生まれて初めて、一人の女性を愛した。自身の立場も省みず、傍に置いては彼女をこの胸の心臓と同等であると位置付けた。誠実で結び付けた胸元を切り開いて、心臓の在り処を共有する。それは言葉で紡がれ、女は男の告白を最後まで聞き、女もまた自身の心臓を男に預けたのだ。男はこの世で一番の幸福を得た。あとはもう何もかもが軌道に乗り、上手くいくと確信していた。自身を阻む者を捩じ伏せる力を有し、決してこの身に触れることすら叶わず、自身はこの国の正義であり続ける。

「でも、黒岩さん。本当に私で良かったんですか、」

 身の丈に合わぬ境遇に最愛の女は、不安に襲われていた。彼女はつい最近まで未来が見えず、その日その日を生きるのに必死だった。男は最愛を手繰り寄せ、祈りを唱える。祝福は明日にでも自分達を待ち構えているのだと。

「私はなまえさんの傍に居たいんです。その気持ちに嘘偽りはありません」
「……でも、私、」
「なまえさんが今、何を感じているのかは何となく分かります」

 みょうじなまえは、人には言えない過去を抱えている。黒岩満はその過去を知る稀な男だ。寧ろ、その過去があったからこそ、二人は出会い、結ばれ、この関係に至るのだ。

「ただ、私はなまえさんの全てを背負う覚悟で、あの日あなたに打ち明けました」

 迷惑だったと言うのなら……、と言いかけてなまえが口を開く。

「迷惑だったなんてこと、ありません……!」

 迷惑なのは、……迷惑なのは私じゃないかって。と手持ち無沙汰の頼りない手のひらを強く握り締めているのが見えた。将来を誓っても尚、彼女の中に巣食う闇があるのは、四年前のとある事件が原因だった。彼女は、みょうじなまえはその事件の関係者であり、生存者だった。そして、当時その事件を担当したのが黒岩満だったのだ。残念ながら事件の犯人は未だに見つかっていない。犯行の動機も無作為で無差別的としか詰められず、当事件は解決の目処が立たないまま終幕を迎えてしまった。
 さぞ悔しいことだろう。肉親や家族全員を一瞬にして失ってしまった悲しみや痛みは想像を絶する。さぞ苦しいことだろう。一人生き残るということは、その事件に永遠に付き纏われ、穏やかに眠り、生きていくことを妨げられ続ける。この世は残酷であった。裁かれるべき人間が裁かれず、何の罪もない人間が一方的に傷付けられるのだから。黒岩はよくなまえに話していたことがある。罪のない人間がこれ以上、誰の身勝手にも巻き込まれないように自身が奮闘していく他にないと。

『私と一緒になって欲しい』

 その決意故に、黒岩満はみょうじなまえを自身の伴侶として迎え入れることを決めたのだ。二人は大々的に式を挙げることはせず、それはしめやかに行われた。これから先、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り真心を尽くす、と誓った。なまえのことを思えば、順風満帆な生活とは言えないが、一緒になってからは明るい顔をすることが増えたように思える。

「私はなまえさんじゃなければ、一緒になりたいと思ったりはしなかった」
「時々、怖くなるんです。また、またあの日みたいに黒岩さんも……、」
「なまえさんを置いて居なくなることはありません」
「もし、黒岩さんまで居なくなったら、わたし、」

 なまえは夜な夜な、あの日の悪夢を思い出すのだと言う。立ち上る大量の黒い煙、何もかもを燃やし尽くす大きな炎、辺りにガラスの破片や散らばった建物の残骸が転がる通りから、一歩も動けず立ち尽くしていた時のことを。本能が悟る、もう誰も生きていないだろうと。現場に駆け付けた消防隊員によって避難したなまえを、遅れて駆け付けた黒岩が保護し、二人は出会う。
 四年前のとある事件とは、東城会三次団体である組事務所が何者かによって爆破された事件だった。当時、事件の目撃者は居らず、事務所内の監視カメラも爆破の衝撃で全損、映像の復元すら困難を極め、現場周辺の防犯カメラにも不審な人物は映っていなかったとして、犯人の手掛かりが一切残っていない事件であると一時有名になった。爆発の規模や目撃談のない犯人。そして、東城会三次団体である組事務所の爆破は世間を騒がせ、かねてから対立している近江連合による襲撃なのではないかと噂が流れた程だ。

「もう、大丈夫です。なまえさん、大丈夫ですから」

 ぶるぶると震える華奢な体を抱き締める。そう、もう過ぎたことだ。大丈夫だと何遍も唱え続ける。なまえはあの日の炎に目を焼かれてしまった。だから、いつまでも悪夢を見て魘されているのだ。もう、過ぎたことなのだ。誰も黒岩満を排除しようなどとは考えるはずもない。たとえ、下賎な噂に名が挙がった近江連合であっても。不意に焦げ付いた嫌な匂いが鼻を掠めた。今でもあの事件の凄惨さは一体誰が予測出来たことだろう。

「私がいる限り、あの日を二度と繰り返させはしない」

 断片的に記憶が甦る。黒い革手袋の両手、事務所の死角に設置された爆発物、組の構成員が全員集まる時間帯の把握、周辺の防犯カメラへの干渉、誰一人としてビルの外に生きて逃がすことなく放った凶弾、着実に築かれていった骸の山。万が一を加味し、一つ一つを確実にこなしていった。当初の目的に彼女の存在を認知していなかったが、事件当日に初めて出会って直感的に理解した。みょうじなまえは自身の手元に置いておくべき人間であると。
 どんな親であれ、よく出来た子が生まれることがある。まさに彼女がその一例だった。そして、黒岩が事件当日に感じた直感の通り、なまえはよく出来た女だった。事件の後遺症は未だに尾を引いているが、それ以外の働きは充分なほどで、黒岩と同棲するようになってからは甲斐甲斐しさに拍車がかかったように思う。求めれば、与えられた。与えれば、求められるよりも更に与えられた。無条件に与えられることの偉大さを知り、ましてやそれが常に与えられることの喜びを知ってしまったなら、誰が簡単に手放そうと考えるだろうか。

「ですから、私を信じてください」

 抱き寄せたなまえがたった一点、自分にだけ視線を預ける。追い縋る生者の目だ、失っても尚、人間は滅多に生きることを諦めない。なまえの生きる理由が自分であると実感する。そして、そうなり得た事実にこの身は打ち震える。他者を生かす理由とは、誰かの傲慢な生きる理由でもあるのだと思いもしないだろう。だが、考えてみても欲しい。何故、人は生きるのか。この世に産み落とされたから。生まれた世界で幸せに生きる為に。人として生まれた意味を知る為に。中には、死ぬ為に生まれたなどとのたまう者もいるだろう。しかし、こう思うのだ。そんなものは誰かの自己満足でしかなく、生きる理由を見つけることが出来なかった者の遺言なのだと。
 本来、生きる理由は誰も持ち得ていない。たとえ、十年、二十年生きたとて、未だに自身の心臓は収まるべき在り処を知らないでいるのではないか。だが、幸運なことに黒岩満はそれを見つけることが出来たのだ。みょうじなまえと言う女を媒介してこの世に生きる意味を見出す。なんて、皮肉なことだろう。女はただの媒介でしかなかった。しかし、最悪なことに黒岩は女を愛しているのだ。今まで一度も触れることのなかった、愛の形は不透明で歪なものだ。なまえはそれを強く信じて疑わないでいる。

 みょうじなまえは黒岩満の劣悪なほどに湾曲した愛の犠牲者なのである。なまえは二度と己の瞳で世界を見ることは出来ない。全て黒岩満を介して、この世の在り方を知るのだ。彼女の胸に心臓などと大切なものは既に存在しない。抜き取られてしまい、後には底知れぬ虚空だけが広がっている。核を失った人間が辿る末路などたかが知れているだろうに。



| 事実無根 |


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