花輪喜平の部下であるエージェントが負傷してアジトへと運ばれて来た。共に任務に出ていた管理者の花輪の手によって、そのエージェントは救出され、今に至る。任務は無事に遂行出来たものの、大切な部下であったみょうじなまえは体に重傷を負って意識不明の中、組織の医療機関にかかっている。担当医曰く、なまえが負った怪我の全貌は一生完治せずに跡として残り続けるのだと言う。そこまでを告げられて次に花輪が考えるべきは、部下のこれからの処遇についてだ。もう前線に立つことは叶わないだろう、彼女は今までに持ち合わせていた任務遂行能力を失ってしまった。
使い物にならなくなってしまった人材については、別の人間と取り替えるのが一般的だったが、花輪はどうしてもその決断が下せずにいた。彼女はまるで自身の右腕のように働いてくれた。性差や能力差をものともせず、花輪の意図を正確に汲み、組織に貢献してきた。頭では組織の理屈などうんざりする程、理解しているつもりだ。大道寺という組織は、善意で表社会から意図せずあぶれた人間の受け皿になっているのではない。大道寺が所有する命のスペアは数え切れないほどに控えている。たとえ、管理者の右腕と言えども組織は容赦なく判断を下すだろう。
「 ──── ところで、花輪くん。例の彼女の件だが、」
当然だった、管理者として上からどのような決断を下すのかと問われるのは必然のことだった。しかし、花輪の判断に委ねられているものの、焦燥した花輪の姿に上も思うところがあったのだろう。パソコンの画面越しに普段なら決して口にすることのない話を、この時ばかりは花輪に持ちかけたのだから。
「彼女も、君も組織の為によくやってくれている。もし、君が日頃の働きについて何かを望むと言うのなら、」
我々はそれを与えてやれなくもない、所謂褒美と言ったところだよ。
その言葉は花輪にとって唯一の救いだった。彼女の命を摘まずに済む方法があると、たった今目の前でそれを提示されたのだ。内心、半信半疑ではあった。自身の属する組織について一番よく分かっているのは花輪自身だ。だが、それでも、一縷の望みに賭けてもいいと言うのなら、臆することなく彼女の処遇を申し伝えた。本当に許されるだろうか、このような個人的な我儘が。それに値する人間だっただろうか、花輪喜平という男は。全てを聞き終えた時、上の人間は分かったとだけ答えて通信は途切れた。
それから日が経ち、なまえの意識が戻った頃に花輪宛に一つの連絡が届く。それはみょうじなまえを大道寺の実働部隊より除名し、その代わりに花輪喜平の個人的管理下に置くことを許可するといった内容だった。あの時の悲願が達成されたような感覚に陥る。彼女は直に花輪へと身柄を引き渡されるのだろう。その後の拠点も組織が手配を済ませたようで、このやり取り以降、組織は無関係であると告げた。
***
「花輪さん、」
「みょうじさん、その姿は」
「……あまり見ないでください」
未だに包帯の外れない姿はなまえの体が受けた損傷の程度を物語っていた。意思の弱まった瞳の輝きは目も当てられないほどに微弱で、何者にも犯されなかった肉体の半分は酷い傷跡が大半を占めており、決して綺麗には治らないことを示唆している。そして、肝心の彼女の体についてだが、今の彼女は満足に体を動かすことの出来ない不自由さを背負ってしまった。半身不随、なまえの左半身は彼女の意思で動かなくなってしまったのだ。
組織が手配した新たな住処で、なまえはベッドに横たわっていた。リクライニングの利くベッドの背もたれに体を預け、締め切った窓際の暗い翳りから花輪を見ていた。花輪は真剣な眼差しのまま、なまえの傍で身を屈めるとうっすらと温かい右手を握り締めた。何と言えば良いのだろう、気の利いた言葉など急に湧いて来るはずもなく、しかし、その場を取り繕うだけの言葉なら何も言わない方がマシだと思えた。だからこそ、花輪は無口なままでなまえの右手をいつまでも握り締めていたのだ。
「あなたが生きていてくれて良かった」
心の底から強く願っていた、こうなる未来を。なまえの命が容易く摘み取られずに、どこかでその生を全う出来る未来を。だが、本心を言えば恐ろしかった。あの時に生きることを見切りをつけていたなら、花輪喜平のせいでみょうじなまえは悪戯に生かされているということになってしまう。それだけは耐えられなかった。しかし、彼女の曇った瞳を見ていると、自身の願いがなまえの大切な何かを踏み躙ってしまったようにも思えて恐ろしい。
「私にはあなたを見殺しにすることが出来なかった」
今まで自身の右腕として支えてくれた彼女を簡単に切り捨てられるはずがない。あのまま死した方が彼女の為だとしても、それだけは許せなかった。たとえ、なまえが死を望んだとしても、花輪は受け入れることをしないだろう。長く傍にいるせいで、強く深く結び付いてしまった。魂が引き裂かれるほどの痛みを伴う、それ程までに互いを心臓と位置付けてしまった。
「私はあなたの為に何もしてやれなかった」
後悔を書き連ねる。誰かを不用意に生かしてしまった責任を今、ここで背負う。
「ですから、これから先は私に任せていただけませんか」
美しい面影が暗がりに薄れて消えていく。柔肌が熱に爛れていようと、深く皮膚を切り裂く傷を負っていようと、褐色の瞳が隻眼になってしまおうと、しなやかな肉体の左半分が不自由になろうと、花輪の決意は揺るがなかった。情けないほどに一人の男が、一人の女に縋り付いていた。血潮のように真っ赤な唇が『 』を吐く。
「……みょうじさんのお言葉はごもっともです」
なまえの言葉が花輪の胸に渦巻く。べったりと絡み付いて染み込んでは正確な脈を乱していく。呑み込まなければならなかった、無条件で。それが他者の命を生き長らえさせるということの代償だった。
「どうして今になって、こんなことを言おうと思ったのか、自分でもよく分かりません。ですが、私は、」
──── みょうじさんを愛しているんです。
握り締めた右手を解き、包帯と肌の境目にある真っ赤な唇に自身を重ねていく。暗がりの中で二人は深淵を見つめていた。拒むことも、拒まれることもない深淵に沈んでいた。何もかもが身勝手の連続だった。花輪の選択も身勝手なものの一つだったかもしれない。だが、その時々で下した判断を誰が身勝手であると糾弾出来るのだろうか。決して明るみには出せない闇を誰もが抱えている。ならば、共存し、贖罪していく他にないのだ。
「……花輪さん、もし、私が生きることを放棄したら、」
「その時は、……その時は必ず、」
己の運命を、愚かさを、憐れさを呪う。
「私があなたの始末をつけます」
空白の部屋に、世界に、深淵に響くのは男が身勝手であることの罪と罰だった。拾い上げた命を生かす責任があるのなら、それの結末を見届ける責任だって存在する。そして、それが花輪喜平に許されたことなのだ。痩せこけたように落ち窪んだ目元を温かな涙が流れ落ちていく。
「花輪さんは私を殺せません」
「いえ、必ずこの手で終わらせます」
そして、全てが終わった日には私もそのまま姿を消します。本当の意味でね。
花輪の迫真さがなまえの鼓膜を震わせる。覚悟の決まった人間は一番たちが悪い。何故なら、その野望を果たすまで妥協することを知らない。明日を生きられるとしても、数秒先の未来を呆気なく捨て去ってしまう。本当にこの局面でしなければならない約束だったのか。本当になまえが必要としている言葉だったのか。誰にも答えは分からない。しかし、今際の際まで結ばれることを選んだ花輪は、裏社会には似合わないほどに誠実な男だった。すくわれたいと願った時、一体誰が二人をすくってみせるのか。そんな都合のいい存在がこの世にいるはずもなく、二人は自身らで縛り付けた運命の下、終焉に向かって歩いていくことしか出来ない。
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