同居人が帰ってきた物音で目が覚める。眠気が尾を引く時間、つまり真夜中だろうか。なまえは寝室のベッドで眠っていて、ゆっくりとした足音を立てる同居人を出迎えようとリビングへと向かった。物静かな時間に草臥れて帰ってきた彼のことを思うと、早く顔が見たくなった。寝室を抜け出し、明かりのないリビングには大きな黒い影がソファーに横たわっているのが見えた。なまえは間接照明のスイッチに手をかけ、うっすらと壁を照らす暖色があたたかな部屋に彼はいた。

「おかえり、大吾くん」
「ただいま、なまえ」

 二人で寛ぐことの多いソファーに体を預け、着込んだスーツもそのままの堂島大吾が疲労した声で返事する。なまえはそっと大吾の傍に歩み寄ると、ソファーの足元に腰掛け、ジャケット皺になっちゃうよと囁いた。ああ、としか答えない大吾は今にも眠りに落ちてしまいそうだった。そんな姿になまえは脱がしてあげるから体を起こして欲しいと伝える。すると、大吾はぼうっとした様子で何とか体を起こし、ソファーにもたれかかった。

「今日もお疲れ様。ボタン、外しちゃうね」
「……悪い。眠たくてな」
「ジャケット、ハンガーに掛けておくから」
「ああ、」

 ジャケットのボタンに細い指を這わせ、一つずつ丁寧に外していくのを目で追っている内に、大吾はむくれた気持ちが顔を覗かせるようになった。堂島大吾という相手が目の前にいながら、肝心の恋人は男のことではなく、替えの利くジャケットの皺のことばかりを考えているのだと。その間にもなまえは全てのボタンを外し終えると、まだ体温の残るジャケットを抱えて寝室のクローゼットへと運んでいく。
 俺にも構えよ、と小さくこぼしたのは年甲斐もなく子どもじみた理由でむくれている大吾である。今更、そんなことを言えるような年齢ではないと分かっていながら、ジャケットに甲斐甲斐しくするなまえの姿に不満が募っているのも事実だった。日々、満足に恋人らしいことが出来ないことは仕方ないと割り切っていたが、恋人が傍にいるのに放っておける心理が読めない。

「このまま寝ちゃうでしょ?」

 寝室のクローゼットから戻って来たなまえは大吾に何気なく問い掛ける。ようやく自身になまえの目が向き、むくれた気持ちともおさらばだと思っていたのだが、次になまえが気にかけていたのは、首元のネクタイだった。

「これで寝たら、首元苦しくなっちゃうから」

 再びソファーの足元で身を屈めると、今度は細い指をネクタイに這わせたところで、きゅっとなまえの手を握り締める。それ以上はして欲しくないと言うように。なまえは大吾の行動の理由が分からず、どうしたの、と首を傾げている。上目遣いで自身を見つめる顔があどけなく、けれど、自身への心配が窺えて結局握り締めた手を離してしまう。ただの戯れだとなまえは大して気に留めず、大吾の首元のネクタイを緩めていく。徐々に身軽になる服装、なまえは明日のことを思って動いてくれている。そして、再び手にしたそれを片付けになまえがその場を離れようとした時だった。

「ネクタイくらい、そこら辺に放っておけばいいだろ」
「大吾くんのでしょ?粗末に扱えないよ」
「なあ、こっちに来てくれないか」

 やけに大人しい一吠えだった。寂しさに喉が掠れてしまったのだろう、思っていた以上に弱々しい声音だった。なまえは何かを察したのか、どうしたのかと気には掛けてくれたものの、片付けたらすぐ戻るから。と駆け足で離れていってしまった。遂にいたたまれず、なまえの後を追いかけて寝室へと向かう。クローゼットの前でネクタイをしまい終えたなまえが大吾に気付くと、何かあったの……?とその場で訊ねた。薄暗がりの寝室で大吾はなまえを見下ろしながら、ゆっくりと二人の距離を縮めていく。より顕著に身長差が生まれ、なまえはどこか不安げな顔をしている。違う、そんな顔をさせたくて傍にいてほしいと呼んだのではない。

「俺のこと、どう思ってる」
「どうって、」
「なまえは寂しくないか」

 一度だけなまえは目を逸らした。大吾の問いに首を縦に振れないでいる。分かり切っていた、自身の多忙さや肩書きに伸し掛る重圧は恋人らしい時間をなまえに与えてやれないと。加えて、この有り様だ。大吾自身も人肌に飢えているのだから、なまえは自身以上だろう。

「だ、大吾くんは、」
「俺だって、ふとした時に寂しくなる」
「私もそうだよ、」
「だから、いいんだ。ジャケットが皺になったとしても、ネクタイが床に落ちていても」

 今はなまえに傍にいて欲しいんだ。……駄目か?
 男が我先に恋しさに鳴いた。疲れに浮腫み、眠気にしがみつかれていようとも、胸に渦巻く虚しさだけは消えてくれない。情けないだろうか、みっともないだろうか、男らしくないだろうか。時には恋人の温かな胸で眠りたいと願うことは、許されないのだろうか。

「じゃあ、こっち来て」

 手を引いてくれるのはなまえで、黙って付き従うのは大吾だった。二人は真っ白なベッドの淵に腰掛けると、誰ともなく横たわった。向かい合うように横になると、女の無防備な体に男の手が触れる。くびれた脇腹に置かれた手はその曲線が心地よいと何度も触れ、女は身を震わせる。その愛撫に蕩けてしまう前に、なまえは両手を広げて大吾の名を口にした。すると、大吾は目を丸くした後、どこか気恥ずかしそうになまえの胸元に顔を寄せる。そして、大吾の髪を優しく撫でてやれば、やけに嬉しそうに口を結んでいるのが見えた。まるで何かに耐えているような表情からは、どこか照れや恥じらいといった感情が見える。

「こんなことしてもらうの、初めてかもな」
「そうだっけ、」
「なまえのことはよく抱き締めるが、俺がなまえに抱き締めてもらうことなんて無いからな」
「うれしそうにしちゃって、」
「……そんな風に見えるか、今の俺は」
「うん。かわいいんだね、大吾くんって」
「お前なあ、」

 このまま襲われても知らないぞ。と戯れる姿はまさに恋人同士そのものだった。でも、甘えたい気分じゃないの?と訊ねれば、大吾は徐に体を起こし、なまえに分かりやすく覆い被さる。まずい、となまえは表情を強ばらせた時にはもう遅い。堂島大吾は多忙であるが故に毎日に疲弊していた。つまり、なまえが先程まで見ていた大吾は自身の行動に制限をつけていた、普段の姿であった。いくつかある欲求の内、食欲、睡眠欲を優先させているだけの。

「したいの……?」

 なまえが真面目な顔で予想外の言葉を口にするものだから、大吾は土壇場で面食らってしまった。そのままスキンシップを深めていれば良かったものを、なまえの言葉が行為に至るまでのステップを飛ばしてしまったのだ。理性が恋人の言葉に呆気なく食い尽くされていく。大吾が一度頷くと、なまえも途端に恥じらい始めてしまい、本当に油断ならない恋人である。今になって溢れそうな思いに駆られたのは、やっぱり、と胸板に手を添えるなまえのせいかもしれない。細い手首をやんわりと握り、胸板から外していけば、それ以上の抵抗はなく。

「だって、大吾くん疲れてるでしょう。それに眠たそうにもしてたし、」
「いや、気が変わった」
「な、なんで、」
「かわいいんだな、なまえも」

 意趣返しのような言葉に、なまえは唇を噛み締め、観念したというように頷いた。いつぶりだろうか、肌と肌を重ねる夜は。今夜は少しくらい甘えたっていいんだよな?と恥じらう瞳を射抜けば、いいよ。と次の瞬間には女の顔をするなまえがいるのだった。



| そばに居たいと何度言えば、 |


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