今も時々、夢を見る。青春の翳りにいた自分の隣に居てくれた彼女のことを。彼女とは、高校進学を機に離れ離れになってしまったが、今でも瞼の裏で密かに思い出すのだ。胸が詰まるような感覚に襲われるのは、自身が大人になってしまったからだろうか。知らせはまだ来ない。彼女を思い出すと、途端に息が出来なくなる。それ程までに彼女は荒川真斗の中で必要な存在になっていた。自身が荒川真斗であった頃も、青木遼である今も異性との関係はあった。しかし、青木遼になってからは、より強く彼女との再会を渇望するようになった。今でなら、彼女に全てを打ち明けられる。そんな気がしていたのだ、確信はない。それでも、あの頃の自分に寄り添ってくれていた彼女なら、なまえなら、この野望にだって首を縦に振ってくれると信じていた。

「お連れしました、みょうじなまえさんです」

 知らせは突然やって来た。自身の下に舞い込んで来たその知らせは青木が延々と待ち続けたものだった。部下に連れられて事務所にやって来たのは、見紛うことなく彼女本人だった。互いに顔を合わせなかった日々を思えど、昔の面影は残っており、再会を喜んでいるのは青木、いや、荒川真斗だった。なまえはどこか強ばった表情をしており、ここに来るまでに何かがあったのだと推測すれば、すぐに彼女を連れて来た部下の顔を見た。突き刺すような視線に部下の男は目を逸らせず、そして中々経緯を告げられずにいる。

「二人で話がしたい」

 男は真斗の視線から外れると急ぎ足で部屋を後にする。一人残されたなまえは未だに浮かない顔で視線を足元に落としていた。真斗は自席から立つと、なまえの傍へと行き、大丈夫かい?と肩に触れる。すると、肩が触れる直前でなまえの体が大きく跳ねた。恐怖している、このように他者から触れられることに。やり方を間違えたのだと知る。それは決して自分ではなく、ここまで連れて来るように命じた相手だ。その仕損じた仕事の手荒さが彼女を恐怖させているのだと。

「……怖い思いをさせてしまったんだね、」
「あの、私、どうしてここに連れてこられたのか、分かってなくて、」

 ごめんなさい、と息をするように吐くなまえに計り知れぬ損害を知った。確かに彼女を自分の元まで連れてこいと言い出したのは真斗自身だ。だが、恐怖を植え付けるようなやり方を許容した覚えはない。やはり、所詮はヤクザだ。支障なく事を運ぶことすら満足に出来ないのだから、呆れて物も言えない。

「すまない、ここに来るまでの間で何か手違いがあったようだね」

 震える彼女の体を落ち着けるべく、近くの椅子にかけるよう告げれば、怯え切った足取りで腰掛ける姿が痛々しい。真斗も連れ添うように傍に座すると、なまえは僅かに落ち着きを取り戻したように見えた。それからは彼女が抱えていた疑問に一つ一つ答えていくことにした。恐らく、部下はなまえの居場所を突き止めると、そのまま無理にでも連れ去って来たのだろう。推測でしかないが、そうでもしなければこのなまえの怯えようは考えられない。

「私、いきなり道であの人達に声を掛けられて」
「ああ、酷い話だ」
「一度、家に帰して欲しいって言ったんですけど、」
「それは本当に怖かったことだろう」
「でも、何で私が都知事の所に連れられて来たのか分からなくて、」

 目を見て、同じ呼吸で間を置く。こんな姿は初めてだった。真斗が知っているのは、学生時代の朗らかな笑顔を見せてくれる快活な少女の姿だったからだろうか。可哀想に、とどうにかして体の震えを、恐れを取り除いてやりたかった。

「実は私がきみを探していたんだ。想像していたやり方とは違う方法で、きみを連れて来てしまったようだが」
「都知事が私を……?」
「私はどうしてもきみを見つけなければならなかった」

 ──── 荒川真斗という男を知っているね。
 青木遼として問い掛ければ、なまえは久しぶりに耳にした級友の名に目を丸くさせた。驚きを隠せないまま、なまえは首を縦に振る。中学までは同じ学校に通っていた男の子で、同じ名前の子がいたと。この時、真斗は愉悦にも似た感覚に襲われていた。世間から見れば、あんなどうしようもないヤクザの息子のことを、今でもしっかりと覚えていてくれる事実に胸の古傷が癒えていくようだった。
 そして、遂に当初の目的であった真実を明かす。今まで厳重に閉ざしていた口を裂いてでも、青木遼の内側に隠し持っていた荒川真斗を吐き出す。なまえは終始、自身の耳を疑っているのか、全く理解を示そうとしなかった。無理もない、いきなり彼女の目の前に現れた男がかつての級友であり、亡くなった男だなどと信じられるはずがない。

「だって、荒川くんは車椅子を使っていたんですよ」
「渡米した先で治療を受けたんだ。だから、今のように車椅子なんてものは必要なくなった」
「それに荒川くんは亡くなったって、」
「だから、それも嘘なんだ。俺が生まれ変わる為に必要な嘘だったんだよ」

 現実と真実との乖離に混乱しているなまえにどうしても話したいことがあった。それは二人が在学中に起きた出来事についてだ。極道の家の出であるという事実は十代の少年少女、ならびにそれに関する教職員の全てに偏った印象を受け付けてしまうものだった。それ故に級友達は真斗を常日頃から避けていた。だが、その中でたった一人だけ自身に普通に接してくれる少女がいた。それがみょうじなまえという、今真斗の目の前にいる女性だった。
 初めは彼女の気まぐれに嫌悪していたが、中学三年の冬にはやがて来る別れを惜しむほどに、彼女の存在は真斗にとって大きな割合を占めるようになっていた。叶わない、進むべき道は分かたれている。彼女は自身の夢へ向かって歩いていく、荒川真斗を置いて。自身は何処へも歩いていけず、敷かれたレールの上を車輪だけが勝手に進んでいく。みょうじなまえと過ごした日々が、眩い過去へと変わっていってしまうのを止められずに。

「色々なことがあった。だから、俺はなまえ、お前に一緒に居てほしい」

 もう既にこの肺は致死量の二酸化炭素で埋め尽くされている。早く酸素を取り込まねば、呼吸すら満足に出来なくなってしまう。限界だった、一人で生きていくには。秘密を抱えたものの、それを隠し通すことの孤独さにこの両胸の肺はいっぱいいっぱいだったのだ。だから、せめて恋しい彼女に支えてほしいと願った。

「……ごめんなさい、私、荒川くんとは一緒になれない」

 そう答えるなまえに理由を問えば、既に心に決めた相手がいるのだと言う。最後の酸素を塊で吐き出してしまった。もうこの肺は自らの力で呼吸をすることが出来ない。そして、真斗は内なる欲望が燃え上がるのを抑えることが出来なかった。たとえ、大切な少女であったなまえの前でも。

「そうか、そういうことか、」
「……待って、今なにを考えてるの、」
「俺にはもう、お前しかいない」

 わかるだろ……?と真斗の追い縋る瞳に、なまえは最悪を目の当たりにする。当時から荒川真斗という少年は形容し難い危うさを秘めていた。それは日々、言葉を交わすなまえだからこそ知ることの出来た一面だ。極道の息子だからと言った表面上のものではなく、彼には誰にも見せたことがない内面的な危うさを孕んでいると。おねがい、やめて。女の懇願する声が響く。なあ、今の俺はどっちなんだ。と男の無慈悲な声が響く。

「俺が荒川真斗だから、駄目なのか?それとも、青木遼だから駄目なのか?」
「そういうことじゃないの、今日久しぶりに顔が見れて嬉しかった。嬉しかったけど、もう、」
「もう、なんだ……?」
「私は荒川くんの傍には居られない」

 おねがい、わかって。と女の一方的な声を最後に、荒川真斗もしくは青木遼は完全に沈黙する。なまえは今すぐにでもここを離れなければならなかった。しかし、自身の正面にはあの頃の少年がこちらをじっと見つめているのだ。身動きが取れなくなるほどの威圧感は徐々に勢いを増し、なまえの足首をしっかりと掴んでいる。

「なまえ、」

 影を落とす男はもはや誰なのか区別がつかなくなっていた。だが、はっきりと分かることと言えば、足首を掴まれた時点でもう逃げ場がないと言うことだ。

「俺を許さなくていい。だから、」

 ──── 俺の傍にいてくれ。
 男は懐から携帯を取り出すと、とある番号へと掛けた。女は何度も呼び掛けたが、男は聞く耳を持たず、もう用は済んだ。例の場所に連れて行け。と電話口に言い残す。そして、部屋の外に待機していたと思われる部下の男達によって、女は、みょうじなまえは再び連れて行かれることとなった。行先不明の深い暗闇へ、彼女は一体いつまで耐えられるだろうか。人間の忍耐などあまりあてにならないと知っている男は、いつか胸を張って女に愛を誓い、そして、囁くのだ。
 男の重く沈んだ肺に、彼女を介して僅かながらの酸素が吸入された気がした。



| 人工呼吸 |


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