外の暖かな日差しにうつらうつら、と自身の事務所で舟を漕いでいると、不意に強い視線を感じ、眠気に下がりがちな瞼を押し上げる。すると、今度はなまえの真後ろから声が聞こえてきた。選ばれたのは厳しい言葉ばかりで、情け容赦なくこの耳に突き刺さる。

「よう、仕事中に居眠りか?いいご身分だな、みょうじ」
「く、黒岩さん……!」

 すぐさま振り返れば、その先に黒いスーツを着た一人の刑事が立っていた。相手は神室署の黒岩と言う刑事で、時々こうしてなまえの元にやって来ては有力な情報がないかと無心しにくるのだ。なまえは神室町の情報屋で数いる内の一人に過ぎなかった。そんな彼女が何故、黒岩に目をつけられているのか。初めは黒岩もなまえの存在を知らなかったのだが、部下である綾部が何かと贔屓にしている噂を嗅ぎ付け、単身で事務所に乗り込んで来たのだ。何かしらを摘発する意思はなく、部下が贔屓にする情報屋の居所とその面を拝んでおきたいというのが目的だった。

「綾部の奴だけがお前の客じゃねえ、いい加減覚えろ」
「綾部さんだって事前に連絡くれますよ、私の所に来る時」
「お前、適当に罪状並べてしょっ引いてやってもいいんだぞ」
「く、黒岩さんが言うと冗談に聞こえませんよ……!」
「俺ならお前を繋いでやることも出来んだ、あまり吠えるなよ」

 なまえと黒岩の力関係は完全に黒岩に負け切っていた。なまえは神室町の情報屋なのだが、その重要な情報源は主に風俗営業店の関係者などだった。人間の欲望を曝け出す場に情報は入ってくるものだという自論でこの稼業に勤しんでいるが、最近になってからは東城会との繋がりもあり、そこを黒岩に目を付けられていた。なまえは元々綾部が贔屓にしている情報屋だった。つまり、警察とのパイプがあれば違法である風営店の摘発を免れることが出来るのだ。勿論、その対価としていくらか包むか、欲しい情報をくれてやるのだが。となると、店としてもなまえと繋がっておかない手はなく、気付けば神室町の全風営店はなまえと協力関係にあった。

「お前が連れてかれて困る奴らがいるんだろう?この街にはごまんとな」
「……それで今日は何の用ですか、」
「コイツを探してる。チンケなヤクザだ、人を殺して逃げ回ってやがる」
「ヤクザ絡みですか。それじゃあ、組対の黒岩さんが動かない訳には行かないですね」

 黒岩から机に投げ出されたのは、一枚のDVDだった。事務所のパソコンに読み込ませ、映像を再生してみれば、監視カメラに映る男は派手な返り血を浴び、血塗れのまま現場を離れている。身体的特徴としては、背が高く大柄であること。左頬に目立つ傷跡があること。そして、腕に花の刺青が入っていることの三つが挙げられた。

「見つけたらすぐに連絡しろ。見つけ次第、すぐにな」

 それだけを言い残し、黒岩はなまえの事務所の椅子に腰掛けると大きな溜め息を吐いた。てっきりそのまま出て行くとばかり思っていた故に、なまえは内心意外だった。DVDをパソコンから取り出すと透明なケースに戻し、事務所に居座る黒岩に声を掛けた。何か飲み物はいるか、と。すると、コーヒー。ブラックで良い。とだけ返ってきて、なまえは席を立つ。

「黒岩さんも大変ですね」
「ああ、全くろくでもねえ奴らのケツを追っ掛けてばかりだからな」
「あまり根を詰めすぎないようにしてくださいね」
「なんだ、お前。やけに余裕そうだな。ここも遂に閑古鳥でも鳴き始めたか?」
「うちが忙しくなるのは夜です。昼はどちらかと言えば、暇な方なんです」

 だから、ちょっとくらい居眠りしたっていいじゃないですか。と一人小さく呟いたつもりが、全て筒抜けだったようで、黒岩の鋭い言葉がなまえに突き刺さる。

「俺に借りがあること、忘れてねえよな」

 黒岩の言う『借り』だが、なまえは一度黒岩にピンチの瞬間を助けてもらったことがある。なまえの事務所にやって来た客が実は東城会関係者でなまえが警察に自身の情報を流したと逆恨みし、単身で乗り込んで来たことがあった。その時はタイミングを見て黒岩の番号に電話をかけることが出来、異変を察して駆け付けた黒岩がその相手を制圧し、事なきを得た。

「でも、よく来てくれましたよね。私なんか得体の知れない人間なのに、」

 自身に向けられる周囲の目と言うのは、誰よりも自分自身がよく知っているものだ。仮に、情報屋などと得体の知れない人間が他者に助けを求めたとして、胡散臭いからと無下にされるのがオチではないだろうか。ましてや、一端の情報屋の助けに応じてくれるとまで誰が想像出来るだろうか。

「市民の皆さんの安全を守り、維持し続けることが私の使命です」

 咄嗟に振り返る。給湯スペースの流しでケトルに水を入れていたことを忘れて、なまえは黒岩に意識を奪われていた。黒岩は酷くつまらなそうな顔をしている。本当にあの黒岩満が先程の言葉を口にしたのか。信じ難い事実だった。普段、接している彼は力で他を制圧する人間で、今のような正義の象徴たる発言など一度も聞いたことがない。だが、聞いてみて思うのは、黒岩満の異常とも言える二面性ではなく、何故彼はそれを目指したのか。愚直にそれだけを聞いてみたくなった。

「あの、どうして黒岩さんは警察官になったんですか」
「さあな、覚えてねえ」
「もし、誰かを助けたくてなったとしたら、素敵だと思います」
「だから、覚えてねえよ。そんな昔のことなんざ、」
「私も誰かを助けたくて、この仕事を始めたんです」

 ようやく水が満タンになったケトルをコンロに乗せ、火にかける。揺らめく小さな火を見ながら、なまえは自身がどうして情報屋になったのかを明かした。当時、なまえは神室町のOLでカタギとして普通に生活をしていたが、友人が神室町で金銭トラブルに巻き込まれ、とある事件の被害者となってしまった。個人間の金銭トラブルは痴情のもつれと判断され、友人は多額の負債を抱えることになった。なまえはその事件をきっかけに、何か友人の助けになれないかと仕事を辞め、街で情報収集を繰り返していた。
 そして、友人が通っていた店などを回って聞き込みをしていた所で、なまえのお得意先である綾部と出会う。親しくなった綾部に友人の件を告げれば、なまえの集めた情報を元にその相手は身柄を拘束、逮捕されたのだ。あの後、綾部から直接その旨を教えてもらった時には、自身のやってきたことが報われたように感じた。

「いつか教えてくださいね、黒岩さんが警察官を目指した理由」
「……思い出したらな」

 初めて黒岩満という男の何かに触れたような気がした。そして、勝手ながらにこう思うのだ。あの二面性として見せた好青年な姿は、いつかの在りし日の黒岩本人なのではないかと。確かにそう志し、何かがあって今の黒岩がいる。そう思えば、ほんの少しだけ恐怖を感じていた自身が安堵することが出来た。

「でも、さっきの黒岩さん。本当に素敵でしたよ」

 滑った口で黒岩を見れば、いつの間にか背後に立っており、不意に見下ろされていることに気付く。手狭な給湯スペースに底知れぬ刑事の男と、一人きりの女が佇んで互いを見つめている。長身の男の影に女がすっぽりと覆われ、女は咄嗟に言葉を探している最中だった。物言いたげな瞳は男のもので、意図が読めずにいる瞳が女のものだった。恐ろしい相手とは言え、見目麗しい男でもあった。端正な顔立ちに、先程の柔和で優しく紳士的な態度が合わされば、本当に完璧な人間だった。恐怖に震えた心臓が別の予感に震える。

「お前、しばらく休んだらどうだ?」

 そうしたら、もうちょっとはマシな話が出来んだろ。と呆れた顔で詰められ、なまえは息を呑んだ。何て答えるべきか、黒岩の次が読めないでいると、いつの間にか沸いたケトルがけたたましく鳴き声を上げる。二人の意識は途端にケトルへ向けられ、なまえはその間に浅く息を吸うと、コーヒー用意しますね。と逃げたのである。黒岩は面白くなさそうな顔で、自身が座っていた席に戻ると、記憶の奥底に残留する若き日の姿をなぞっていた。無くは無かった、誰かを思い、誰かの為に、誰かの助けとなることを。そうでなければ、警察官にはなり得なかったのだから。
 密かに鼻で笑えば、なまえの慌ただしい背中を見た。なまえは仮初の姿を素敵だと零していたが、なんて単純な相手なのだろうか。ならば、あのまま迫ってやれば欲しい情報の全てを吐いてくれるのだろうか。実にくだらない。くだらないくせに、なまえの一言がこびり付いて離れない。しかし、当然ではないだろうか?自身が使う道具に愛着が湧くのは、と思えば、あまりにも至極当然過ぎて黒岩は一人口角を持ち上げて、黙って笑っていた。



| Gemini |


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