金色が美しい木々や花々の襖。日に焼けていない薄黄緑が淡く映える畳。そして、あとはただただ持て余すほどの広さを有した一室で、薄灰色の着物を纏った女が器用に髪を結い上げて身軽な項を晒しながら、自身の夫を眺めていた。妻に注視されるも、肝心の夫は暗褐色の机に置かれた酒にすら手をつけずに、黙り込んでは何かを思案しているようだった。妻は夫のことを深く好いていたが、ここ最近では夫の関心が自身に向かないことを不満に思っていた。
「ねえ、」
「なんだ、」
「また難しい顔してるわ」
「あまりにも考えることが多くてな」
「それって私のことを放っておくくらいに大切なことなのね」
「……おい、拗ねてるのか?」
「別に、拗ねてなんか」
今まで夫を注視していた妻が顔をわざとらしく逸らしてみせれば、遂に夫は事の重大性を知り、小難しい表情のまま、自身の真向かいに座っていた妻の傍へ歩み寄る。ちらり、と自身を見やる妻のなまえに、夫である世良は不意に口元が緩んでいくのを感じた。口ではああ言っているが、本心はそこにはなく、妻の身なりに本心が上手く隠されていると知った。
たとえば、綺麗に結い上げた髪を留めている髪飾りはかつて世良がなまえに贈ったものだ。水引をモチーフにした、金のしなやかな曲線の髪飾りを妻は気に入っていた。次に挙げるならば、彼女が袖を通している着物も世良が以前に好みであると伝えたものだ。そして、彼女が巻いている帯は二人の婚礼の日に、世良がなまえに贈ったものである。つまりは。
「今日も綺麗じゃないか、」
「……私、あなたと顔を合わせて、もう三十分は一緒にいるのよ」
「本当に考え込んでいたんだ、故意じゃないことくらいは分かってくれるだろう?」
「だから、私のことなんてお気になさらないで」
仕方ないもの、勝さんは健気に待ち続ける妻より難解な問題のことで頭がいっぱいなんだから。……なまえ、これ以上思ってもないことを言うのは辛いだろう。もうここで手打ちにしないか。
手打ちだなんて、となまえは怪訝そうな顔で部屋を後にする。世良の言葉に納得がいかない部分があったのだろう、席を立ち、その場から去ろうとすれば、焦がれた声音で名を呼ばれる。なまえ、と呼んだ夫の声に足が止まる。このまま身勝手に部屋を出ていくつもりだったなまえからしてみれば、大きな誤算だった。まさか、この期に及んで人恋しい声を出すとは想像もしていなかった。
「どうしても行くのか」
「だって、こんな所にいたって、」
「俺は君の傍にいると、気が安らぐんだ」
「何を今更……、」
「確かに君のことを放ったらかしにしたことには間違いないが、」
この後もそのままだと思うのか?今、こんな話をしておいて。と世良は足止めを食らったなまえを見つめた。踏ん切りがつかないらしいなまえは二の句も継げずに世良の言葉を聞いていた。決めかねている実情がある、つまりはあと一押しで陥落してくれるかもしれない。
「ほら、こっちに」
胡座をかいた膝をとんとんと軽く叩き、なまえを誘う。赤い絨毯の上で夫が妻を待ちかねている。先程とは真逆の状況だった。だが、妻は険しい表情を崩さない。まだ何かが足りないようだと思考を巡らせれば、世良は再びなまえに呼びかける。
「もし、このまま君が行ってしまったら、」
「行ってしまったら……?」
敢えて続けず、一心になまえを見つめれば、根負けした妻が夫の膝にそっと腰を下ろしては、続きを強請る。
「私が行ってしまったら、勝さんはどうなるの」
「俺は、何も手につかなくなる」
狭い陰りの中で二人は視線を重ね合う。……嘘。嘘じゃないさ、今も君が部屋を出て行くと知って、何も手についてないだろう。そんなの、ただの思い付きよ。にしては、やけに嬉しそうに見えるが。ふふ、大目に見てあげてるの。と夫婦の会話が繰り広げられ、なまえも次第に上機嫌へと転向していく。本当に部屋を出て行きたかった訳ではない、こうしてなんてことの無い戯れに興じたかったのだ。一度、弁天屋を出てしまえば、世良は外の仕事に拘束される。ただでさえ、暗殺を請け負っているのだ、皮肉なことに多忙を極めているのが現状で、二人の時間など到底確保出来るものではない。それ故になまえは世良が拠点である弁天屋にいる間は極力、傍に居たかったのだ。
「もう少し、私に関心を持ってくれてもいいのに、」
膝に掛けるなまえの視線は世良より僅かに高く、憂い気な瞳が世良を見下ろしている。一つに結った髪がほつれて微かに揺れ、薄く乗せた赤の瞼、黒々とした睫毛に意識を奪われていた。初めて出会った頃と変わらない、少女のような愛らしい振る舞いが世良は好きだった。
「俺が風間さんに無理を言って紹介してもらったんだ。今だってなまえへの思いは変わらない」
なまえと世良の出会いには、風間新太郎が一枚噛んでいた。なまえは良家の出身でありながら、親元を離れたいという意志の強い娘だった。当時、みょうじ家と繋がりがあった風間によって、なまえは一人上京しては親の援助を必要としない自立した生活を送っていた。自分一人が生きられるだけの金を稼ぎ、昼夜問わず自由気ままに生きる姿に世良は惹かれ、風間を通じてなまえと出会ったのだ。金を稼ぐことしか出来ない極道であると自分を卑下する世良に、なまえもまた興味を引かれ、二人はやがて親しい仲へと発展していき、今に至る。
「風間さんから呼び出されたかと思えば、そこに勝さんがいるんだもの。本当にびっくりしちゃった」
するり、と世良の首元になまえは腕を回す。
「神室町で見た君の姿がどうにも忘れられなくてね」
臀部に音もなく添えられた世良の腕に、なまえは目を伏せる。
「あの時もそんなこと言ってた気がする」
唇を躊躇いがちな吐息が熱く濡らしていく。
「ところで、何を企んでいる?」
なまえの両腕が世良の首元に回されてすぐ、なまえは体全てを預けるように世良にのしかかった。ぐらり、と大きくよろめいては背中で床の固さを知る。夫は妻の真下におり、妻は夫の上で顔を綻ばせて笑っていた。何かあってはならないと臀部に回された腕が嬉しいのだと、なまえは口にする。滅多に触れ合うことのない大きな体に寄り添っていられることが嬉しいのだと、世良の胸元に頬を寄せる。やれやれと険しい表情が崩れ、その何処にも仕事が絡んでいないことが嬉しいのだと、胸いっぱいに喜びを噛み締める。
「あなたのことよ」
「それは嬉しい限りだが、こんなところを部下にでも見られたら示しがつかない」
「何もここで抱き合おうってわけじゃないわ」
「いや、俺がなまえに迫られているということが問題なんだ」
「どうして……?」
これじゃあ、俺がまるで不甲斐ないように見えてしまう。となまえの女体を横に転がし、世良は先駆けて上体を起こす。なまえもその後に柔肌をしならせて体を起こしては、これで一安心だわ。と笑った。女のくびれた体に、先程のお遊びでほつれてしまって下ろされた髪がこの胸を魅了する。場を弁えているものの、世良も男なのだ。愛する妻が女の顔で自身のことを見つめていたなら、応えてしまいたい欲望はある。それとなしになまえの頬に手の甲を添えて撫でれば、なまえはその手に自身のふっくらとした手のひらを重ねた。
「勝さんは迫ってくれないの?」
「なまえは迫られたいのか、」
「折角、二人きりだって言うのに」
「なら、どうしてほしい」
重ねた手を離さず、頬に置きっぱなしにしたなまえは、やっぱりこのままがいいと口にするのだから、夫からしたら気が気でない。欲しいと先に鳴いたのは妻ではないか。あれほどの戯れで満たされてしまう慎ましさが途端にいじらしく感じられた。俺は君に迫られれば、君のことしか考えられなくなると言うのに、冷たいもんだ。と添えていた手を外し、その代わりに後頭部へと滑らせては引き寄せる。触れるだけの口付けを交わし、世良はようやく満足した顔で初めに座っていた座椅子へと戻って行った。そして、今の今まで置き去りにしていた酒に手をつけると、余計に妻が欲しいと内心煽られてしまったのだ。
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