どうしても叶えたい夢があった。それは男がこの世に生まれて初めて届きそうだと思えた、一つの夢だった。ろくでなしの親の元に生まれ、育てられ、身を売られた自分に待ち構えていた現実は命を命と見なさず、生きるか死ぬかは賭博の項目の一つとされ、平穏に死ぬことさえも許されない。何故、自分は人として生まれたのかを問いたくなるほどに残酷な現実だった。子どもだろうが、大人だろうが関係なく、命を弄ばれる毎日から脱却出来たのは、渡瀬組の極道があの青年に目をつけたことがきっかけだ。
それからは縛り付けられていたキャッスルから抜け出し、蒼天堀へと戻っては渡瀬組の構成員として極道の世界に足を踏み入れた。極道という肩書きがついただけで世界は見違えるほどに色鮮やかに一変した。女、金、暴力、その全てが極道ならば許される。誰から毟り取ろうが、無理やり奪おうが、極道という肩書きがそれを正当化させてくれたのだ。金があれば、女や欲しいものを好きなだけ手にすることが出来た。周囲の人間の、自身を見る目を変えることも容易だった。力があれば、誰をも従えさせることが出来た。腕っ節だけが取り柄の自身にとって、これほどまでに生きやすい世界は他になかった。
「……なまえ、これでアンタの気は済んだんか」
行為を終えたベッドの上で呼吸を荒らげている最愛に語り掛ける。みょうじなまえは水商売の女ではなく、ごく普通のカタギの女だった。蒼天堀にある会社に務める会社員の女を手に入れたのは、今し方のことである。体のどこにも傷や欠損のない白い素肌が、ホテルの下世話な照明によって官能的に映える。女の腹部が大きく膨らんでは徐々に縮んでいく。先程、二人して絶頂を覗いたばかりだった。素肌のあちこちには汗が滲み、体と体の結び付きが激しかったことを意味していた。
「ごめんなさい、私、」
突然、女がさめざめと泣き出した。可哀想に、まだあの男のことを引き摺っているのだろう。なまえは数時間前、恋人に別れを告げられた。理由は相手の男の浮気によるもので、なまえは酷く傷心していた。自分はたまたまその場面に居合わせ、一部始終を傍目から見ており、最後取り残された女を連れて自暴自棄のまま、行為に至ったのだ。正直、この女が振られて泣いていようが、あの男と関係が続いていようが、関係なかった。生まれて初めて、一目見ただけで他者を欲しいと渇望した。そして、今に至る。
「私、やっぱり、まだ、」
無責任なその言葉に、まだ結び付きが足りないのだと知った。彼女が男を忘れる為にしなければならないことがある。その日は子どものように泣きじゃくるなまえを慰め、夜が明けるまで傍で肌を重ね続けていた。泣いて目を腫らした彼女の、痛々しいほどに気を病んでいた姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。
***
体と体を結び付けると、不思議にも愛着が湧いてくる。それは自分だけではなく、なまえ自身もそうだった。未だに前の男を引き摺りながら他所の男の元に来ては、懐で束の間の安寧に溺れる。爛れてしまった、不用意に燃え盛る炎に手を伸ばしてしまったせいで。この懐で眠るのはこの世で一番美しいものだった。人として必要なものを何もかも詰め込まれて、健全に育てられた女だ。彼女の手は他者の息の根を止める感触を知らず、彼女の足は弱者を嬲る爪先を持たない。彼女の瞳は現実の裏の凄惨な現場を映すことはなく、彼女の唇は誰かの精神を蝕んで追い詰めることをしない。そして、彼女の肉体は一生分の命と幸福が与えられており、彼女の精神はいついかなる時も健やかで、清らかであり続けられるよう、願われたものだ。
綺麗な環境で澄んだ空気を吸い、眩しいほどの陽の光を浴び、穏やかな言葉を交わす世界に生きる女を手に入れることが出来たなら、まるで自分自身も出来た人間になれるように思えた。たとえ、どんなに両手が血と錆に塗れていようとも。なまえを抱く時にはただの男の手のひらと化すのだから。そして、なまえはその手のひらを愛おしく、慈しんでくれる。たったそれだけで、人として欠けたもの全てが埋まっていくのだ。
「なまえ、アンタの望みも俺が叶えたる」
「獅子堂さんが、私の……?」
「アンタはどないしたいんや」
「私は、そんなこと、」
たとえば、アンタを振った男。アイツを蒼天堀の川底に沈めることも出来る。アンタに害を成す奴を徹底的に潰してもええ。せやから、どないしたい。
ヤクザの本性が垣間見えた瞬間、女は顔を真っ青に染め上げ、怯えた目で自分を見ていた。間違えてしまった、と後悔が顔色から窺える。その反応が愛おしさだと告げていた心臓に突き刺さる。空気が徐々に冷え切っていく感覚に似ていた。みょうじなまえはたった今、獅子堂康生を初めて恐れた。
「なんや、勘違いしとったんは俺の方やったんか」
いつもそうだ、白は自身が黒に染まっていく自覚を持たない。今まで生きてきた世界が馬鹿げたほどに緩く、温い場所だったから。
「せやけどな、ヤクザと関係持つっちゅうんはこういうことや」
ここまで結び付いてしまったからには、そう簡単に綺麗に手が切れると考えてくれるな。執着とは未来永劫続く呪いなのだ。
「もう俺はアンタ以外の女じゃあ満足出来んくなった」
なまえが寄り掛からない夜には他の女の誘いを受けてみたものの、ただ持て余していた時間を削っていくだけの虚しさに襲われた。どれだけ一方的に抱こうが、何も満たされない。一体何が違う?同じ女の形をしているのに、大切な何かが欠けている。寧ろ、甘ったるいだけの逢瀬にはうんざりしていた。満たしてはくれないくせに、満たされようとしている傲慢さがちらついて、殺意すら芽生えるほどだ。
「私は獅子堂さんが思うほど、きれいな人間じゃない、」
苦し紛れの言葉だったのだろう、自己否定から入るなまえは獅子堂の求めている女そのものだった。
「俺に面と向かってそう言える女はおらんかった。どいつもこいつも、自分が一番や言う顔しかせえへんで」
なあ、俺が会うてきた中で、アンタが一番きれいな人間や。獅子の爪が女の胸元に深く食い込む。アンタとなら、この先のこと考えてもええと思うとる。獅子の歯牙が女の首を捉えて離さない。
「俺にはやらなあかんことがある。まずは俺が近江のてっぺん、それから関西や関東やのうて、ホンマの極道の頂点に立った日には ───、」
誰にも明かさなかった野望を、女の前でさらけ出せば、なまえは目を伏せて涙していた。それが悲哀だろうが、歓喜だろうが、どうでも良い。この場で必要だったのは、なまえに野望を明かすことだった。これで未来が明るくなるだろう、なまえもいつしか考え直すこととなる。みょうじなまえは獅子堂康生の女であったことを心から感謝するだろうと。そうだ、未来はいつだって明るく尊いものなのだ。誰にも阻まれず、己の腕一つで切り開いていけるもの。何よりも簡単で、単純で、容易で、シンプルであるものだ。
「せやから、今はそれでええ」
いつか必ずモノにしたる。それまでは今日みたいな温い関係でおったらええ。
女の脚の健を断つ。その足でどこまでも歩いて行けると思うてくれるな。決して逃げられないと知れ。女の腕の骨をへし折る。その腕で誰かに縋り付けると思うてくれるな。決して離れられないと知れ。嗚呼、血脈がないている。鼓動も高鳴り、体の隅々まで循環していく。生きるとはこういう事なのだろう。何故、今の今まで忘れていたのだろうか。獣が人となり、牙も爪も翼も本能も、何もかもを手放してしまったことが悔やまれるが、獅子堂康生は本能だけは手放さなかった獣だ。
「 ──── この国で一番高い白無垢着させたる」
執着が巡り巡って人を殺す。やがて災い転じて福となすのだろうが、その前に一体いくつもの骸を転がせば良い。そして、これは災いなのだろうか?いや、違う。これは災いなどではない。
持たざる者がようやく手にした、初めての純愛だった。獣は知らなかったのだ、ヒトの純愛がどのような形をしていて、どのような感触で、どのような感覚なのか。決して喰らい尽くせない相手を思い、いつかこの腹の中に落とし込もうとするのは執着であると、獅子堂康生は知らなかったのだ。
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