趙天佑と幼女



 柔らかな髪に櫛を入れて優しく梳いていく。指先に触れる彼女の髪はさらさらと流れ、淡い艶やかさに息を呑む。何度も何度も丁寧に絹を解いていけば、ようやく今日はどのような髪型にしようかと悩めるのだ。それは勿論、自身の髪型ではなく、自身よりいくつも年下の彼女、なまえの髪型についてだった。趙には奇妙な縁で面倒を見ている少女が一人いる。彼女は横浜流氓の先々代である総帥の隠し子だそうで、組織を抜けた趙に彼女の面倒を見て欲しいと話があった。先々代もなまえを組織から遠ざけたい意思があり、今回の騒動で横浜流氓はコミジュルの総帥であるソンヒに任されたことから、趙の元へその話が舞い込んできたのだ。

「なまえちゃん、今日はどんな感じにする?」
「あのね、今日はワンピースが着たくて、」
「ワンピースって、この間なまえちゃんに買ってあげたやつ?」
「うん、折角だから着たいなって」

 なまえの面倒を任されているということもあり、二人は生活を共にしていた。時々、なまえは両親の元へ戻ることもあるが、基本は異人町にある趙の住処で暮らしている。平日は近隣の学校に通い、休日は趙と自由気ままに過ごしている。何か食べたいものがあれば、その店まで足を運び、何かしたいことがあれば、その場所まで足を運び、何か見たいものがあれば、たとえ遠くとも現地まで足を運んで、と意外にも充実した日々を送っている。

「趙くんはどんな髪型なら似合うと思う?」
「俺?そうだなあ、」
「似合うと思った髪型にしてほしいな」
「じゃあ、任せといて。この街一番の美人さんにしてあげるからね」

 定番のポニーからサイド、無難なハーフアップもいいが、アレンジを利かせてお団子にしても良い。それとも、緩めに編み込んでヘアアクセで可愛く仕立てるのも良い。素材が良いと調理のしがいがあるよね。とこぼせば、分かりやすく言ってと返され、なまえちゃんが可愛いってこと。と添えるとなまえは満足気に笑う。無邪気に笑って頬がぷっくりと持ち上がる輪郭の愛おしさは唯一無二とも言えるだろう。なまえがやって来てから趙の生活は一変したが、それはそれで楽しくやっている。

「ねえ、趙くんはどんな人が好き?」
「どんな人が好きって、女の子の話?」

 うん、と頷くなまえからはどことなく緊張が感じられ、趙は一人思い悩む。彼女の為の回答をすべきか。それとも、自身の率直な回答にすべきか。綺麗な言葉を探して、選んで、並べ立てることは容易だった。だが、それは果たして彼女が望む答えの形なのだろうか。緊張を滲ませるほどの質問を投げ掛けた相手に対して、その場で取り繕った答えを出すなんてことは趙には出来なかった。なまえは真っ直ぐな心根の女の子だ。自身の出生や家庭環境の複雑さがあれど、清く正しく大切に育てられている女の子だ。

「そうだなぁ、素直な子かな」
「素直な子?」
「そう。嬉しい時には嬉しいって言えて、悲しい時には悲しいって言える子」
「それって普通のことじゃなくて?」
「なまえちゃんからしたら、そうかもね。でも、俺みたいに大人になるとそういうのが突然出来なくなっちゃうんだ」

 私情は隠匿に徹する。誰が決めたか分からない美徳が今の時代の大人の口を不条理に塞いでいる。誰もがそう望んだ訳ではない、だが、それこそが真の美徳だと信じて疑わない人間がいるのも事実だった。時として、そうせざるを得ない局面が訪れるが、それに慣れてしまっては何とも悲しいと考えていた。人として生まれ、心を宿され、喜怒哀楽と共に日々を生きる。つまり、それは素直であるべきだと告げられているような気がして。しかし、人は気付かぬ間に大人の仮面を着けられてしまう。何もかもを露呈するのは幼稚で未成熟な子どもであると一方的に押し付け、不完全な子どもに完全な大人になりなさいと無言の圧力をかけたところで、出来上がるのは理想と現実のギャップに苦しむ自分自身だ。

「だから、俺は自分に一番素直な女の子が好きかな」
「それって我儘とは違う?」
「人を困らせるのは我儘かもしれないけど、自分の為なら、それは素直なんじゃない?」
「そっか」
「なまえちゃんもいつまでも素直な女の子でいてね」
「うん。だって、そういう子が好きなんだもんね、趙くんは」

 毛先が僅かに揺れる。まるで持ち主の心を反映したかのように、朗らかに揺れ動く髪に指を通しては彼女の愛らしさが細部に宿っているのを実感する。いつまでも愛らしく健気で心の美しい子でありますようと、密かに指先に希望を纏わせながら、絹糸の髪を編んでいく。人の手を介す行いには全て祈りが込められている。心身が健やかであること、無事に家に帰ってこられること、今日が昨日よりも良い一日になること。祈りは人の数ほど存在するが、趙もまた祈りを織る一人だった。

「ねえ、なまえちゃんが好きな男の子ってどんな子?」
「す、すきな男の子……?わたしの?」
「いるんじゃないの、一人くらいはさ」
「そりゃあ、一人くらいは……、」
「知りたいなあ、なまえちゃんの好みのタイプ」
「えっと、その、」

 趙の問いに初めは動揺していたが、なまえは深呼吸の後、何かを決意したかのように好みのタイプを明かす。

「おしゃれで、かっこよくて、強くて、ご飯も美味しくて、私のことを大切に想ってくれる人」

 なまえが先程より僅かに小さな声量で好みのタイプを明かしてすぐに沈黙に包まれる。趙はなまえの話を聞いてから黙り込んでしまい、なまえも趙の反応を窺っていた。そして、少女の幼心はどうか否定してくれるなと必死に祈っている。趙は一つ深い溜め息をつくと、肩を落としていた。髪を編む手が止まり、趙の考えが読めないなまえもまた暗い感情に沈んでいく。

「もうそんなヤツがいるの?なまえちゃんの近くに、」
「……え?わ、私の近く?」
「なまえちゃんにそこまで言わせるんだから、同年代の中でもソイツ、かなり良い男だよ」
「趙くん、あ、あのね、」
「でも、俺そういう何でも器用に出来るヤツが一番信用ならないんだよねえ」

 何か裏がありそうじゃない?となまえの理想の恋人像に燃やしているのは敵対心か、はたまた単なる親心か。だとしても、なまえからしてみれば、全く違う話だった。何故、なまえが意を決して明かしたのか。何故、具体的とも取れる要素を挙げたのか。全く違う場所に着地してしまい、少女は内心慌てていた。違うけれど、はっきりと違うとは言えないもどかしさ。まるで手応えのなかったこの場でこれ以上、自分ばかりが不利になるのは耐えられない。

「そう、その人すっごくかっこいいんだ」
「そりゃあ、かなりだね」

 だけど、もし、と続けた趙になまえは再び驚愕する羽目になる。

「もし、ソイツが下手に手出してきたら教えてくんない?俺、ソイツと話したいからさ」
「……趙くんが?」
「うん。あ、もしかして、俺じゃ頼りないかな……?」
「ううん、そうじゃないけど、」

 合点がいっているのはなまえだけだ。ならば、どうやって張本人が自身を相手に出来ると言うのだろう。自然と笑みがこぼれ、より心の柔らかなところが温かくなっていく。すると、趙も釣られて小さく笑みをこぼし、再び髪は優しく編まれていく。

「ふふ。でも、絶対に無理だよ。だって、」
「だって?」
「その人ね、私のことすごく大切にしてくれるんだもん」
「へえ、妬けちゃうなあ」

 肩を揺らして笑う少女とその後ろ姿を温かく見守る男の、何よりも大切なひとときなのだ。いつかは自身の元を離れて一人立ちするだろう少女の明日を思えば、しんみりとしたがる気持ちがある。しかし、たった今現れた男が傍にいてやれると言うのなら、ほんの少しは安心しても良いのかもしれない。だが、もし仮になまえを泣かせることなどあったら、その時は良き兄として手ほどきをしてやらねばならない。お題目はこうだ、『美味しい饅頭の作り方』である。



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