ただいま、と一人玄関先で帰宅の知らせを呟く。
 片手には膨らんだビニール袋、ついさっきまで買い出しに出ていた。外は暖かい、吹く風が少しだけ涼しくて気持ちが良く、日差しも控えめな暖かさ。本当はちょっとした買い出しだった筈が、普段滅多に通らないような道を選び、散歩気分で神室町を歩いて来た。しかし、この部屋に帰って来たのはなまえだけでは無かったようで、玄関先にはもう一人分の靴が踵を揃えて置かれている。
 黒の編み上げロングブーツ。自分の足のサイズより何倍も大きなそれを履きこなすのは彼しかいないとなまえは急いでリビングへと向かう。


 光が差し込む部屋の影に彼はいた。壁にもたれ掛かり、微動だにせず、俯いている。なまえは冷蔵庫の近くにビニール袋を置き、ゆっくりと彼に近付いていく。俯いているせいで彼の横顔は長い髪に遮られ、その表情が全く見えない。静かに足音を忍ばせ、彼の傍へと歩み寄れば、眩しい日差しの近くから穏やかな寝息が聞こえてきた。下を向いている顔を覗き込めば、いつもは硬い表情をくっ付けている彼の顔もどこか脱力しているように見える。
 普段の生活からは考えられない程に穏やかなそれに自然と笑みが零れていた。ここは、この部屋は彼にとって休める場所なのだと思うと、心が弾んで嬉しくて、ほんのりと胸が温かくなる。


「……おやすみなさい、冴島さん。」

 起こしてしまわぬように、なまえは一旦その場から離れ、冷蔵庫前に一人にされたビニール袋に手を掛けた。中身は新発売の清涼飲料水とちょっとしたお菓子、あとは見た目の可愛さからつい買ってしまった三色ボールペンとメモ帳。清涼飲料水のペットボトルは冷蔵庫、お菓子は近くの戸棚、ボールペンとメモ帳はひとまとめにして引き出しの中へ、全て引越しさせ、残った袋は適当に縛って戸棚へしまう。手持ち無沙汰になってしまったなまえは次に何をしようかと考えたが、一人眠っている彼の事を思うと、何もしない方がいい気がして、なまえは手頃な雑誌を手に取り、近くのローテーブルに広げた。

 ぱらぱらと雑誌は捲られる、気になる見出し、鮮やかな色使いの特集ページ、何気なく読んでしまう文章、紙の擦れた音が聞こえた分だけなまえは雑誌から色々なものを吸収していく。そして殆どの記事を読み終えた頃、なまえは部屋の空気の重さに気付き始めた。
 最初は暖かったこの部屋もいつの間にか暑いと感じる程になっており、なまえは部屋の窓を開けようと思った。ほんのちょっぴりと開かれた窓から、外の風がこの部屋を訪ねてくる。ふわりと揺れ、或いは膨らむカーテンを眺めながら、まだ目覚める様子のない彼の横顔を今度は見ていようと思い、こっそりと近寄っていく。部屋を訪ねた風が彼の髪を揺らす、コートを脱いだ彼の薄着な体を撫でている。


 ちょっとした出来心だった。適当に投げ出された足を見て、なまえは彼の膝に頭を乗せて床に寝転んだのだ。どきどきしている、自分でもわかる、彼にこんな事をしたのは初めてだ。彼の膝に耳を当て、頬を寄せ、それでも動かず眠っている彼になまえは安堵する。瞬きはまだ乱れ気味、頬に伝わる硬い感触に胸の高鳴りは収まらない。うっすらと汗ばみ出した額に冷ややかな春風が気持ち良く、体を丸め、瞼を下ろした。真っ暗な視界、聞こえてくるのはうるさい鼓動、すん、と鼻を鳴らせば外吹く風の春の香りがした。その場所の居心地の良さになまえは、このまま眠ってしまおうかと考える。

 ぼんやりと微睡んでいく意識に、その方がいいかもしれないと自分に甘い答えを見出した時、突然唸るような声が聞こえた。眠りの合間に発せられた声だ、多分まだ目覚めはしないだろうと緊張に硬直する体のまま横たわっていると、不意に何か大きなものがなまえの頭に触れた。びくん、と体が跳ねる、あからさまな反応に気付かれてしまうと内心慌てていたのだが、彼は一向に声を掛けてこない。その代わりに何度もなまえの頭を撫でるように触れ、それから近くにあった筈のコートをなまえの丸まった体に掛け、大きく息を吐いた所でまたピタリと止まってしまった。
 急上昇していく体温にコートが暑い。けれど、なまえはまだ大人しく体を丸めている。もぞもぞと動いてみた所で彼が浅い眠りから目覚めない事を知ると、なまえはそっと体を起こし、自分の体に被さるカーキ色のコートを見つめた。


 自意識過剰かもしれないが、許されたのだと思う。それが、タオルケット代わりに被せられたコートのカーキが嬉しくて、なまえは込み上げる薄く色付いた暖色の感情を噛み締め、再びその膝元へと帰る。自然と頬が緩み、歯を覗かせて声を上げずに笑う。
 フローリングの艶っぽいダークブラウン、何色にでも染まりゆく壁紙のホワイト、それに凭れ掛かる大虎の三色、大虎の膝元に寝転がる自分の四色。混ざり切らない色がひと塊に群れていた、寄り添うように。なまえはくすくすと体を小刻みに揺らしながら、まだまだ溢れ出る笑みを堪えきれずにいた。


「人が寝とるんや、じっとせえ。」

 突如、大虎の鳴き声が頭上から降り注ぎ、なまえは驚きに固まる。なまえは自分の居場所としていた膝元から飛び起きると、微妙な距離を取ってから彼を見た。

「さ、冴島さん…!起きてたんですか…?」
「ついさっきや、起きたんは。せやけど、そないゴロゴロしとったら寝よ思うても寝られへんやろ。」
「…ごめんなさい、」
「ええ。そう言うんとちゃう。」

 冴島は大きな欠伸を噛み殺し、暫くの間壁に預けていた体を伸ばす。投げ出されていた足も胡座をかき、なまえはもう少し大人しくしていれば良かったと思った。

「そないによかったんか、」
「え?…ああ、膝枕のことですか、」
「残念そうな顔しとるからな、一目で分かるわ、」
「その、ちょっと新鮮だったから、」
「普通は逆やないんか、膝枕っちゅうもんは。」

 …じゃあ、しましょうか…?と正座でその場に座り直したなまえを見た冴島は黙り込んでしまった。風が通り過ぎるリビングでなまえと冴島はお互いを見つめ合っている。三度目になる春風の横断を待ち、先にその沈黙を破ったのは冴島だった。せやな、頼むわ、とだけ言い残し、冴島はなまえに近寄って行く。

「あ、だったら、フローリングじゃなくて、ソファーとかで…、」
「ここでええ。外の風が気持ちええんや、」
「体痛くなっちゃいますよ、」
「ここじゃあかんか?」

 じっと見つめるその目が猫科のそれに見え、なまえは冴島のコートを肩に羽織ると、どうぞ、と自分の膝を差し出した。おう、邪魔するで、と大きな巨体がごろんと床に寝転がる。膝にずっしりとした重みが伝わり、素直にそこへ頭を乗せている冴島に嬉しいような恥ずかしいような気持ちを抱え、なまえは目の前の少し離れた壁を見ていた。
 数分前の自分と逆転した状態に、結局体は強ばり、照れ恥じらう気持ちもいつの間にか緊張に変わっていた。今度は膝元から大虎の鳴き声がする、まだ上手く気を抜けないなまえに冴島は声をかけた。


「えらい緊張しとるな、なまえ。」
「…はい。冴島さんに膝枕してもらうのも、してあげるのも、なんだかどきどきしちゃって、」
「ホンマか、それ、」
「ええ、私の時も緊張しました?」
「いや、しとらん。寝とったからな、」

 せやけど、途中でなまえが居るって気付いた時はどないしよか思うたわ。としれっと言ってのける冴島になまえは、今の自分と似たような気持ちでああしていたのかと思うと、その意外さに口元が緩む。ぐるり、大きな巨体がこちらを向くように寝返りを打つ。自分の腹部と向かい合って横たわり、軽く身を丸めているその姿に自然と手を伸ばし、優しく背中を擦った。
 薄手の布地越しに大虎の背中を撫でる、筋骨隆々とした背中をただゆっくりと上下に撫でる。その優しい手つきは次第に上へと登っていき、黒く長い髪を辿って頭部へ。そして、上から下へと繰り返し何度も手のひらを滑らせる。冴島に怪訝に思われるだろうと考えていたが、実際の所はそうではなく、当の本人は瞼を閉ざして膝の上に居続けた。


 なまえはもう一つ許されたのだと知る。風に揺れるカーテン、眠りの淵にいる大虎の穏やかな呼吸、その髪を撫でている自分の手、それを見ているのも許されているのも自分だけだと思えば、目に映る景色、今を流れるこの時間の全てが特別なもののように感じられた。

「ホンマにこのまま寝てまいそうや、」
「お布団、お貸ししましょうか、」
「…せやな、なまえの足も痺れてまうやろうからな、」

 名残惜しそうに体を起こすと、なまえの腕を取り、その場を立った。なまえは冴島の行動の訳がわからず、のそっと立ち上がった冴島を見ている。冴島はその視線を引き連れたまま、ほれ、行くで、となまえに呼び掛けた。

「あ、わたしは…、」
「なまえが起きとったら寝られへん。せやったら、一緒に寝た方がええやろ。」
「でも、」
「たまには付き合うてくれや、昼寝。」


 また、冴島の目は猫科のそれになっている。なまえは冴島のその目に弱いと言う事に気付き、分かりました、と冴島の手を引いた。肩に掛けられたカーキと春の暖かな匂いを纏わせ、二人は柔らかな白へと誘われていく。



| 春風の止まり木 |


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