暗闇の眠りからふと呼び起こされる感覚に、意識がどんどん確かなものになっていく。自然と開いた瞼の先の視界はまだ薄暗い、ああ、そうだ、顔に雑誌を乗せたまま眠ってしまったのだと直前の記憶を手繰り寄せる。暗闇に慣れた目を事務所の白熱灯に晒す、寝起きの目はそれに微かに眩みながらも事務所内のあちらこちらを見た。
 眠気がのしかかる体はまだ重く、しかしそれに抗うように体を起こして辺りを見れば、人の姿は無い。幸いなことにこの目覚めは自然なものであって、他者の妨害による目覚めではないのだと知ると、もうちょっと寝れたかもしれないな、と脳天気な欠伸を逃がした。

 自分の席の後ろ、反転したスカイファイナンスのロゴが入った窓の外は薄暗い。眠る前まで高かった陽もどこかに沈み、今は神室町の背景が夜に切り替わる少し前だった。まだはっきりとしない頭のまま、ぼうっとソファーの背もたれに体を預ける。集金日でもなければ外に行く用事も無い、客も来なければ仕事にならない、さてどうしたもんかと秋山は懐を漁った。懐を漁るのは強引な着信の呼び出しか、煙草を吸いたいと思っている時で、今回は明らかに後者である。
 愛飲している煙草とライターは常に一緒に持っており、外の空気に誘われてみようと事務所入口に視線を浴びせていると、扉の磨りガラスに黒い影が通り過ぎて行った。カツ、カツ、と靴の鳴る音がゆっくりと上へ上へと登って行く。その人影について心当たりが一つほど、秋山はその後を追うように事務所を出て行った。



 事務所を出てすぐの階段を登れば、すぐにこのビルの屋上に出られる。辺りは無機質なコンクリートの景色が続き、一箇所に纏められた屋上機器達の群れ、そして所々に目立つ大きな看板がまばらに並んでいた。追ってきた人影は自分より小柄でいて、ふらりと屋上機器の傍で消えた。心当たりは秋山の予想を外さなかった、ここに彼女がやって来る時は何か考え事がある時だけだと知っていたからこそ、秋山はその彼女を一人に、そっとしておくのではなく、敢えて顔を見せに行こうと考えた。だから、煙草はもう少しの我慢だと自分に言い聞かせ、一人になりたそうな彼女の居る屋上機器達の影に踏み込んで行く。

 真っ先に視線を合わせたのはなまえだった。どうやら彼女はスーツであるにも関わらず、地べたに座り、こちらを見上げている。


「こんばんは、お姉さん一人?」
「やめてください、どこかのナンパみたいですよ、」
「隣、いい?」
「どうぞ、」

 なまえは手前から少し奥へと移動し、今まで自分が座っていた場所を譲った。ありがとう、と秋山はそこへ腰を下ろすと、なまえの方を向き、何かあった?と気軽に問い掛けた。なまえはその問いに答えることはしなかった、その代わりに秋山の方を怪訝な目で見つめている。これまた秋山にはなまえが怪訝な目をこちらに向ける心当たりがあった。彼女の装いはまるで見本のようで、平日は仕事着であるスーツの胸元を緩める事はせず、きっちりと襟元までシャツのボタンを留めている。膝丈のスカートや黒のハイヒール、一つに束ねられた髪も、彼女の真面目な性格を表しているかのように派手な物ではなかった。

「またそんなだらしない格好して、」
「…だらしないは無いんじゃない?」
「私からしたら、そんなに胸元開けているのはだらしないように見えます。」
「相変わらず手厳しいねぇ、」
「秋山さんがゆるゆるなんです、」
「じゃあ、なまえちゃんはきっちりさんだ。」

 なまえは眉を八の字に下げ、秋山の胸元のボタンに手をかけた。一つずつ意味を成していなかったボタンに役割を与え、ゴールドのチェーンにぶら下がるコインのペンダントトップは次第に見えなくなっていった。彼女の着ているシャツと同じように襟元まできちんとボタンを留められてしまった、首周りが窮屈に感じる、苦しい。

「ネクタイもあれば結んであげられたんですけど、」
「生憎、ネクタイは付けないファッションでね、息苦しくて仕方ないから外すよ、」
「折角直してあげたのに、秋山さんは、」
「はいはい、ありがとうね。俺の為にわざわざ、」
「どういたしまして、」


 すっかり誠実になってしまったシャツのボタンを再び胸元まで外していく。彼女にこうしてボタンを留められるのは嫌いじゃない、ただ窮屈で息苦しいと言うのが嫌で。結局、秋山の胸元はいつもと同じ涼しい見た目になってしまった。

「それで、きっちりさんのなまえちゃんがこんな時間にこんな所で寄り道なんてどうしたの、」
「今日も考え事です、またつまらないことを考えています。」
「つまらないこと?」

 ちょっとした変身願望です、と最初から諦めを匂わせた目でなまえはそう告げた。変身願望?とやまびこのように返せば、そうです、となまえは頷いた。恋の予感が真っ先に浮かんで来た、シンプルである事を続けて来た彼女が変身願望だなんて恐ろしい事を口にするからには、それくらいの大きな理由でもあるのだろうと思った。意識がそこへ集中する、変身願望と口にした薄い唇に。


「もしかして、恋?」
「…恋、だったら、良かったんですけど、」
「あれ、違うの、」
「初めに言ったじゃないですか、つまらないことだって、」
「俺はてっきり、なまえちゃんが変身願望だなんて言うから、好きな人でも出来たのかと思ったよ。」
「そうなら良かったですか?」
「いいや、そうでもないね。もしなまえちゃんに好きな人が出来ちゃったら、もうなまえちゃんを追ってここに来れなくなっちゃうってことでしょ。」
「秋山さんはここに煙草を吸いに来てるんですから、私は理由になりませんよ。」
「そう?俺にとっては充分過ぎるほどの理由なんだけどなぁ、」

 それはありがとうございます、となまえはようやく笑みを浮かべ、秋山を見た。その緩まっていく表情が彼女の一番可愛らしい顔だと思い、密かに照れ臭くなる、決して彼女には言えないことの一つだ。なまえに男の影が見えないのは胸を撫で下ろすべき事だが、彼女の言った変身願望の四文字が頭から離れずにいた。今の彼女を見慣れてしまったからだろうか、知らない彼女の姿を見てみたい。

「ねぇ、なまえちゃん、」
「なんでしょう?」
「どういう風になりたいの、」
「ああ、さっきの話ですね。どういう風にって言われたら、すぐには出てこないんですけど、雰囲気だけでも変えられたら嬉しいですね、」
「じゃあ、今から少し遊ぼうか、」

 遊ぶ?今から?と首を傾げたなまえの一つに垂れ下がる髪に触れる。通した指はさらさらと流され、その感触に小さな欲が芽生えた。黒い毛先を弄んでいた手を頭に乗せ、纏まった髪を乱さぬように撫でていく。なまえは困惑した顔のままである。

「髪解いてもいい?少しはイメージ変わるかも、」
「だったら、自分で…、」
「いや、俺が解きたいんだ。痛くしないから、俺にやらせてくれないかな、」
「変な秋山さん、」

 ね、俺もそう思うよ、と苦笑しながら、秋山はなまえの髪を束ねるヘアゴムをするすると靡く毛先の方へと逃がして行く。秋山の手のひらにヘアゴムだけが残り、今まで纏められていた髪が夜風に吹かれ、ゆらりと優しく攫われた。毛先は風に揺れ、甘くて柔らかな髪の匂いが鼻先を擽る。今まで露わになっていた首筋がしなやかな黒い髪に隠され、時折風に流れる、髪を下ろしたなまえから目を逸らせずにいた。黒いまつ毛も薄付きのメイクも仄かに赤い唇も、先程までの雰囲気とは似ても似つかない程に別人のものになってしまった。

「…これは予想外だな、」
「え…、へ、変ですか…?」
「変とかじゃなくて、なんだろ、色っぽいって言うか、」

 きっちりと着込まれたスーツやシャツが逆にその色っぽさに拍車をかけていて、ここが野外である事を恨めしく思う。もしここが人のいない静かな部屋の一室であったなら、と自分勝手な想像が膨らむ。

「なまえちゃんも凄いもの持ってるじゃない、」
「それってどういう意味ですか?」
「教えてあげてもいいけど、怒らない?」
「怒りません、」

 秋山は一度深呼吸を挟むと、ぐっとなまえとの距離を縮め、より近くでこう呟いた。


「下手したら俺、今のなまえちゃんなら口説いちゃうかもしれない、」


 下手したらってなんです、となまえは呆れたような顔をして、その場を立った。長いこと地べたとくっ付いていたスカートの裾をパンパンと叩き、砂埃を払う。ちょっとくらい本気だったとは言えず、なまえのその後ろ姿を眺めていると、なまえはこちらを振り返り、神室町の夜空を自分の背景とさせた。


 息を呑んだ。彼女が黒い瞳でこちらを見つめている。背景として引用している夜空の僅かな星の輝きさえも一緒になってこちらを見ている。夜空を纏う彼女の髪が風に吹かれた、夜に紛れず、夜の中を流れていく髪の艶が星のように瞬く。

「髪下ろしただけで変われるなら苦労しませんよ、秋山さん。」
「俺はそんな事ないと思うけど、」
「…さっきから何なんです?調子のいい事ばかり言って。」
「なまえちゃんはさ、いつものまんまでいいと思うよ、」
「ええ…?」
「無理に変わろうとしなくていいってこと、」

 当たり障りのない言葉ですね、と二度目の呆れ顔をした後、まあ、確かにそうですね、となまえは笑った。いつものままでいい、無理に変わろうとしなくていい。その裏にどんな意味が隠されているかなんて、彼女は知りもしないだろう。要するに、少しだけ変わった雰囲気の姿を他の奴に見せるのが惜しくて、いつも通りでいて欲しいと思ったのだ。そうでなければ、本当に色恋沙汰にまで発展するなんて事も有り得るだろう。
 秋山は自分でも狡いアドバイスをしてしまったと思っていた。今の今まで異性を手のひらに転がしている側だった筈なのに、たった一瞬、今夜だけはその立場が逆転しそうになった事に対する危機感に襲われた。不意にぐらついた足元に、つい彼女の進化を阻害してしまったのだ。


「でも私はいつか変身しますよ、」
「じゃあ、その時は俺も一緒に、」
「秋山さんは何に変身するんですか?」
「ん、それは後のお楽しみにしておこうよ、」

 不思議そうな顔で向けられた黒い瞳に、彼女が言っただらしない自分が映っている。もしなまえが変身の夜を迎える時には、あの瞳の中の自分を少しだけ誠実そうにしてやろうと企むのであった。



| 羽化する蛹 |


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