ふっくらとして指先の薄皮が切れ、真一文字の傷口から玉のように血が溢れている。やがてそれは量が増え、指先を真っ赤に濡らして伝っていく。彼女は、みょうじなまえはとある部屋で無惨にも壊された美術品を片付けようとしていた。しかし、細心の注意を払っていたものの、割れて欠けた鋭利な破片で指先を負傷してしまったのだろう。痛みと自身の不器用さ、失敗から来る暗い感情になまえは黙り込んでいた。すると、後方から聞こえてくる物音に慌てて振り返る。

「みょうじくん、君はここで何をしている」
「……会長、」

 会長と呼ばれた男は峯義孝という極道だった。自身が立ち上げた白峯会の会長で、みょうじなまえは裏事情を知らずに入社してきた事務員だった。普段は秘書である片瀬の下について仕事をしているような相手が、何故この部屋にいたのか。峯は皆目見当もつかなかった。だが、彼女が指を負傷した理由と本日の招かれざる客がした粗相を見れば、ある程度の予想はついた。

「君がここの片付けを?」

 しどろもどろになりながらもそうであると答えるなまえは負傷した指先のことよりも、気分を害してしまったであろう峯への謝罪を口にした。勝手に立ち入ってしまったこと。勝手に立ち入っただけでなく、一人で怪我までしてしまったこと。そして、迷惑をかけている現状を詫びる。だが、峯からしてみれば、そのようなことは二の次でしかなく、この事務所でカタギの人間が負傷しているという事実が気がかりだった。

「怪我の度合いは?」
「指を少し切っただけです」
「切っただけとは言っても、応急処置が必要だろう」

 峯は自身の懐から一枚のハンカチを取り出すと、その美しい白が汚れるのも構わずになまえの指先を覆う。じわりと少量の赤がハンカチを染めていく。なまえは自責の念に駆られ、伏し目がちに俯いていた。掛けてやりたい言葉があったが、今は声を掛けるよりもこの指先に絆創膏を巻いてやることが先決だった。ハンカチ越しに患部を軽く圧迫してやり、まずは止血を試みる。無言の間、峯はなまえの周囲を観察していた。辺りの床にはあの男が癇癪が収まるまで暴れた痕跡が残っているが、それもなまえが片付けてくれたこともあり、大分マシになっているものの、やはり気が引けてしまう。何の関係もない彼女にこのような気遣いをさせてしまったことが、峯の中で一つの引っ掛かりとなる。
 なまえは片瀬の下で毎日懸命に業務にあたっている。片瀬と比べればまだまだ未熟で詰めの甘さが窺えるが、誰よりも気の利く女性だった。自身や片瀬だけでなく、他の組員にも気配りを絶やさないでいてくれる。もっとも、彼女の同僚が皆組員であることを彼女は知らないのだが。そして、峯自身もなまえへ形容し難い思いを抱いていた。秘書である片瀬に向けた信頼とはまた別のもので、それの正体を未だ掴めずにいる。そして、それは今も尚、彼女を前にして胸に渦巻いているのだ。

「幸いなことに浅い傷だったおかげで、すぐに血が止まった」
「あの、……ありがとうございます」
「君が気にすることじゃない。元はと言えば、人の事務所に上がり込んで好き勝手暴れる奴が悪い」
「きっと会長も嫌な思いをされたかと思います、」
「ああ、いい加減にこう言うのは終わりにしてもらいたいくらいでね」
「ごめんなさい、気の利いたことも言えず、」

 少し、このまま押さえていてください。とハンカチをなまえに預けると、そのまま自身の机の引き出しにしまい込まれた救急箱から、絆創膏、消毒用のアルコールを手に取り、なまえの傍に腰を落ち着ける。地べたに直接座り込むのは好きではなかったが、この際はやむを得ないと峯は腰を下ろしたのだ。

「すぐに絆創膏を貼ってもいいが、念の為に消毒しておいた方がいい」

 手にしたハンカチの綺麗な部分にアルコールを塗布すると、適度に馴染ませた後に指先の傷付近に優しく触れていく。依然として浮かない顔をするなまえにどうにかして落ち込む必要はないと伝えたかった。気負う必要のないものまで貰ってしまっては後々自身が苦しくなるだけだと。なまえは静かに峯の言葉に耳を傾けている。その懸命な瞳がこちらを見つめる度に、ふと視線を逸らしてしまいたくなる。瞬きの間に器用にやり過ごしているが、彼女に見つめられると峯は密かに視線を切ることがあった。
 人を真っ直ぐに見つめる瞳は、恐らく自身のものとは全く違うような気がしている。この瞳は数々の修羅場を潜り抜け、人を人と思わず蹂躙し、奪い取り、嬲り倒した汚れたものだ。しかし、なまえはそのような世界に生きていない。引け目を感じているのは峯の方だった。彼女は自身が知り尽くした種類の人間ではなかったのだから。

「会長、私は皆さんの役に立てているでしょうか」

 峯はなまえの言葉に耳を疑っていた。目の前にいるのは、本当に誰もがよく知るなまえなのだろうかと。不意に吐き出された弱みは普段のなまえからは全く想像できないほどに、根深いものだった。普段の印象が全てだと思い込んでいた、ひたすらに一生懸命な女性なのだと。

「それは、俺から見てということですか」
「最近、少し不安になるんです。自分だけが一人取り残されて、周りの人を困らせていないか、って」
「正直なことを言えば、みょうじさんは何事も詰めが甘い」

 口元が強ばり、真一文字に結ばれる。ショックを隠せていない視線であっても、なまえは峯から視線を逸らすことをしなかった。なまえが弱みを見せたということは、今、彼女の中には誰だろうと払拭出来ないものがあり、峯はそれを払拭してやりたい気概でなまえの靄に手を伸ばす。乱雑に毟り取り、毟り取り、出来る限り余すことなく、綺麗に取り去って本心を聞きたかった。弱音の裏には本当の思いがある。誰だってすぐにはそれを明かせない、だから隠してしまう。峯は自分にも心当たりのあることだった。

「ただ、詰めが甘いからと言って、役に立っていないこととは必ずしもイコールにならない」

 みょうじさん、あなたが今日ここに来なければ、俺はこれを一人で片付ける羽目になっていた。
 それのどこが役に立たないことになるのか。峯は消毒を済ませた指先に絆創膏を巻き付けると、早く治るといいですね。と添えた。その刹那、次に視線をなまえへ移せば、不安げな表情の中で涙する女の姿があった。時が止まる。束感のある下睫毛の隙間から涙が音も立てずに流れていくのを目にしたからだ。泣かせるつもりなど、毛頭もなかった。しかし、彼女は目の前で泣いている。声を上げずに静寂のまま涙している。なまえは自身の知らぬところで何かに追い詰められていたのだろう。かける言葉はない。それでも、彼女の為に伸ばした手が、決して綺麗などではない無骨な指先がなまえの頬を撫でる。
 なまえは目線だけを峯に投げ、あとは涙を掬われていく度に唇をきゅっと噛み締めていた。一度溢れれば、一度掬ってやり、もう一度溢れれば、もう一度掬ってやる。終わりのないやり取りだった。峯はこの時も形容し難い感覚に襲われた。あれほどまでに人間の醜さを知っていながら、心のどこかでなまえは違うと都合のいいことを考えている。そんなはずがあるわけが無い。今まで出会ってきた人間達がその証明になり得ると言うのに、根拠もないくせに違うと言い張る自分がいる。どうすればいいのだろうか、彼女の涙を掬い終わった暁には。

「会長、ありがとうございます」
「みょうじさん、俺から一つ頼み事があります。聞いてもらえますか」
「はい、何でもどうぞ」
「一度でいい、一度でいいから、」

 ──── 俺の方を見て、名前で呼んでくれませんか。

「……笑ってくれませんか」

 心から望んだ言葉を飲み込み、代わりに外面の良い言葉を選んだ。なまえは選んだ言葉の意外性にきょとんとしていたが、やがて意味が分かると目元の涙を散らして僅かに口角を上げた。無理をせずに自然な笑顔に努めたなまえに、峯は何故だか自分も救われたような気持ちになっていた。そうだ、これで良い。これで良かったのだ。自身の浅はかな欲を曝け出すことよりも、なまえの為になる言葉を選んだことが正しかったのだ。
 峯義孝はそれを愛だとは知らず、みょうじなまえもまた恋であると知らない。不思議と惹かれ合う感覚に身を任せ、余韻に酔ってはただそれだけで酷く満たされていたのだ。これは愛情などではなく、信頼の延長線であると信じて疑わない男女の、とある日の出来事だった。



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