温かな部屋の空気に名残惜しさを感じながら、男は一つ鞄を持って玄関先へと出ていた。肌が粟立つ感覚は冬の到来をしみじみと感じさせ、男は既に冷え始めた手で鞄を一度傍に下ろした。間もなく家を出て、職場へと向かわなければならない。激務の一日はこうしてひっそりと始まっていくのだ。などと考えていると、後ろから足音が聞こえてきた。遼さん、と自身を呼ぶ声と共に。振り返れば、温もりに包まれた大切が部屋を抜け出していた。
「私に行って欲しくないのかい」
「……もう、何言ってるんですか。ふふ、」
「違うのかい?正直、私はあまり行きたくないんだけどね」
「お仕事もそうですけど、最近は冷え込むようになりましたから」
「朝はやっぱり苦手だ。得意になりそうもないよ」
「ええ、本当に」
お見送りに来たんです。と慎ましく微笑むのは、青木遼と同棲しているみょうじなまえという女だった。二人はひょんなことから出会い、交際を重ね、現在同棲するにまで至った経緯がある。二人の出会いを一度きりで終わらせたくないと思ったのは青木の方だった。なまえはと言うと、その一度の出会いでさえ貴重な時間だったと思っていた。何せ、相手は自分とは違う世界に生き、この国を新たに形作っていく人物なのだ。どうして二度目があり、その先に発展が待つと考えられようか。
「ここは家の中でも一番冷え込むところだ。だから、無理をしてまで見送りに来なくてもいいよ」
「無理だなんて。遼さんは私に見送られるのがいやですか……?」
「いいや、違うよ。本当は毎朝こうして見送ってもらえると嬉しい」
嘘偽りのない、飾らない言葉が二人の間を行き交う。そうでしょう、と言いたげに自信満々に胸を張るなまえに、青木はなまえを優しく抱き締めた。
「ただ、後ろ髪を引かれる思いで家を出なくちゃいけないからね。それだけが今のところ、ネックなんだ」
寂しさを臆することなく露呈すれば、今度はなまえの腕が青木の背中へと回され、大きな背中を温かな手のひらでゆっくりと撫でた。なまえよりも大きくて広い、そして、皆の期待と重圧を背負い込む誰のものでもないその背中に触れると、不思議と心が落ち着くのだ。まるで自分にもその重圧を分けてもらえているような気がして。青木も同じ気持ちなのか、こうして背中を撫でてやると途端に嬉しそうな声色に変わる。
互いに内心をこぼす。本当は早起きだって苦手だということ。朝食に出してくれた卵焼きが美味しかったということ。あまり詳しくは明かせないが今日の仕事は少しだけ億劫だということ。次の休みは当分先になりそうだということ。今日のなまえの化粧がとてもよく似合っていて綺麗だということ。そして、それが何よりも嬉しいということ。主に青木が多くのことをこぼしていたが、なまえはそれを聞くのが好きだった。国民の前では見せない姿を、自身の前では惜しげも無く見せてくれる。
「私だって見送った後にはすぐに恋しくなります」
「気が合うね、私と君は」
「だって、毎朝こうして私にだけ甘えてくれるんですもの」
「……恥ずかしい限りだよ」
「ほら、そんな仔犬みたいな顔しないで」
仔犬?私が、かい?ええ、しゅんとした顔してるもの。
抱擁が解けると真っ先になまえはしなやかな指先で、薄い手のひらで青木の両頬を挟み込んだ。むぎゅ、と青木の顔にやんわりとした圧がかかる。嫌ではないのか、なまえの手の甲に自身の手のひらを重ね、優しく握り締めた。眼鏡の奥の目が細まっていく。この程よい緩やかな空気感が青木の憂鬱な心境を変えてあげられたらいい。たとえ、言葉を交わさずとも二人の間に流れる沈黙は穏やかさの象徴だった。
「行きたくないと言ったら、私に期待してくれている皆に悪いからね」
「でも、私は行ってほしくないです」
「こら、そうやって揺さぶりをかけるんじゃない」
少し、手が冷えてきたね。もうそろそろ、出ないといけない。握り締めていたなまえの指先が僅かに冷え出したのを機に、青木は腕時計に目を落とすと、一度だけ深く呼吸をする。なまえも残念さを滲ませながら、青木のコートに手をかけると、さあ、どうぞ。とコートの襟元を持ち、青木の腕に袖を通していく。そして、もう一つマフラーを手繰り寄せると、寂しげな首元に巻いていった。これでいよいよ、青木はこの家を出る準備が整ってしまったのだ。
「もう中に戻りなさい。君の体が冷えてしまう前に」
「こんなの、全然寒くないです」
「いつも見送ってくれて、ありがとう。君の優しさは嬉しいけれど、その体は君だけのものじゃないだろう?」
なまえより冷えた青木の指先が再び両手に触れる。控えめに光るプラチナを嵌めた薬指を愛おしげに眺めている姿に、なまえは強い離れ難さを肌で感じていた。誰よりも大切にしてくれているのが、ひしひしと伝わってくる。
「心配してくれるのは、体だけですか」
「いいや、違うよ。君が大切なんだ。……今日はやけに可愛いことを言ってくれるね」
「ごめんなさい、ちょっとした意地悪を」
「そういうことか。でも、私はなまえ、君のことを大切に思っているよ。わかってくれるかい」
「ええ、勿論」
いじけた感情が不思議と少しずつ消えていくのが分かる。自分達はもう大人なのだ。物分かりの良さだってきちんと持ち合わせているのだから、戯れも程々にしっかりと見送らなくては。なまえは恋人としての仮面を着け直す。なまえだって、このような姿は青木遼の前でしか出せないでいる。遠慮なく甘えられるのも、ほんの少し困らせるくらいの我儘を言えるのも、相手のことを思って献身的になれるのも、全ては恋人を愛しているからだ。
朝が早いからと彼よりも先に起き、朝食の支度をすること。本当は料理が苦手だが、美味しいと言ってくれる彼の為に密かに勉強をしていること。億劫である仕事が何事もなく終わるよう、彼の小さな愚痴を聞いて受け止めていること。次の休みまで彼がストレスなどを溜め込まないように心身のケアに励んでいること。綺麗だと言ってくれたタイプの化粧を欠かさず継続していること。
「ねえ、今夜も早く帰ってきてくださいね」
一見するとただの無茶振りのように聞こえるが、真意はそうではない。これは二人の間にしか通じない一種の愛情表現だった。本当は常に寄り添っていたい女の、素直になれない愛の囁きなのである。男はそれを耳にする度、ああ、必ず。と返すのが決まりになっていた。実際、早く帰って来れなくとも良かった。ただ、ここで青木に伝えたいのは、なまえが早く会いたいと思いながら待ち続けているという健気で一途な愛情だった。
青木はなまえと目を逸らさずに頷いて見せる。心と心が通じ合う瞬間はいくつになっても嬉しいもので、なまえは自然と笑みがこぼれた。それがまた愛おしいからと青木がなまえと口付けを交わそうとしたところで、制止が入る。コートの胸板に手を添えたのはなまえだった。何故かを問えば、今日のリップは一度ついたら中々落ちないからと困った顔で笑っていた。
「ごめんなさい、私もしたいけど」
「……焦らしてくれるね、何かと」
「わざとじゃないんです、」
「分かっているよ。じゃあ、今夜は本当に早く帰らないといけないね」
「はい……?」
「焦らされたままじゃあ、悔しいだろう」
男の顔を覗かせる青木の声が鼓膜に響いて熱を帯びる。どんな顔をして青木を見れば良いのか、分からなくなる。しかし、その困惑した顔がひどく可愛らしいと寧ろ青木を煽っていることになまえは気付いていない。
「それじゃあ、行ってくるよ。いい子で待っていておくれ」
「はい。行ってらっしゃい、あなた」
無意識に口にした言葉が最後に恋人を手繰り寄せ、女は頬に柔らかな感触を覚える。呆気なく消えた感触に余韻を抱く間もなく、恋人は玄関を出て行った。後から口付けの意味に気付くと、見送った筈の男のことが無性に恋しくなるのだった。
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