「お願いします、助けてください」
だだっ広い畳の上で女が泣きながら懇願してきた。頭を畳に押し付けながら、命だけは助けて欲しいと乞うている。男はと言えば、従者達に退室を言い付け、懇願する女の前で体に馴染んだ椅子にふんぞり返っていた。見目麗しい女だった、無慈悲にもキャッスルの一室に連れてこられたのは。その女は馬鹿な遊びに興じた男の最後の頼みの綱として売られたのだ。カジノや賭博、ここには何もかもが揃っていた。湯水のように金を溶かしても溶かしきれない人間達が享楽に耽る、キャッスルとはそう言った場だった。
莫大な金を溶かした人間の末路は決まっている。一つ、身ぐるみを剥いで変態達に弄ばれる奴隷と成り下がるか。一つ、最後に残された命を使って別の変態共の見世物になるか。どちらにせよ、まともな結末は用意されていない。しかし、その選択を迫られた時、男には切り札が残されていた。みょうじなまえ、今この場で頭を下げている女だ。
「可哀想になあ、アンタはあの馬鹿な男のせいでこんな目に遭ってる」
心の底から同情するよ、お嬢さん。とどのような顔をして頭を下げているか見えない女の気持ちを掬ってやる。嗚呼、綺麗な黒髪が惨めに畳の上を這いずっている。嗚呼、彼女の柔肌に畳の織り目の跡が刻まれている。嗚呼、どこまでも無垢な唇が浅はかな命乞いを唱えている。嗚呼、何の罪もない女の尊厳が地に落ちていく。誰が為に身を挺する女の、何と美しいことか。キャッスルの主である、西谷誉はいつまでも頭を下げ続ける女に真の意味で同情していた。だが、元恋人であるろくでなしの男の為に身を売られても、恨み言一つ吐かないなまえに西谷は興味を抱いていた。
極道の世界では存在の証明が難しい、他人同士の愛という感情による繋がり。それは世の中のどこを見ても、散々な結末に終わっている。しかし、目の前にいるこの女は自身を売った男に、未だに愛情を持っているのだ。好奇心が疼き、血が沸く感覚に西谷は体が熱を帯びていくようだった。いよいよ我慢の限界だと椅子から飛び降りると、すかさずなまえの傍へと近寄り、顔を上げなよ。と許しを出す。すると、女は涙で濡れてぐちゃぐちゃに乱れた顔で西谷を見た。泣き濡れているにも関わらず、美しい顔をしていた。涙で濡れそぼった睫毛、命乞いを唱えた唇は血色の良い桃色、瞳は周囲の照明の光を乱反射させる褐色。本当に美しい女だった。
「アンタを売った男、酷い男だよな。……そうだ、同情ついでにアンタ、あの男をどうしてやりたい?」
欲に溺れ、破滅した男は第三の選択肢を選んだ。しかし、それであの男が失った金が戻ってくる保証などない。背負った借金の分だけ、回収が待っている。あとはこちらで合図をするだけなのだが、西谷はなまえの意見を聞いてみたいと思った。もし、ここでなまえが本性を表して恨み言など吐いた時には、二人揃って見世物になってもらうと決めていた。だが、なまえは西谷に問われても決して報復を口にはしなかった。ただ、命だけは助けて欲しいとだけ告げて。
「あの人は私の恋人なんです。私が愛した人なんです」
必死ななまえの訴えに、どのような答えを選ぼうが仕方がないと言われる場面で見せた計り知れぬ愛情を目の前に、西谷は酷く感銘を受けていた。今まで生きてきて、ここまで一途な女を見たことがなかった西谷はなまえの懇願に首を縦に振り、二人しかいない和室で一度だけ指を鳴らす。なまえは受け入れてもらえた自身の命乞いに涙を流している。ありがとうございます、と西谷に縋りついては壊れたラジオの如く、感謝を繰り返し伝えていた。西谷は自身の懐になまえを仕舞い込むようにして抱き締める。
小さく震えた体、啜り泣く声、繰り返される感謝の言葉。そのどれもが心地よいものだった。あまりの快楽に絶頂を覗きかけていた。だって、そうではないか。あんなに必死になって自身に命乞いをした女が今は感謝を抱いて、自身の懐に身を寄せている。こんなに官能的な場面があるだろうか。西谷は厭らしい笑みを隠し切れなかった。どうせ、懐にいる女には見えまいとヤクザらしからぬ満面の笑みを浮かべていた。
「なあ、アンタ。俺の世話役で傍に置いてやるよ」
実を言えば、先程鳴らした指の意味だが、男の救済などではない。
「甲斐甲斐しく世話を焼いてくれりゃあ良い」
では、一体どのような意味だったのか。明かしたいと思う。
「そうしたら、アンタの恋人とアンタをここから出してやるよ」
──── 処刑である。西谷が指を鳴らしたあの瞬間、恋人だった男は始末された。
「……ほ、本当ですか、」
その事実を知らぬなまえは泣き濡れた瞳で西谷を見上げた。息を呑むほどの美しさに西谷は咄嗟になまえの唇を奪った。濡れ羽根色の睫毛はあまりにも耽美的で、暖色の赤い唇に惹き込まれたのだ。なまえは抵抗してみせたが、欲望に忠実に行動している西谷に敵うはずもなく、されるがままだった。唇の合間に割って入った舌先がじっくりと口内を愛撫し、犯していく。堪らない、心の在り処を恋人に託した女を徐々に犯していくのは。
「なあ。愛してるぜ、なまえ」
乱れた口付けに息を荒らげているなまえに向けて呪いを吐く。真綿であの細い首を括り、じわじわと絞めていく為に。蕩けた目をしながらも、こちらを懸命に睨み付けるなまえに内心唆られる。このまま体を暴いて、心を暴いてしまっても良かったが、何事も急なのは良くない。西谷はゆっくりとなまえと大切な愛を育みたかった。売られた女の末路など、たかが知れているのだ。濡れて艶がかった唇をなぞれば、歯を立てるでもない。乱れた髪を指で梳いてやれば、動揺する褐色の瞳と目が合った。混乱の色が見える。
「本当にアンタが体を張ってまで、助けたいと思える相手なのか?その男は、」
混乱に乗じて核心を突いた。自分可愛さ故に女を差し出す男を数多く見てきた西谷は、憐れんだ目をなまえに向ける。誰だって自分自身が一番可愛いものだと熟知しているくせに、なまえという女は自身の命と献身と貞淑を無条件に差し出している。それを憐れまずして何を憐れめばいい。西谷の言葉になまえは一度だけ目を逸らした。女の心の内が見えたような気がして再び口付けをすれば、今度は笑みがこぼれるほどに無抵抗だった。
***
なまえは他の従者と比べて特別視されていた。心を決めた相手がいたと言う事実を霞ませてやりたい、西谷がそう思うのに時間はかからなかった。世話役だと言い付けていたのにも関わらず、その実態は可愛がられる猫そのものだった。たとえば今、なまえをドレッサーの前に座らせ、傍で真っ赤なリップを手にした西谷がいる。くるくると慣れたようにキャップを取り、真っ赤なルージュの染み込んだ柔らかなブラシをなまえの唇に滑らせる。はみ出さずに綺麗に乗せられたルージュは西谷の黒のネイルが目立つ指先が馴染ませていた。
「やっぱり俺の見立て通りだ、なまえにはこっちの色が似合う」
満足気に口元を三日月のように歪めて笑っている西谷に、なまえは黙り込んだまま、音も立てずにそっと重なった。人肌の柔らかな感触とルージュの蕩ける程に滑らかなテクスチャーが西谷の唇にも色を乗せていく。そのささやかな陰りに背徳を見た。なまえは恥じらっている、欲情を煽る顔をして陰りの隙間から抜け出そうとしていた。最近になってようやく目の前の女は従順になってきたように思う。初めは心に引っ掛かりがあったのだろうが、捨てられた現実を慰めてやれば、なまえは心を開かざるを得なかったのだ。これ以上、惨めな思いをしてあの死人を思う必要などない。
思い出してみても欲しい。キャッスルに来て、自身の欲望すら手に負えず、有り金を溶かし切り、自身の女を売るような男は愛する価値があるのか。だが、その現実に打ちのめされ、爛れていく女の姿はこの胸を酷く満たしてくれた。結んだ縁など所詮こんなもの、命が脅かされると分かれば真っ先に切り捨てて然るべきものなのだと。なまえの精神は日に日に衰弱していった。それもまた愛おしいと西谷は逆の立場でありながら、なまえに甲斐甲斐しく世話を焼いたのだ。そして、胸に刻まれた男の姿を跡形もなく食い荒らしてやれば、なまえの心は西谷へと向いていた。
「……西谷さん、わたし、もう」
「分かってるよ。アンタはもうここを出て行く理由がない。そうだろ?」
「きっと、ここを出ても、」
「行き場所がないんだ、だったら俺の傍についていればいい」
俺がこんだけ気にかける女なんか、今までいなかった。アンタ、とんでもない女だよ。
西谷はあの日の再来のように、なまえと唇を重ねた。あの日と違うのは、なまえは口内を愛撫する舌を拒まなくなったこと。恋人であった男のことを口にしなくなったこと。執着に慣らされ続け、西谷を愛するようになってしまったこと。口惜しげに重なりを解けば、口元にぼやけたルージュだけが残る。熱を帯びた吐息に、西谷はこれまでにないほど満たされていた。腹の奥底から滾る感覚は欲情以外に言い表しようがない。そのくせ、これが純愛かと腑に落ちるのだから、あの日の同情は『同情』などではなかったのだろう。ふと、男と女が互いに足りないものを持ち合わせている意味を知る。
「なあ、愛してるぜ」
なまえ、と口にすれば、あの日聞くことの出来なかった、私もです。の返事に西谷誉はなまえの唇に残ったルージュを自身の親指で削ぎ取った。ここまで来てしまったのなら、あとはもう情欲に溺れていく他にない。
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