無邪気な子どもの悪戯に汚れた指先でそれは引き千切られる。或いは、道徳を得る上でバラバラに引き裂かれる。ぐしゃぐしゃに握り潰され、不条理に折れたそれでは最早、地を這うことすら叶わない。一人で生きていく為に地上で生きる体を捨てた。そして、あとは風に吹かれるがまま、空の中で生きていくことだけが全てだった。だが、生き餌のようにそれは消費されていく。ひと口ひと口、噛み千切られ、粗末な咀嚼の果てに胃袋へ無惨に落とされる。翅を失った羽虫は、その場で死に絶えるだけだ。
──── そして、今。自身の目の前で酷い暴行が繰り広げられている。既にぐったりとしている黒服の男を、上品なスーツを着た男が馬乗りになって殴り続けている。黒服の男と、黒服の男を殴る男。そして、それを傍観させられている女の三人が蒼天堀の狭い路地裏に閉じ込められていた。逃げることは許されなかった。場を支配しているのは、スーツの男だ。女は助けを呼ぶことも、制止することも出来なかった。正義感や善意でそんなことをしてしまえば、あの黒服の男は死ぬのだ。
「こいつさぁ、お前のことで勘違いしてんだよ」
すっかり反応のなくなった黒服をいたぶっていたスーツの男が女に話し掛ける。スーツの男に話し掛けられた女、なまえはその光景に顔色は青ざめ、血の気が失せていた。なまえとは対照的にスーツの男、佐川は晴れ晴れとした顔をしていた。まるで一つの仕事が終わったかのような、清々しい顔を。両手を黒服の男の血で汚したまま、佐川はいつもと変わらない様子で話を続ける。
「なまえが俺んとこから逃げてぇってありもしねえ嘘、程々にして欲しいもんだ」
勝手に巻き込まれて、お前も運の悪い女だな。薄らと張り付いた笑みを浮かべ、乾いた声で笑って見せる佐川になまえは明日のことを考えられなくなっていた。黒服の男とは、働いている店で出会った。向こうは一人のボーイとして、自身は一人のキャストとして。なまえは余所の店から移籍してきたキャストだった。蒼天堀にあるキャバレーグランドは定期的に他店間でキャストの移籍を行っているらしく、なまえもその理由でグランドに移籍してきた。だが、なまえは不思議で仕方がなかった。前の店はグランドほどの大手などではなく、蒼天堀の何処にでもあるような平凡な店であるにも関わらず、直接指名された経緯がある。
「最近、こういう奴が多いから気をつけねえとな。逃がした女沈めて、金を巻き上げようって魂胆だよ」
佐川は、黒服の男がなまえに見せた優しさを知らない。
「もしかしたら、お前も沈められてたかもな」
ま、でも、俺が止めに来たから安心だな。な、なまえ。とようやく黒服の男を解放すると、黒服へ二度と視線をくれてやることもせず、愛飲する煙草を吹かし出す。黒服の男はそのような考えをした男ではなかった。同時期に移籍してきたキャストの中で控えめななまえのことを思い、何かと気にかけてくれた一人だ。仮に佐川の言い分が真実だとしても、ここまでする必要はない。なまえは体の震えが止まらないまま、地面に仰向けで転がっている男を見つめていた。
「おいおい、なんだよ。折角、お前の為に手ぇ痛めてまで止めてやったのに」
「……か、彼は、生きてるんですか、」
「さあな、知りたきゃこっち来い」
「……彼は私のことを思って、逃げようって言ってくれたんです」
「あ、そう」
「それなのに、こんな一方的に、」
「お前が男だったら痛み分けで済ませてたさ。でも、女だろ?俺、女を痛め付ける趣味はないの」
ぷかぷかと場違いな白い煙が辺りを気ままに漂う。その白い煙がやけに目に突き刺さって、視界が揺らぐ。もうなまえは言葉を選んでいられなかった。そこまでの余裕がなかったのだ。
「だって、私、オーナーの言いつけ通り、目標の金額まで稼いだのに、辞めさせてくれないじゃないですか……!」
「確か、そんなこと言ってたっけな、」
「それなのに、毎月毎月ノルマばっかり上がっていって……、」
本当なら……!となまえが全てをぶちまける直前、たった一瞬でなまえの喉は潰れてしまった。路地裏に自身の吐き出した煙草の煙で表情の見えなくなった男が黙って話を聞いている。だが、その煙越しから感じられる異様な気配になまえは途端に話せなくなってしまったのだ。今にも刺し殺されんばかりの威圧がなまえの喉元に手を伸ばして、ゆっくりと指先を丸めている。それほどまでに恐ろしい空気感だった。
「おかしなことを言うんだな、なまえ。それは前の店の奴を恨まねえと」
薄まっていく煙に、新しく吐き出された濃い真白が重なってぼやけていく。
「あの店は多額でお前をウチに売ったんだ。だから、俺がお前を使って元手を回収するのは当然のことだろ?」
それに、と続けた佐川は手で目の前の煙を振り払うと、あっけらかんとした顔でこう続けた。あまりの白々しさになまえは目の前が暗くなっていく感覚から逃れられない。
「それに、お前がいるからウチは助かってんだよ」
ありがとうな、とまで言ってのけた佐川に酷く体が、精神が弱っていく。その場で追い詰めることも、その場から逃げ出すことも出来ず、なまえは立ち尽くしていた。好き勝手に装飾されたマネキンと何ら変わらないのだと女は、自身が自身である理由すらも分からなくなっていた。ならば、この路地裏で転がされた男は自分のせいでああなってしまったのか。最初から、佐川のところに来た時点で全て決まっていたのだ。いつから、いつからこの蒼天堀は檻と化してしまったのだろう。いや、繁華街という場所は元々誰かを繋ぎ止める檻だったのだ。何も知らない小娘が気軽に立ち入ってはならぬ場所だったのだ。禁足地に足を踏み入れた人間がどうなるか、そのようなことぐらいは容易く想像出来る。
「まあ、そんな顔すんなよ。じゃあ、今月は少しノルマ下げてやるから」
「……もう、嫌。嫌なんです、」
揺らいだ視界が滴り落ちる。塞き止められていた感情に押し流され、次から次へと涙が流れていく。嗚咽を漏らし、泣き崩れるようにその場に尻を着いたなまえを、佐川が仕方がないと煙草を投げ捨てて靴底で火を捻じ消しては、身を屈めて宥めている。大きく肩を震わせて泣いている女は、さながら小さな子どもだった。何もかもに疲れてしまい、一つの支えもぽっきりと折れてしまった可哀想な女の傍を佐川は離れなかった。先程まで人間を殴り続けていた手で、馴れ馴れしくなまえの背を撫でては煙草の残り香を漂わせて沈黙を貫く。
「わたしは、これからどうすればいいんですか、」
もう何もしたくないのだと嘆く女に、男は無表情で黙り続けていた。宥め切れない悲痛さに佐川はぼんやりと過去を覗く。それはなまえが前の店で働いていた時のことだ。気まぐれでその店に入り、余所の店がどんなものかと見物していたのだが、その日入店したばかりのキャストが佐川の席に着いた。それが自身の目の前で泣き崩れる、かつてのなまえだった。手際の悪さは慣れていないからだと誰もが見ても分かるほどに要領の悪い彼女を、佐川はたった一度の入店で気に入ってしまった。軽く流すように酒を飲み、言葉を交わし、後腐れのないように退店すれば、店の裏手にある路地でなまえのことを揶揄した黒服の男達の話を偶然にも耳にした。
その後の結末は想像の通りだ。右も左も分からない人間を食い物にするのはヤクザの性だ。しかし、ヤクザでもない人間が見様見真似で下手なことをするのが癪に障った、とだけ綴っておく。それから間もなくして、キャスト移籍の話が浮上するのだが、そこで佐川はなまえを引き抜き、自身の下に置くことを選んだ。今でも脳裏には、初々しいながらも懸命に接客をしてくれた彼女が照れ臭そうに笑っている。
──── こうでもしなけりゃあ、守ってやれないだろ?
路地裏に響く男の愛おしさは、暗闇に目を潰された女には見えず、虚しく木霊する。この街の食い物にされるくらいなら、翅を引き千切り、手足を捥ぎ、虫かごにでも放り込んでおけばいい。街に巣食う毒蜘蛛はいつだって世間知らずの美しい生き餌を求めているのだから。命を繋ぐ為のスポイトには佐川司なりの愛おしさが詰め込まれ、みょうじなまえが毎日を不自由なく生きられるよう、日々投与されていく。
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