呼吸が止まる。彼女の何気ない一言がこの心臓を奪い取ってしまった。自身よりいくつも年下である彼女は浄龍に唆され、開けてはならない小箱を開けてしまったようだった。無垢な言葉が花輪の胸に深く爪を立てる。さながら、それは破瓜である。

「私、花輪さんのようになりたいんです」

 その言葉を引き出したのは、自身ではなく浄龍だった。浄龍には誰もが胸の内を明かしてしまう、人を惹き付ける何かがあるとは思っていたが、まさか彼女の胸の内までこうも容易く明かしてしまうとは。そして、肝心の自分はと言えば、なまえの明かした本音に、未だに二の句が継げないでいる。蒼天堀のアジト内、花輪、浄龍、なまえの三人で過ごす、ささやかな憩いの時間に起きた出来事だった。

「良かったじゃねえか、花輪」
「え、ええ、意外でした」

 浄龍は肩を揺らして笑い、なまえは先程の本音を口にしてから頬を赤くしている。花輪は今一度、視線を自身のパソコンへと向けた。こうでもしなければ、冷静さを欠いてしまう。今まで何度も穏やかではない話題ばかり挙げていたせいなのだろう、たまに紛れ込む穏やかな話題にどう対処していいのか分からないのだ。花輪は苦し紛れに眼鏡のフレームに指を置き、ぐ、と上に押し付けた。

「みょうじは、花輪のどういうところが良かったんだ?」
「え、っと、ですね、」
「浄龍、無理に聞き出さなくとも結構です。それに彼女も困っていますよ」
「だ、大丈夫です。あのですね、私、」

 エージェント一人一人としっかり向き合う姿勢、突然の異常事態にも冷静に対処する姿……となまえは次から次へと花輪の見本となる言動や行動を並べていった。浄龍は得意げな顔でなまえの話に耳を傾け、花輪は目を閉じ、相変わらず眉間に皺を寄せたまま傾聴していた。みょうじなまえは花輪と同じ、やがて管理者となり得る人材だった。持ち前の思慮深さ、エージェントとの対等な接し方など、まだ荒い部分がありながらも丁寧な仕事を心掛けることの出来る、管理者としての適性を持つ女だった。そして、なまえは現在、花輪の下に付いて知見を深めている最中だ。

「本当によく見てるんだな。俺も一緒に仕事しているが、そこまでは知らなかった」
「勿論です、私の尊敬する方ですから」
「もうやめませんか、この話は」
「いいじゃねえか、たまには。花輪も珍しく嬉しそうにしてるしな」
「……浄龍、」

 小さく睨みを利かせれば、浄龍は懐を漁り、吸い慣れた煙草のパックを手に取る。喫煙スペースはこの部屋の外です。と釘を刺せば、分かってるよ。と浄龍は煙草片手に退散していった。その背中が見えなくなったところで、花輪は咳払いを一つ、そして再び口を開く。

「変な話に付き合わせてしまってすみませんでした」
「ふふ、花輪さんも照れてくれるんですね」
「全く、あの人もおかしなことを突拍子もなしに、」
「でも、私が花輪さんを尊敬していることには変わりません」
「まさか、あなたにそんな風に見えているとは思ってもいませんでした」

 花輪さん、私、花輪さんのようにもなりたいけど、本当のことを言えば、浄龍のようにもなりたいんです。
 それは随分と大きく出ましたね。と話題をなまえに振れば、管理者見習いである彼女が抱えていた思いの丈を知る。まずは浄龍という存在が組織の人間にもたらした影響だ。大道寺の首輪が着いていながら、自我を押し通すことの出来る人間と言うのは今まで存在していなかった。なまえ曰く、浄龍のことを初めて知った時には一種の衝撃を受けたほどで、大道寺の為と言うよりかは自身の為に花輪のところへ来た部分が大きかったそうだ。そして、次に興味を惹かれたのは花輪喜平という、あの伝説の極道だった浄龍にも忖度なしに接することが出来る人間だった。

「私は花輪さんの元で経験を積んで、そして、花輪さんの役に立ちたいんです」

 憧れ故に瞳は凛としていて真っ直ぐだった。花輪は予想外続きで、どのように反応すればいいのか思い悩んでいる。その心意気や良し。だが、果たして花輪喜平はみょうじなまえにとって、そうするに値する人間なのだろうか。憧れにも負の側面はある。一人の相手に盲目的になってしまい、視野が極端に狭くなることだ。花輪には浄龍のような腕っ節はない。気持ちが良いほどの思い切りも、危機的状況を打破する行動力も、何も持ち合わせていない。それなのに、何故。無意識になまえへと疑問を問い掛けていた。すると、なまえは意外だと言うような顔をしてすぐに、少し前の話をし始める。
 それはなまえが大道寺という組織に加わって日も浅い頃だった。今と同じように先輩達に着いて回る勉強の日々の中、たった一度だけトラブルに見舞われたことがあった。その時は別の管理者と共に行動していたのだが、他のメンバーも巻き込む形でトラブルの対処に当たらなければならなくなったなまえは、現場にあまり慣れていないことから命の危機に陥ったことがあった。しかし、自身に救いの手を差し伸べてくれたのが ────。

「あの時の女性はみょうじさんでしたか、」
「逃げ遅れた私の手を引いてくださったこと、今も忘れていません」
「それなら尚のこと、あなたの話は照れ臭くて聞いていられませんね」

 なまえの言葉を聞いていると、今にも心の形を模した器が溢れそうになる。

「ただ、必ずしも私のようにならなくても良いのでは、とは思います」

 自身に憧れ、慕ってくれる彼女を大切だという認識はあった。

「あなたにはあなたの良さがある」

 なまえの良いところは全て、この目で見てきたつもりだった。若いながらも洞察力に優れ、臨機応変に対応することも出来る優秀な後輩。花輪は彼女の為になるのなら、と行動を共にするようになった。誰にでも分け隔てなく与えられる対等さは彼女ならではの強みだとも思っている。花輪はなまえのことを、自身よりもよく出来た人間だと認めていたのだ。花輪は静かにパソコンを閉じ、なまえの目を見つめれば、可憐に瞬きを繰り返す臆病な瞳の行方を知る。伏し目がち、左右をあてもなく漂い、やがて花輪のレンズ越しの瞳へと。先程よりも頬が色付いていることを密かに知り、途端に今までの会話が第三者へ誤解を生みかねないと話題を変える。
 あまりにも露骨に頬を赤くして恥じらっているから、花輪も釣られて頬が熱くなったように錯覚していた。こんな話、浄龍には絶対聞かせられないと出入口を見れば、本人の姿はまだ廊下にあるようで一人安堵する。あまりにも弱い一人の男としての姿を露呈しているのだ、下手に浄龍に見られでもしたら。きっと明日から小言を言うことすら出来なくなるような気がしている。それ程までにこの時間は花輪の素直さが際立つ時間だった。

「ありがとうございます、花輪さん」
「いえ、これからも期待していますよ。みょうじさんは私の大切な後輩ですから」
「……は、花輪さん、」
「……どうかしましたか?いきなり、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして、」
「いえ。……頑張ります、私」

 なまえは何でもないように装っているが、しっかりとそれは花輪の耳に届いていた。ささやかに喜びを噛み締める唇から、なまえの素朴な声を聞いたのだ。もう一度、あの声が聞きたいとなまえの心の扉を叩こうとしたその時。

「どうしたんだ、みょうじ。何か良いことでもあったのか?」
「浄龍、おかえりなさい」

 煙草の香りを漂わせながら、浄龍が元の席に戻ってくる。花輪はこれ見よがしに大きな溜め息を吐くといつもの余計な一言を付け加える。

「本当にタイミングが良いんだか、悪いんだか分かりませんね、浄龍は」
「おいおい、何の話だ」
「さっきまで花輪さんの……、」
「みょうじさん、管理者たるものエージェントに不要な情報を与え過ぎてはいけません」

 今ほどあの口を縫い付けてしまいたいと思ったことはない。天真爛漫な彼女は、すぐに落ち着いた声音で返事をした。聞き分けの良さもなまえの良いところの一つであると再確認する。話に混ざることが出来ない浄龍だけが、苦い顔をしているとは花輪も、なまえも気付く余地がなかった。



| 憧れなど忘れてくれ |


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