「峯さん、ごめんなさい。気を遣わせてしまって、」
「構いませんよ、俺もそうすべきだと思っていましたから」
二人きりの車内、窓ガラスの外には夜の首都高越しに乱立した高層ビルが次から次へと流れていく。女は右側の助手席に、男は左側の運転席に座し、物静かに言葉を投げかけ合う。二人は極道組織の関係者であった。助手席の女は東城会六代目会長の秘書を務めており、運転席の男は白峯会の現会長である極道だった。白峯会の会長である峯義孝は本日開かれた会合に出席しており、解散後も六代目である堂島大吾に呼び止められ、この時間まで東城会の本部に滞在していた。そして、帰り際に時間帯も遅いことから、なまえを送って行ってもらえないか。と大吾の計らいによって、今に至る。
なまえは初めて乗った助手席のシートベルトを無意識に掴んでおり、峯は見慣れぬ車内の風景に密かに表情を硬くしている。普段ならば、なまえは自力で車を回して帰路に着くのだが、この日ばかりは大吾の強い後押しに遠慮出来ないまま、峯と共に帰路に着いている。やけに強い後押しには違和感を覚えたが、内心を明かすとこの状況は願ったり叶ったりであった。みょうじなまえは堂島大吾の秘書である。そして、峯義孝は堂島大吾の兄弟分である。そんな二人が互いを知り合うのに時間はかからず、会合などで幹部クラスである極道達が本部に召集される度、喜びに高鳴る心臓があることに気付いた。
「このお礼はどこかで必ずさせて下さい」
「お礼なんて結構です。俺は大したことしてませんよ、元々は六代目の頼みですから」
真っ直ぐ前を見据えた峯の言葉に、なまえは寂しさに襲われた。現状は全て大吾によって用意された偶然の場だ。なまえが、峯が、と言うよりかは大吾の計らいなのだ。少し前まで自惚れていた自身を恥じる。なまえが内心で猛省している間、峯にも思うことがあった。今回の大吾の計らいは少なくとも、自身の心を見透かした上のものであると。はっきりと明かしてしまえば、峯義孝はみょうじなまえに心を寄せている。今まで一度たりとも恋慕を匂わせるようなことはしていないにも関わらず、やはり兄弟分だからなのか、大吾には全てが筒抜けになっていたのだ。
『帰り、みょうじを送ってやって欲しい』
『帰りですか、構いませんが』
『こんな遅くに彼女一人で帰すのは心配なんだ。峯、すまないが頼まれてくれるか』
『分かりました』
なまえの送迎を頼まれた時、峯の心臓は喧しく脈打っていた。今まで何度か女性を送り届ける場面はあったものの、ここまであからさまに感情に異変をきたしたことはなかった。みょうじなまえはよく出来た女性だった。あの堂島大吾が自らの秘書として置いているのだから、かなり優秀な人間なのだと思っていた。だが、実際に会って話をしてみると、何もそこまで優れた秘書と言う訳ではなかった。勿論、秘書としての働きは申し分ないが、その他の場面では所々抜けが目立つ、そんな相手だった。
ある時は真島吾朗にちょっかいを出され、大吾に直々に止めに入ってもらったり、またある時には膝にたくさんの絆創膏を貼っており、その理由を問えば本部の通路で思い切り転倒したのだと、赤面しながら話してくれたこともあった。みょうじなまえは峯が思っている以上に人間味溢れる女性だったのだ。そして、いつの間にか峯はそんな人間味溢れるなまえに、一人の男として心を寄せていた。
「確か、次のインターで降りるんでしたね」
「……ええ、」
「浮かない様子ですが、気分でも悪くされましたか」
沈黙のまま、首都高を駆け抜けて来た峯は密かに右側を盗み見た。声音でも判断出来るほどになまえは表情を曇らせていた。ハンドルを握る手に力が増していく。上手く言い表せない切なさに当てられて、どうすれば彼女が曇った表情を忘れられるのかを知りたかった。憂い気な瞳、切なさに喘いだ唇、心細くシートベルトに添えられた指先。一体、どうすれば。
「峯さん。もう少し一緒にいたいと言ったら、ご迷惑ですか」
切実そうに鳴く女の声がするりとこの胸の心臓に触れた。何かに焦がれている声が耳から離れない。まるで不可抗力であるかのように、峯は誘われるがままになまえの心臓へと手を伸ばす。
「迷惑じゃありませんよ。ただ、ここを逃したら、みょうじさんは何処に行くつもりで?」
「ごめんなさい、そこまでは考えてません」
「……なら、純粋に俺と居たいということですか」
吹かしたエンジン音に消え、聞き逃してしまいそうな声で答えたなまえは目を閉じ、恋慕に火傷した唇を噛み締めている。横目でしか彼女の表情を追えない状況が歯痒くて仕方ない。そんな顔をされてしまっては、このまま綺麗に別れられないと峯は降りるはずだったインターを過ぎ、長く続くアスファルトを駆け抜けていく。
「あと三つか四つほどで、いつも降りているインターに差し掛かる。そしたら、俺はあなたを連れて降ります」
「ありがとうございます、私の我儘を聞いてくれて」
「あなたの我儘は、俺が聞いた中で一番容易ですからね」
「峯さんのこと、他の女性がほっとくはずないもの」
「フッ、その中でもみょうじさんが一番安上がりで済む」
「それは喜んでいいんでしょうか……?」
「ええ、俺にとっては助かります」
こういうものは金額じゃないこと、みょうじさんならよく知っているでしょう。俺なんかよりも。
この時、なまえは峯が柔和な顔で笑っているのを初めて目にした。白峯会の会長、堂島大吾の兄弟分である姿しか目にして来なかったなまえにとって、自身に向けられた笑みをしっかりと受け止めるのに時間がかかってしまい、再び無言に落ち着いてしまう。峯は心からの言葉をなまえが受け止め、何度も反芻している姿に胸が満たされていた。しっかりと互いの心が通い合う時間に、峯は予期せぬ高揚感に歯止めを掛けている。そうでもしなければ、なまえの望まぬペースで心の奥深くに入り込んでしまいそうだったからだ。
それから、峯の言葉通りに四つ先のインターでイエローのスポーツカーは首都高を降りていき、閑静な下道を法定速度で走り抜ける。すると、不意にコンビニの看板が見えたのをきっかけに、峯は休憩も兼ねて駐車場へと進入していく。左折のウインカー、物静かに踏み込んだブレーキ、効きの良いステアリングを左に切る。手頃な駐車スペースに目処をつけ、ハザードを点灯、頭を振るようにステアリングを切っては、シフトをRへ入れる。寸分狂いのない駐車に慣れた手つきの峯をなまえはぼんやりと見ていた。
「みょうじさんは何かいりますか」
「あ、私も中に入ります」
流れるように駐車を済ませた峯はなまえと共に車から離れると、蛍光灯が煌々と照るコンビニへと入店していく。雑多でありながら商品毎に並べられた棚を見ていると、不意になまえが足を止めたものだから、峯も一緒になってなまえが夢中になっている物を見た。すると、そこにはガチャガチャと呼ばれるカプセルトイがいくつか並んでいた。なまえはその中でも、特にランダムで排出されるキャラクターのぬいぐるみのガチャガチャに目を奪われている。
「それが気になるんですか、みょうじさん」
「はい。私、この子が好きで」
なまえが指差したのは三種類ある内の、猫のキャラクターだった。他の二種類は兎と鼠で、そのどれらも可愛らしい見た目をしている。
「引いてもいいですか?」
「ええ、俺は少し店内を回ってきます」
じゃあ、また。と小さく手を振ったなまえに峯は完全に強ばった表情を忘れて、店内のホットドリンクの什器傍へと向かう。赤いラベルで冬季限定の温かな缶コーヒーを一つ、ボトルのコーヒーを一つ手に取ると、その足でカウンターで支払いを済ませる。いつもならばカードで済ませるところを、不思議と紙幣で払い、細かくなった釣り銭を手になまえの元に戻ると透明のカプセルを一つ手にしていた。
「どうですか、お目当てのものは出ましたか」
「いえ、違う子でした。でも、この子も好きなので」
「じゃあ、俺にもやらせてください」
「み、峯さんもガチャガチャやるんですか……?」
「生まれて初めてですよ、こう言ったものに手を出すのは」
確か、この青と白の猫でしたね。と峯が手にした釣り銭の百円玉を四枚、コイン投入口に流し込んで隣にあるハンドルをぐるりと一回転させた。中のストッパーがハンドルと連動して一回転すると、それは排出口に音を立てて落ちていった。峯は一度なまえと見合い、排出口で取り出されるのを待つカプセルに手を伸ばした。丸くてプラスチック特有の柔らかな硬さを持つカプセルから覗いて見えたのは。
「み、峯さん、」
「これはみょうじさんお目当てのものだ」
「本当に出しちゃうなんて、」
「コイツは車に戻ってから開けるとしましょう」
意気揚々としたなまえとささやかな楽しみを噛み締めている峯は車内に戻ると、早速二人が手にしているカプセルを開けることにした。なまえの手元には黄色の兎のぬいぐるみが、峯の手元には青と白の猫のぬいぐるみが。峯は率先して自身が引き当てた猫をなまえに差し出すと、一緒にボトルのコーヒーも渡す。いいんですか、と目を丸くするなまえに、あなたの為に引いたんですよ。慣れないものに手を出して。と峯は缶コーヒーのプルタブに指をかける。
そして、缶を傾けていると、なまえに突如として車のキーを貸してもらえないかと問われ、峯は首を傾げながらも懐からそれを取り出し、なまえに渡した。すると、なまえは自身が引いた兎のボールチェーンを峯の車の鍵に取り付けて見せる。どこか嬉しそうに、満足気に見せびらかすなまえに峯は穏やかな溜め息を吐いた。
「見て、峯さんの可愛くなりました」
「子どもじみたイタズラは控えていただきたい」
「ふふ、ごめんなさい。じゃあ、外しちゃいますね」
「……いや、そのままで構いません。ただ、その代わりにみょうじさんのも俺に貸してください」
峯の言葉になまえは大人しく自身のキーケースを渡すと、さっきの猫もです。と言われ、猫のぬいぐるみも峯に預ける。峯はキーケースの空いている金具にぬいぐるみのボールチェーンを取り付けると、今度はなまえに見せびらかしていた。峯の車の鍵にはなまえが引いた兎のぬいぐるみが、なまえのキーケースには峯が引いた猫のぬいぐるみがぶら下がっている。
「まさか、みょうじさんは俺とこういうことがしたかったんですか」
「言ったじゃないですか、あまり考えていないって」
「そう言うことなら、この後は俺の部屋で構いませんね」
予想外の峯の言葉に固まっていると、峯は悪戯な子どもの顔で車を発進させる。なまえは慌ててシートベルトを着けたが、峯は口元に笑みを浮かべたまま、なまえを連れて自身の帰路に着くのだった。なまえは一人、顔を赤面させたまま、峯に渡されたペットボトルのコーヒーを力なく握り締めていた。
後日、堂島大吾が峯の車の鍵に兎のぬいぐるみが、そしてなまえのキーケースには猫のぬいぐるみがぶら下がっているのを発見し、何故だかまるで自分事のように嬉しくなってしまったのである。
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