相馬和樹の目の前には、今にも泣き出しそうな女の姿があった。口を歪めながらも懸命に閉ざし、涙を堪える女は、かつての後輩だった。その女、みょうじなまえは在りし日の相馬和樹と共に正義を志し、幾多の苦難を乗り越えてきた人物だ。あまりにも懐かしい再会に相馬は感動すら覚えていた。勿論、なまえも知っての通り、相馬和樹はこの世から存在を消した男だからだ。この国のどこにも、相馬和樹が相馬和樹たる証拠が残っていない、さながら国家の亡霊に成り果てたのがこの男だからだ。望まれてそうなることを選んだ。全てはこの国の義を重んじる為、それだけの為に。だが、この計画は秘密裏に進められてきた。相馬和樹に関することは闇に消え、誰もがその足取りを知る術はないと言うのに、彼女はどのようにして自身のアジトまで見つけ出したと言うのか。
「よう、久しぶり。少し痩せたか?」
「……相馬さん、」
閉鎖され、半グレ達の溜まり場となったここへ近付く人間は大抵まともではない相手ばかりだったが、この日阿久津に連れられてやって来た女がなまえであると、どうして予想出来るのか。意外な再会は相馬の忘れていた感情の一端に火をつけた。なまえはやつれた顔をしていたが、昔の面影が僅かに残っていた。互いに積もる話があるだろうと、他の部下達にはアジトを出てもらうように告げ、相馬はなまえと二人きりのテーブルで向かい合っていた。
「よく俺の居場所が分かったな」
「この街全てをしらみ潰しに探したんです」
「へぇ、結構公安も暇してんだ。知らなかったな」
「いえ、私は、」
なまえが次に明かしたのは意外な事実だった。相馬がモグラとして姿を消してからと言うもの、なまえは底知れない寂しさに駆られていた。何を考えているかは読めないものの、正義の為に尽力する相馬の姿に憧れを抱いていたなまえは、二度と先輩である男の名を呼べぬ現実に打ちのめされていたのだ。恋しい、いつだって自身を気にかけ、時には庇ってくれた男のことを簡単に割り切って忘れるなんてことは出来ない。だが、当時の自分ではどうすることも出来ないと、歯を食いしばりながら少しずつ自身の地位を確立していったのだ。自身に力を貸してくれる人間、他者を意のままに操れるほどの権力、そして、何より自身の強みになり得る経験を積んで、みょうじなまえは相馬和樹に会いに来たのだ。
「だとしても、変だな。俺に関することなら、お上に止められたはずだけど。今更、居なくなった人間を探し出すなんて」
「……私は警察を辞めました」
「この件のせいで?」
「これは私が勝手に始めたことです、組織は全く関係ありません」
「そう。でも、言わなかったっけ」
──── 俺のことは探すな、って。
相馬の一言が弱りかけていたなまえの心臓に突き刺さる。まるで息の根を止めるように他人めいており、容赦のない一言だった。なまえは瞬間的に呼吸が出来なくなってしまった。相馬の言葉は今でも鮮明に覚えている。自身は重要な任務に就くから、決して詮索をしてくれるなと。なまえは悲痛な顔で目を伏せる。すみません、と非を詫びる言葉を口にして。弱り切ったなまえの姿を前に、相馬は心の満たされようが異常だった。
相馬にとってなまえは、本当に可愛い後輩だった。自身より不器用で上手く出来ないことの方が多い、未熟で詰めの甘い彼女は相馬の庇護欲を掻き立てる数少ない人間だった。自己を満たす為になまえに献身的になったこともあると言うのに、なまえはひたすらに相馬和樹を慕い、憧れさえ抱いてくれた。純粋で一途な思いに心を突き動かされない人間など存在するのだろうか?健全とは言えなくとも、相馬和樹も心を突き動かされたのだ。たとえ、それが歪な心であっても。
「でも、嬉しいよ。俺のこと、覚えていてくれて」
「迷惑になるとは考えたんです、でも、でも……、」
「いいよ、怒ってない」
耳触りのよい言葉だけを選んでやれば、彼女が純粋を濡らして泣いてくれる。胸に迫るものがあると同時に相馬は強く思う。どうして、一途な人間が自身の為に摩耗している姿はこんなにも胸を、くだらない自己愛を満たしてくれるのか。あまりにも浅はかで、愚かで、疎ましく、馬鹿げている。それなのに、必死な顔で自身を見つけ出したなまえを嫌いになれないでいる。寧ろ、ここまで愛おしい人間だったのだと今になって知らされたくらいだ。嗚呼、毒してしまいたい。純粋を汚し、自身のものとしてしまいたい。そして、爛れていく姿をこの目に収めたい。善悪の区別を捨て、共に正義の為に尽力すべきだと唆してやりたい。完全に退路を断ち、ここが帰るべき場所なのだと刷り込ませるのだ。
「ただ、ここで俺達は顔を合わせた。これがどういう意味か分かってるでしょ?」
深淵より女の華奢な足を掴んでは引き摺り込む。たとえ、自身の意思だとしてもこの面会は本来ならばなし得てはならないものだ。リスクを孕む面会に相馬はなまえに供物が欲しいと鳴いているのだ。ここまで来て何もなしでは、ただで帰らせる訳にはいかない。だから、前もって忠告しておいたのだ。決して探してくれるな、と。
「相馬さんにこんなこと言ったら、馬鹿だって笑われると思う」
「何?言ってみなよ」
「私、ずっと相馬さんのことが忘れられなかったんです。だから、今日相馬さんに会えたら、」
──── 死のうと思っていたんです。
穏やかな顔で不穏なことを明かすなまえに、相馬は口元を満足気に歪めて笑っていた。やはり、よく出来た後輩だ。ひとつも嘘を吐いておらず、忠誠心に良く似たそれは自身が時に抱く執着であり、愛情であった。くすんだ血色の唇が祈りを紡ぐ。人が人たる所以を知る唇がひどく恋しい。来なよ、と呼び掛ければ、なまえは至って真面目な顔で相馬の傍に腰かける。そして、覚悟の定まった美しい黒い瞳で相馬を見上げていた。殉ずることを恐れぬ両目に見蕩れていた。今までたくさんの人間と接し、この世に存在する人間の全てを見てきたつもりだった。しかし、今ここに存在する女は相馬和樹の第二の心臓になり得る女だった。
「なら、俺の為に死んでくんない?」
手離したくないと思えた人間はみょうじ以外に居なかった。やっぱり、お前は俺のたった一人の後輩だよ。
汚れた手でなまえの後頭部を引き寄せ、祈る唇を奪い取る。相馬自身の悪意も執着も、何もかもを清純ななまえに流し込んでいく。この執着の全てが毒となり、彼女を徐々に犯し、自身のものになってしまえばいいと呪いながら。なまえの確固たる瞳に何の変化も現れなかったが、相馬の流し込んだ毒に着実に蝕まれているのが一目で分かった。生温く濡れた唇を隠しているが、頬は紅潮し、動揺しているようだった。
「上手くやってるように見えて、気苦労が絶えないんだ。俺のことをよく知ってるみょうじなら、分かるだろ?」
だから、この世から消えて欲しい。そして、俺の部下に戻ってくれよ。と毒蛇が曲線を描きながら、無垢な女の肢体に絡み付いていく。滑らかな鱗を擦り寄せ、ゆっくりと身動きの取れないように絞め上げている。綺麗に生え揃った翼もへし折られ、女はただの人へと堕ちてしまった。地を這いずり回る女を愛でるのは、いつだって身勝手な毒蛇なのだ。女を誑かし、唆した毒蛇は人ならざる存在だった。しかし、女は既に愛を知ってしまった。どんなにそれが歪で不誠実で救いようのない、紛い物であっても。
「私でも、相馬さんの役に立てますか」
「今日、ここに来たのがみょうじじゃなきゃ、こんな姿は見せなかった」
毒蛇も本心を僅かに露呈させれば、女は息を呑んで黙ったまま頷いた。相馬は珍しく穏やかな表情でなまえを抱き寄せた。これも策略の内なのか、それとも相馬の本心なのかは誰にも分からない。だが、たった一つ分かることと言えば、再びこの世界から一人の女の存在が抹消されたということだけである。
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