色とりどりに詰め込まれた具材、白米を彩るのは鮮やかな色味のふりかけ、いつの日か好きだと告げたおかずばかりが並んでいる光景に、峯は密かに胸を高鳴らせていた。本音を言えば、あまりそこまで期待をしていなかった。他者の手作りの弁当など滅多に口にする機会がなかったのもそうだが、何より今まで一度も食べたいと思ったことがなかった。眼中になかったと言った方が早いだろう、峯義孝は今朝になってみょうじなまえから知らされたのだ。今日の昼食としてこれを持って行って欲しい、と。なまえが拵えた弁当は二つ用意されており、その内の大きな包みが峯のもので、もう一つの控えめな包みがなまえのものだった。
「俺に、これを……?」
「はい。一昨日付き合ってもらった買い出しで、かなり食材を買っちゃったので、峯さんにも協力してほしくて」
「それはあなたが計画性のない買い物をしたからでしょう」
「まあ、そうなんですけど……!でも、買っちゃったからには使わないとダメになっちゃいますし、」
「……全く自由な人だ、みょうじさんは」
「勿論、私も今週は毎日お弁当持って行きますから」
「そういうことなら。ただ、俺も満足に昼食の時間が取れるかは分かりませんがね」
食べれたらでいいので、と念押してくれたなまえの姿を思い出す。満足に昼食の時間を確保出来ないと保険をかけておきながら、今はしっかりとその時間を確保した上で包みを広げていた。事務所の自室に似合わない家庭的な弁当を初めて口にする。使い捨てを想定していない、備え付けの箸を手に気が向くまま、適当に一品ずつ口に運んでいく。馴染み深いなまえの味付けに、峯は自ずと早る箸で次から次へと食べ進めていった。数値や科学的に証明された栄養価の裏付けもない、個人の好きなものばかりを詰めた弁当は不思議とそれらよりも美味に感じられた。
野菜だってそこまで多くない。いかに白米を食べられるかというおかずの品数に重きを置かれているのに、何故かそうであることが嬉しいとさえ思えるラインナップに、峯は気付けばあっという間に完食していた。そして、ふと、また食べたいとなまえに伝えたいと思えた。人が手間暇をかけた料理は全て美味である。今まで通ったことのある高級店ではそれが当然で、そこを惜しむようでは客の満足するものは提供出来ないと峯の肥えた舌は知っていたからだ。
『食べれたらでいいので、峯さんも食べてみてください』
控えめに笑うなまえに、知らず知らずの内に失礼な態度をとっていたのだと気付き、峯は午後にも仕事が詰まっているというのに、脳裏では帰りのことばかりを気にしていた。なまえの手料理を食べるようになったのは、二人が関係を持ってから三ヶ月を過ぎてからだった。それまでは峯がなまえを外へ連れ出し、水準の高い食事をさせていたのだが、身の丈に合わないと嘆くなまえに首を傾げていたが、今ならなまえの気持ちも少しだけ分かってやれるような気がする。峯は衝動に駆られるがまま、携帯を取り出すとなまえに繋がる番号に電話をかけた。
「峯さん、どうかしましたか?」
電話越しのなまえはいつもと変わらない様子だった。互いに生活の拠点を分けているものの、仕事に勤しむという日常の基盤は全く同じだった。なまえもきっと今頃は昼食をとっているだろうと、峯は口数少なめに要件を伝える。
「今日持たせてくれたアレですが、」
「アレ……?ああ、お弁当ですね」
「ええ、その件で、」
「……峯さん?」
衝動に駆られたくせに途端に口が縫い付けられていた。なまえと関係を持ったことで峯の人間性にはある程度の変化が訪れていた。人間不信に陥っていたのも、今では限定的に解消されており、特定の相手にのみ内心を明かす場面も増えてきたほどだ。だが、まだ全てを明かせる訳ではなく、こうして本心を伝えようとすれば、意図せず口を噤む場面もあった。
「もしかして、お口に合いませんでしたか、」
なまえがゆっくりと複雑化した心境を解こうと励んでいる。彼女は峯の絡まった思いを解くのが上手だった。思ってもいない言葉やその場限りの建前、売り言葉に買い言葉。それら全てを並べたとしても、最後にはいつも単純な胸の内を見つけては耳を寄せてくれる。
「いや、そんなことはなかった」
「じゃあ、普通でしたか」
「俺の好物ばかりが入っていたのは、」
「峯さんが美味しいって言ってくれたメニュー、覚えてたので」
「それは、さぞ大変だったでしょう」
「そんなことないですよ。これも私がしたくてしてることなので、」
でも、一つだけ我儘があって。と語るなまえは電話越しであっても照れ臭そうにしているのが分かった。次第に小さくなる声音に峯は一つ決心する。そのたった一つの決心は自身が抱える決定事項のどれよりも重大なものだった。
「美味かったです、どれも」
なまえの我儘とは、峯が自分の弁当を美味しいと思ってくれることだと口にした。その瞬間、何故自身がなまえに電話をかけたかったのかを思い出すことが出来た。伝えたかったのだ、素直に、ありのままの言葉で。今回だけは絡みに絡まった本心を解きほぐしたのは峯自身だった。ほんの一つこぼしてみれば、後から余計なくらいに本心がこぼれ落ちてくる。
「俺は、自分が思っている以上にあなたの作った料理が好きなようだ」
素直であるとは、なんて目を逸らしたくなるほどにこそばゆいのか。
「だから、と言ったら強制してしまうかもしれないが、」
素直であるとは、なんて頼りないほどに弱々しいのか。
「明日も俺の分を用意してもらえませんか」
素直であることへの恐れが僅かに薄れていった。なまえはどんな顔をして、自身の独白を聞いているのだろう。面と向かってでは到底言えそうにない、この本音をどう受け止めてくれるのだろう。分からないが故に恐ろしかった。関係を持ちたがる相手との間に心を通い合わせるような時間は生まれなかった。いつでも金で手が切れる、呆気ない関係でしかなかったからだ。皮肉だった、貧困が理由で人の輪から外されていた自分が金ありきの関係しか築けないでいたなどと。
引き続き、電話越しになまえの声が聞こえた。ちゃんと明日の分も作りますね、と一番欲しかった言葉をくれる。普通なら断るものではないかと訊ねれば、断る理由が見つからないと当然のように返ってくる。それを生業にしている訳でもなく、自身の生活もあると言うのにどうして。なまえにとって厄介な質問をしたと気付いた時には遅く。だが、なまえは決して峯の質問から悪気を汲み取らず、同じ高さの目線で答える。
「作って欲しいって言われたら、作ってあげたくなるのが普通じゃないですか」
普通という言葉は、姿形のない曖昧さそのものの象徴だった。一定の基準でありながら、特定の範囲を持たないあまりにも抽象的な存在だった。良い意味で使われることの方が珍しいその言葉を、誰かの根底を否定するように使われることの多いその言葉を、なまえは正しく使ってみせた。普通、ただの取り留めのない当然であると。この時ばかりはなまえの言葉に救われていた。誰もが普通であることを嫌い、個々の色を出そうともがき苦しむ現代で、普通を知らぬ自分にそれを与え、教えてくれる彼女がかけがえのない心の拠り所であると再認識することが出来た。
「普通、ですか。やっと俺にも分かりましたよ、みょうじさんの言う『普通』の意味が」
「峯さんって難しく考え過ぎですよ」
「人間は本来、そうあるべきだと俺は思うんですがね」
「もしかして、私が考えなさ過ぎなんでしょうか……、」
「いや、あなたはそのままでいい。今のみょうじさんのままで」
ところで、と話題を突然すり替える。もう昼食は食べ終わったんですか?と訊ねると、電話越しに今度は慌て始めるなまえの声が聞こえ、峯はそれとなく時計を見た。確か、なまえの職場では昼休みは一時間程度だと聞いており、あと十分もすれば午後の業務に取り掛からなければならないはずだ。この通話も既に二十分程度は続いている。えっと、えっと、これから急いで食べます……!といつになく大きな、はっきりとした声でなまえが言うものだから、電話を切る前に最後に一言添えてやりたかった。
「ちゃんとゆっくり食ってください。今日のは美味いですから」
それじゃ、とこちらから通話を切れば、途端に弁当を食べ始めるなまえの姿が想像出来て、峯は口元の笑いを堪えることが出来なかった。
| きみはそれを普通だと言うけれど、 |back