ゾッとした、何かが足りない違和感に。まさか、そんな、と愛用の鞄を片手で漁る。闇雲に漁る指先は『それ』を見つけられず、不安に駆られたなまえは遂に鞄の中を覗き込んだ。再びゾッとした、気のせいではなく、本当に足りなかったのだ。
「…今日のお昼、どうしよう、」
なまえは期間限定で本日限り、無一文になってしまった。
確かに今朝は寝坊した。しかし、会社には間に合い、なまえもセーフだのラッキーだのと思っていたのだが、まさかこんな所でそのツケが来るとは。昼休みの時間はもう間もなく始まろうとしている、財布は忘れてしまったが幸いな事になまえはお昼をやり過ごす心当たりが一つだけある。それだけが救いだとなまえは残り数分間、悪い意味で胸を高鳴らせた。
昼休みが始まるのと同時になまえは会社を飛び出し、その心当たりのある場所へと向かう。本当ならばあまりお世話になってはいけない所ではあるのだが、状況が状況なだけに仕方ないのだ。なまえが目指す場所、それは天下一通りにあるスカイファイナンスという街金業者の元だった。
雑居ビルの裏、凹凸のある鉄板を靴を鳴らして登っていく。表の通りとは対照的に薄暗く、活気的でない路地裏は例え明るい時間帯であっても人で賑わうことは無い。陰るビルの背中には事務所の名前である看板が掲げられ、なまえはそこでようやく足を止める。一度きりの深呼吸を済ませ、目の前のドアノブに手をかけた。開いたドアの隙間から顔を覗かせる、事務員である彼女の姿も、社長である彼の姿も見つけられない。すみません、と声を掛けてみても何も返って来ない事から、今この事務所には誰もいないのだと知る。
「…どうしよう、」
一人呟く、本当に誰も居ないようで、なまえはドアの隙間から動く事が出来ずに無人の事務所を見つめている。その間にも頭の中では、この長い昼休みをどうやり過ごすかと思考し始めていた。一食分を抜かす、それは少食気味である成人女性にとっても辛いことである。現に今こうして人影を探してしまう気持ちの根本には、空腹と言った原因があり、自分のミスを密かに責めていた。
すると、ふとどこからか、何か困り事?珍しいね、なんて声も聞こえ始めてきて、これはいよいよまずい所に来てしまったと不安が大きくなっていく。仕方ない、諦めようとドアノブを引こうとした時、その声は不意に大きくなる。
「ちょ、ちょっと、待って…!」
ドアノブを握り締めた手に、誰かの大きな手が重なる。なまえは驚きに手を引っ込め、伸びた赤い腕を目で追っていくとそこには、なまえが探していた人物がいた。
「…あ、秋山さん!」
「もしかして、気付いてなかったの?」
ちゃんと声掛けたんだけどなぁ…、と苦笑している秋山になまえはすみません、と返した。
「それにしても、今日はどうしたの。俺が言うのも何だけど、こんな所、なまえちゃんが来るような場所じゃないよ、」
「あ、あの…!その事について、少しお話があります…!」
今、お時間大丈夫ですか…?と切迫した表情に秋山は勿論、とだけを返し、ドアノブに忘れられたままの手でスカイファイナンスのドアを開けた。
「それで、話って何かな、」
向かい合って座るソファー、なまえと秋山の間にはローテーブルと吸い殻の山が築かれた灰皿が置かれている。なまえは緊張した面持ちで秋山を見た、たまに背景のごった返しが気になって視線を逸らすことが多々あった。けれど、なまえは迫り来る空腹に終止符を打つべく、秋山にここへ来た訳を話し始めた。
「秋山さん、」
「うん、」
「私、今日、」
「うん、」
「…お財布忘れたんです、」
「あ〜、それはやっちゃったねぇ、」
返しが早い秋山は微かに笑っていて、しょんぼりとしていたなまえはその間延びした声に更にしょんぼりとする。どんどん酷くなっていくしょんぼり具合に秋山もへらへらとした笑いをやめ、一度咳払いをした後に、えっと、あのさ、と付け加えた。
「…もしかして、それでうちに来たの?」
「だ、ダメでしたか…?」
「いや、ダメじゃない、ダメじゃないよ。そっか、大変だったね、」
「秋山さん、お願いです…、」
どうかお昼代、私に貸してください…!となまえはしょんぼりした顔のまま、その場で頭を下げた。秋山は慌ててなまえに頭を上げるよう声を掛け、なまえは相変わらずブルーな表情で秋山を見ていた。
「まぁ、今回は融資って言うより人助けみたいな所があるけど、なまえちゃんだけ特別扱いってのは出来ないから、」
「テストですね、」
「ごめんね、こればっかりはどうにも、ね。」
「いえ、よろしくお願いします。」
よし、そうこなくっちゃ、と秋山は張り切った様子でなまえに課すテスト内容について話し始める。
「今から俺がいくつか質問するから、なまえちゃんはその質問に答えること。これでいいかな?」
「はい。あ、でも、変な質問は…、」
「なるべくはしないつもりだけど、そう言われるとしたくなっちゃうなぁ、」
秋山のその一言に困惑の色を見せたなまえに、そんなに緊張しないで、なまえちゃんが嫌がる質問なんてしないよ、と笑う秋山から余裕さが漂う。当然だ、貸す側と借りる側、その立場は天と地ほどに違う。なまえがもう一度だけ、よろしくお願いしますと告げるのと同時に秋山のテストが始まった。
「なまえちゃんは好き嫌いとかある?食べ物で、」
「いいえ、あまり。なので、大体のものは美味しく食べられると思います。」
「そう。じゃあさ、好きな食べ物は?」
「好きな食べ物は…、なんでしょう。魚や野菜、お肉にパン、お米、麺…なんでも美味しいから好きです。…ってこんな答えでいいんでしょうか?」
「大丈夫、なまえちゃんらしい答えだと思うよ。じゃあ次、行ってみたいお店は?」
「お店、お店…。この間見かけた、丼物のご飯屋さんに行ってみたいですね。」
「そこ人気のお店だったりする?今丁度お昼時じゃない。」
「…多分、大丈夫だと思います。ちょっと変わった場所にあるので。」
「そっか、じゃあこれで質問はおしまい。」
ちゃんと全部答えられたみたいだね、と口にする秋山に緊張の眼差しを向ける。なまえの不安そうな瞳に秋山は敢えて自分の視線を合わせに行った。質問の時とは違い、真面目な顔でこちらを見つめる秋山になまえは高鳴る鼓動を確認する。質問には全部答えられた、けれど、判断を下すのは彼なのだ。不安と高鳴る鼓動、部屋の静かな雰囲気になまえは煽られていた。
「なまえちゃん、」
「はい、」
「行こっか。」
え?と一人驚くなまえを置いて、秋山は先程の真面目な顔が嘘のだったかのようにまた柔らかな表情を作り、ソファーを立った。
「あの…!テストの結果って教えて貰えないんでしょうか…?」
未だソファーに座ったままのなまえは秋山を見上げ、テストの合否結果を待っている。ああ、それね、と気怠い足取りでなまえの隣に腰掛けると、どっちだと思う?と問い掛けた。更に頭が混乱する、出来れば合格であって欲しいけれど、もしもの事だって有り得る。答えを見つけられないなまえに、秋山はにやにやと口元を緩め、じっとその困惑する顔を眺めているようだった。
「分かんなくて困ってるでしょ。なまえちゃん、さっきからずっと困った顔してる。」
「教えてくれませんか…?」
「いいよ、教えてあげても。」
ほら、耳貸して、と言われ、なまえは素直に耳を傾けた。すると、秋山はまず左手をなまえの耳元に寄せ、次に顔を近付けて呟いた。その二人の姿勢はまるで内緒話をしているよう。
「なまえちゃんのこと、今から食事に誘いたいってのが俺の答え。」
これでもう分かるでしょ、流石のなまえちゃんでも。その秋山の言葉に、なまえの頭の中は一瞬にして雑多な声で溢れかえる。ここにはお昼代を借りに来たはず、それなのにどうして今、秋山に食事に誘われているのか、そもそもこれがテストの結果発表であって、つまり、どういうことだろうか。
「……聞いてる?なまえちゃん、おーい。」
「あっ、あの、秋山さん…!」
「今日のお昼は俺の奢りにしとくから、次はなまえちゃんが奢ってくれる?」
「…はい、勿論!絶対に奢らせていただきます…!」
「じゃあ、行こうか。お腹減ったでしょ。」
確か、そのお店って変わった所にあるんだっけ、と口にした秋山の差し出された優しさにようやく全てを理解する。混乱していた頭も落ち着きを取り戻し始め、先に立ち上がった秋山に続いてなまえも遅れて立ち上がる。いつの間にか事務所入口に立つ秋山に駆け寄り、二人はスカイファイナンスを後にした。
二人の去った事務所には開けっ放しにされた窓から温かな風が入り込み、誰もいない空間でゆったりと漂っている。
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