「こんなものしかないですけど、どうぞ」
夜更けの京の街で、永倉新八はとある店に寄っていた。そこは永倉が普段から足繁く通っている食事処だった。しかし、肝心の営業時間はとうに過ぎているにも関わらず、何故永倉の姿が店内にあるのか。それは店で働くなまえが店の片付けを任されており、今日も営業の終わりを告げる暖簾の片付けをしている時だった。偶然にも店が面している通りに永倉の姿があった。見回りを終えたばかりで、空腹を満たそうとなまえのいる店にやって来たのだが、もう店仕舞いの時間だと告げると、そうか。とやけに物分かりのよい返事が返ってきて、不安に思ったなまえが店内へと招き入れたのだ。
そして、木目の机に置かれたのは長皿に乗せられた塩むすびと少しの漬物、水の入った湯呑みだった。なまえは心底、申し訳なさそうにしていたが、永倉からしてみれば凌ぎ損ねる筈だった空腹をどうにかしてくれようとしているのだ。それがどんなに質素であろうと関係なく、永倉は両手を合わせてから二つある内の一つを手に取り、大きな一口で頬張った。すると、中々二口目に行かない永倉になまえは顔を曇らせていく。
「あの、永倉さん……?」
なまえの呼び掛けにも応じず、眉間に深い皺を寄せたままである永倉は、次に湯呑みを大きく傾けるとようやく口を開いた。
「美味い」
たった一言それだけである。永倉の異様な様子になまえは隙を見て、永倉が頬張った握り飯をひとつまみ口に運ぶと、舌の上にじわりと広がる強い塩味に台所へ引っ込み、瓶から湯呑み一杯分の水を流し込んだ。永倉に出した握り飯を作ったのは、何を隠そうなまえ本人だった。しかし、嫌がらせなどの意図は無い。これでもよく出来たものだと心から思っていたのだから。だが、なまえの思いとは裏腹に、ひどく塩気の強い握り飯を出してしまったのが現実である。
「永倉さん、ごめんなさい。こんなの、体に悪いですから残してください」
「いや、残さへんよ」
「私もさっき食べて分かったんです、明らかに塩の加減がおかしいって」
永倉の人の良さはよく知っている。新選組の隊長でありながら、その地位に甘んじず、力をひけらかさず、愚直に一隊士を貫く永倉をこの街の人間は信頼し、好いていた。勿論、なまえも例外ではない。日頃からこの店を懇意にしてくれる他、見回りの時には一言声を掛けてくれる気遣いにも助けられていた。そんな相手にこれ以上、口に合わないものを食べさせる訳にはいかない。なまえの思いとは裏腹に、永倉は手にした握り飯を食べ進めていった。
「あの、本当に……、」
「これはなまえが俺の為に作ってくれたもんや」
永倉は店に招かれた後、近くの席で待っている間、なまえが台所で四苦八苦しながら、慣れぬ手つきで握り飯を作っているのを見ていた。
「せやから、美味い。何遍でも言うたる」
「もう、そんなこと言って……!こんな時に意地張らないでください……!」
「意地やない、俺が美味い言うたら美味いんや」
一歩も引かぬ永倉の態度に、なまえはいよいよ何も言えなくなる。やがて、長皿の上にあった塩むすびと漬物は跡形もなく無くなってしまった。永倉は出されたものを綺麗に平らげると、ごちそうさん。と食べ始めの頃と同様に両手を合わせている。今のなまえに出来ることと言えば、永倉が摂取した塩気以上の水をたくさんの湯呑みに入れて出してやることだった。永倉は、すまん。と小さく呟くと片っ端から湯呑みを空にしていった。ほら、やはりそうではないか。
「だから、残してもいいって言ったのに、」
「出されたもんを突き返すんは男やない、それだけや」
「お腹壊しても知りませんよ、」
「そないヤワな体しとらん」
「……ごめんなさい。私、昔っから料理だけは駄目で」
申し訳なさで胸が押し潰されそうになる。本格的に自身の作った料理を振る舞うなんてことがあってはならないと自覚する。食事処の娘として生まれておきながら、不思議と料理だけは滅法出来なかった。他の家事は問題なくこなせると言うのに。こんな時にでさえ、まともな塩むすびも作れないのだ。自身の不甲斐なさを痛感する。挙げ句の果てには永倉に気を遣わせてしまう始末だ、もう目も当てられない。
「これだけは信じてくれ、ホンマに美味かったんや」
人の気持ちがこもったものほど、この世に美味いもんはないと思うとる。
俯きがちだった視線が、その言葉に触発されて永倉の視線と重なる。永倉という男は、いつだって真っ直ぐな瞳で自身を見ていた。その真っ直ぐな瞳を見ていると、落ち込んでいた気持ちが軽くなっていく。落ち込みで右往左往していた心も徐々に落ち着きを取り戻し、気付けばなまえは小さく笑っていた。
「ふふ。本当に永倉さんって、意地っ張りですね」
「そうか?」
「だって、ここに並べた湯呑みのほとんどが空ですよ」
「そ、それは、喉が渇いとった」
「それなのに、私のことばっかり気にして、」
なまえが笑いかければ、永倉は初めて視線を逸らし、口を真一文字に結び、後頭部を大雑把に掻いていた。あまりにも真っ直ぐで心根の優しい、真面目な人だと思った。実を言えば、なまえは永倉が食事をとる姿が好きだった。この店の常連の中でも一番の大食いで、山のように積まれた米や丼によそられた味噌汁、何度も器を返してはもう一杯と食べ進めていく姿を見ていると、すっかり満たされたような気持ちになれるのだ。そして、いつも最後に思うのは、自身が作った料理もああやって思い切り食べてもらいたいと。しかし、今夜の一件でよく分かった。そのささやかな夢は叶いそうにないことを。
「永倉さんに美味しそうに食べてもらえる料理が羨ましいです」
「せやったら、また食わしてくれたらええ」
「でも、」
「俺ならなまえの料理、必ず全部食べ切ったる」
「……ふふ、お世辞でも嬉しいです」
「お世辞ちゃうわ、ホンマや」
そして、今度は永倉がなまえに問い掛ける。どないしたら、なまえは俺が本気や思うてくれるんや、と。不意の独白になまえは自身の耳を疑っていた。冗談で済ませていたものが、その実、冗談などではなく本気だったのだと。どのような答えを返せばいいのか分からず、なまえは沈黙する。その間、永倉も押し黙ったまま、なまえを見つめていた。
「だって、」
「だって、やない」
「それは永倉さんだからでしょう、」
「せやったら、俺ならええっちゅうことにならんのか」
「……お魚だって焦がすし、塩むすびもすごく塩っぱい。おうどんのつゆだって、味がしないものを作っちゃったこともあったんですよ」
とどめを刺す。流石にこれは永倉も敬遠すると思われた。だが、寧ろ永倉は好戦的な目をして、こう返す。
「なら、それ全部食わしてくれ」
「……え?」
「俺は物分かりが悪いんや。せやから、全部自分で確かめな納得出来ん」
ここまで意地を張り続けられると、人間呆れることしか出来ないと知る。しかし、内心呆れていると言うのに、本心はどこか喜んでさえいるのだ。このような複雑化した感情を上手く隠せるほど、なまえは器量の良い女ではなかった。
「そんなこと出来ないです」
「俺が新選組の人間やからか?」
「いいえ。またそんな料理を出してしまったら、私は私を許せなくなります」
だから、と続けたなまえはひどく真面目な顔で永倉に言い放つ。
「私、必ず美味しい料理を作って、永倉さんに食べてもらいますから」
先程まで曇った顔ばかりしていたなまえが、目に光を宿して真面目な顔で永倉を射抜いている。彼女の真剣さを肌に感じると、永倉は一度頷き、分かった。とだけ答えた。なまえはその答えに覚悟を決めたようだった。
「楽しみにしとる」
「永倉さんも本気で思ってくれてるんだから、私も本気にならなくちゃ失礼じゃないですか」
絶対に料理の腕を上げて、永倉に美味しい料理を出すのだと意気込むなまえに、永倉は僅かに首を傾げる。永倉の違和感を覚えた表情になまえも釣られて首を傾げる。
「いや、そう言う意味ちゃうで」
「へ……?じ、じゃあ、どういう意味だったんです、」
「今、ここで言うてええんか」
「え、な、何を言うんですか、」
「せやから、聞いとんのや。今言うてええんかどうか」
「えっと、こ、今度でお願いします……!」
「せやな。なまえが美味い飯出してくれた時にでも、ちゃんと言うたるわ」
途端に不敵な笑みを浮かべる永倉に、なまえは頬の紅潮が止まらない。心做しか、顔も熱いような気がしている。きっと深い意味はないだろうとなまえは高鳴る胸を落ち着かせようとするが、不意に見た永倉のどこか仕損じてしまったような表情に、余計に自身の感情が分からなくなってしまった。しかし、今日の日の答えはまだ見ぬ明日に用意されていると思えば、不思議と明日が待ち遠しくなるのだった。
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