に強ばった顔で。
「買うもん決めんと店入って、お姉ちゃんに絡む始末。ここがどういう店か、分かって来とんのか?ああ?」
たった一歩、革靴の黒が踏み出せば、大勢が一歩以上後退る。もう一歩、更にもう一歩……と黙り込んで男達との距離を詰めれば、いよいよ緊迫した空気に耐えかねて一人、また一人と店を逃げ出ていく。鶴野は全員が居なくなった後に小さく舌打ちし、花ぐらい買ったらんかい、このボケ共が、と吐き捨てた。自分の代わりに憤慨する鶴野の背中を見たなまえは、いいんです。と困ったような顔で宥めた。
「なまえさんもあんな奴ら、相手にせんと呼んでください」
「でも、」
「でも、やないです。俺が店に居って、なまえさんに何かあったら」
「ううん、違うんです。呼びたくなかったんじゃなくて、」
鶴野さんなら、呼ばなくても出て来てくれるような気がしたんです。そしたら、ね。ふふ。
困ったような顔を一変させ、助けに来てくれたことを心底喜ぶように、はにかんで笑うなまえに、鶴野はこれ以上堅苦しい話は出来そうにないと口を噤んだ。
「ホンマにアンタら父娘はウチの人間、駄目にさす天才ですわ」
「そんなつもりはないんですけどね、へへ」
「せやったら、何嬉しそうにしとるんです」
「嬉しかったんです、鶴野さんが助けてくれて」
「そうでっか、そらぁ何よりや」
ここまで露骨に嬉しそうにされてしまっては助けた甲斐があるが、鶴野はこそばゆい感情に駆られ、意味もなく店内をうろつき始める。あのまま二人でいると、一人の男として弱い部分をさらけ出してしまうような気がしたのだ。あくまでも自身はヤクザ、相手はカタギ。越えてはならない一線はしっかりと引かれている。だが、こうも思うのだ。もし、その越えてはならない一線がぼやけて見えなくなってしまったら、いつかその時は ──── 。
ふと、立ち止まる。目の前には、差し色の赤が美しく、そして大ぶりな葉を蓄えた鉢植えが置かれていた。発色の良い赤と深い緑が店内で一際存在感を放つ鉢植えに見蕩れていると、いつの間にか隣になまえが寄り添って並んでいた。店主曰く、これはポインセチアという品種の低木だそうで、赤く色付いているのは花びらではなく、苞葉と呼ばれる葉の部分なのだと教えてくれた。種類によっては、白やピンク、青にオレンジ、紫に色付くものもあるのだそうだ。
「十二月から開花し始めるから、クリスマスの花なんて言われてるんですよ」
「確かにクリスマスっちゅう色合いしとりますわ」
「この赤と緑の葉がそう見えますよね」
なまえが本業の顔を見せ、鶴野はその姿を隣で見つめている。立場は違えど、同じ蒼天堀の街に生きる人間の偉大さに触れる。暴力も金の力も、脅しも、見栄も何も必要とされない世界で、カタギの人間たちはただ体を張って生きている。不要な血を流さず、法や倫理に則った社会で生きていくことの不自由さは極道である自身が一番よく分かっていた。それでも、歯を食いしばり、世の為、人の為と理不尽に晒されながら仕事に励む姿は、やはり尊敬に値するとさえ感じていたほどだ。
「なまえさん、これ、一つ貰って帰りたいんやが」
「このポインセチアを、ですか?」
「ええ、金なら……、これで足りる思うんですが」
まともに懐を見ずに取り出した紙幣をなまえに押し付けるように渡すと、こ、こんなにいただけません……!と真隣で驚嘆の声が聞こえてくる。その金は突き返さんとってください、釣りもいりません。と更に注文を増やせば、なまえは青ざめた顔をして固まっていた。
「ほな、このまま持って帰ればええですか」
「だ、駄目です!包みます、綺麗に包みますから!」
「ほんなら、また奥で待たしてもらいますわ」
「勿論、ゆっくりしていってください……!」
「俺も急かしとる訳やないんで、なまえさんものんびりやったってください」
よろしゅう頼んます。と鶴野は再び奥に向かって歩き出す。なまえは早速ポインセチアの鉢を抱えると、カウンター奥にある作業場に運んでいった。作業場の近くにはラッピング用の包装紙やリボンなどが纏められた棚があり、なまえは真剣な顔でポインセチアと向き合っている。店主としての一面を覗かせる横顔が綺麗だと思えば、不意になまえに声を掛けられ、内心慌てふためく。鶴野さん、今日のお昼はうちで食べてってくださいね!と先程渡した金が尾を引き摺っているようだった。ちなみに今日は何ですか、と訊ねれば、ごめんなさい、焼きそばです……。と返ってきて、鶴野は無性に焼きそばが食べたくなったのだった。
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