鼻と鼻の先がぶつかりそうな、意図して息を止めてしまいそうな距離感に彼女の瞳があった。日々、散々満たされているだろう艶やかなリップを乗せた唇が正面の乾いた唇を奪っている。口付けの最中に目が合ったのだ。気まずさよりも、彼女が人並みに持ち合わた欲を満たしている表情に心さえも奪われていた。体の何処にも回せずにいた腕で絡めとってしまいたいほどに夢心地の瞬間に、溺れてしまいそうだった。深く、引き寄せようと意を決して彼女の背中に腕を回そうとすれば、

「ねえ、もしかして、あなた、」

 ジュンギさんじゃ、ない……?
 腕を回すよりも早く、口付けが解けてしまい、挙げ句の果てにはだらしのない姿を見られる始末。ふわふわとした雰囲気を漂わせている彼女の問いに、男は何も言えないでいた。鼓動ばかりが早くなっていくくせに、この状況を打破する方法が思い付かないのだから、駄目なのだろう。

「んん、でも、」

 女は長く柔らかにしなる髪を垂れたままにし、男の顔や体に触れる。手のひらで、細い指先で、鼻の先で、ハン・ジュンギという男を探していた。ふわりと漂う嫌味のない、仄かな甘い匂いに体が熱くなる。この顔は意中の男と全く同じ造りをしており、彼女が鼻先で確かめている匂いも男と同じ香水を使っている。半信半疑で見つめる瞳に、この時ほど強くハン・ジュンギでありたいと願ったことはない。

「私は私ですよ、なまえ。今日は随分とおかしなことを言ってくれる」

 彼をなぞらえた言葉を似た声音で話せば、彼女は、なまえは頷いて見せる。その仕草ですら、底なしの愛おしさが込み上げるほどに女は可憐だった。端的に言うなれば、夜の街には似合わない純朴な女性だった。神室町とは無縁と言ってもおかしくはないような相手が、ハン・ジュンギの女なのである。そんな女と今夜は神室町某所のホテルに滞在していた。

「そっか、ごめんなさい」
「いえ、構いませんよ」

 既に夕食を済ませ、後は気ままに部屋で寛いでいたのだが、薄着でベッドに転がったなまえに求められるがまま、ハン・ジュンギを名乗る男が彼女の要求に応じていた。彼女からしてみれば、自身は愛おしい恋人そのもので、その何処にも疑いはなく。恋人の逢瀬、ベッド上での戯れ、そして冒頭の触れ合いに至る。だが、彼女はほんの少しの違和感を覚えた。それは恋人であるハン・ジュンギに。
 なまえの要求に応じている男はハン・ジュンギではない。外見は本物と寸分違わないのだが、中身がまるで別人だった。名はキム・ヨンス、ジングォン派の頭目であるハン・ジュンギの為に顔を造り変えられた影の存在だ。真の影武者となる為、ハン・ジュンギの傍に着いては日々、彼となり得る為の経験を積んでいる。それは恋人であるなまえとの関係も例外ではない。

「ねえ、ジュンギさん」

 彼女は何も知らない。今、この場で対面している相手がハン・ジュンギ本人ではなく、影武者であることを知らないでいるのだ。本音を言えば、あまり良い気分ではなかった。ハン・ジュンギの影武者としての心構えは出来ていたものの、恋人であるなまえを騙すことには未だ抵抗があった。仕方ないとは分かっていても、自身を恋人であると錯覚している彼女の無垢を汚しているようで胸が痛む。

「いつもの、してあげよっか」

 抗いようのない言葉に誘われて、ヨンスは彼女の太腿に頬を寄せる。初めに抱いた感想は意外だった、あのハン・ジュンギが人知れず恋人にこのようにして甘える時があるのだと知らなかったのだ。なまえの柔らかな肌はほんのりとした温かさがあり、離れがたさに襲われる。腹部からなぞるように視線を上へと這わせると、胸元の肉付きの良さが目立って途端に視線を切った。黒と褐色の混ざった髪の束が、さらり、とこぼれる。そして、先程まで本物かを探っていた手のひらでヨンスの髪を撫でていた。恋人と同じシルバーアッシュを絡ませ、なまえは深くその空間に息衝く。ヨンスは時に胸を詰まらせながら、その愛撫を受け入れている。

「ふふ、可愛いね」
「か、可愛いなどと、」

 自身とそう変わらない彼女の母性に甘えていた。今なら、そうすることが許されているような感覚になったのだ。まるで兄のようであるハン・ジュンギの皮を被った自身が、兄の恋人であるなまえに肌を寄せて触れ合っている。心地よい高揚感に背徳感や罪悪感も触発され、不道徳感すら覚えている。しかし、自ら誘惑を断ち切れるほど、出来た人間ではなかった。兄ならば、彼女の誘いも断れるのだろうか。ここまで嬉しそうにしてくれるなまえを相手にしながら。

「このあとはどうしようか、」

 彼女の声が甘く鼓膜を揺する。もう少しを強請ろうと口を開けば、なまえは一瞬驚いた顔を見せたが、うん、いいよ。と優しく囁いた。時間感覚すら分からなくなっていた。あとどれくらいこの密着が続けられるのか、あとどれくらいで朝を迎えてしまうのか。あとどれくらいしたならば、自身の理性が兄の仮面を外してしまうのか。人知れず切なさに唇に歯を立てると、人肌の温かさを纏った指先がこの唇をなぞった。悩ましいため息を小さく千切って吐き出せば、背筋が小さく震えた。

「二人は何をしているのです?」

 心臓が凍りつく感覚、脈に流し込まれた毒が理性を蝕んでいく感覚にヨンスは目を見開いていた。その顔には動揺が色濃く滲んでおり、咄嗟に体を起こして声のした方へ顔を向けると、そこにはもう一人のハン・ジュンギが立っていた。この部屋の入口に佇む男こそが本物のハン・ジュンギだった。ヨンスが彼女の前で成り代わろうとしていた男、そのものだった。神経や血管の一本一本が凍結していく。体も上手く動かせず、呼吸もまともに出来やしない。今頃顔を覗かせた責任感がなまえを見た。しかし、彼女からは怒りや驚きと言った感情が読み取れなかった。先程と変わらない穏やかな顔でヨンスを見ていたのだ。

「随分と可愛がってもらったようだ、」

 ハン・ジュンギはヨンス達が寝転がっていたベッドの縁に腰掛けると、怒りを露わにするどころか、寧ろ喜ばしい顔で二人を交互に見た。なまえと視線を重ねては、示し合わせたかのように笑い出す。この場でついていけていないのは、キム・ヨンスだけだった。

「あなた、ヨンスくんでしょう」
「ど、どうしてそれを、」
「私ね、ジュンギさんに膝枕してあげたことないの」
「でも、先程はいつものって」
「ごめんね、確かめたかったの。本当にジュンギさんなのかどうか」
「なまえの方が一枚上手だったようですね、ヨンス」

 でも、本当にジュンギさんが甘えてきてくれてるようで嬉しかったなあ。と笑うなまえは薄らと頬を赤らめている。その姿に猛烈に羞恥が込み上げ、ヨンスは俯いてばかりいた。それを茶化すようにハンは、羨ましい限りだ。中々、私には許してもらえないのでね。とヨンスの背中を軽く叩く。

「なまえさんを誑かしたとして、罰はないのですか」
「その必要はない。元々、彼女には私から話をしてあった。私そっくりの弟が出来た、と」
「まさか、ここまでそっくりだと思わなかった。でも、ジュンギさんより可愛いからヨンスくんでも良いなあって」
「なまえ、私を前にして言う言葉ではありませんよ」
「やきもち焼いてくれるんです?ジュンギさん、」

 あくまでも、キム・ヨンスはハン・ジュンギたりえる存在なのだと、ハンは口にする。つまり、時にはなまえの存在がヨンスをハン・ジュンギたらしめるのだと。そして、意外なことにハンはなまえとヨンスとの三角関係に寛容である姿勢を示し、なまえもまたそれに同意していたと明かす。

「ふふ、わたしの方が一応お姉さんだからね、」
「つまり、それはどういう……、」
「いつでも甘えてきてくれて良いよってこと」

 なまえの言葉に自身が見事に心を奪われていた瞬間を思い出し、ヨンスはすかさず目を伏せ、顔を背けた。顔全体に熱を帯びていく感覚に、見せる顔がないと情けない気持ちになっていたのだ。しかし、その間に火の入り過ぎた感情に抗うことなく、ハンはなまえの唇を奪う。彼女の細指の全てを自身の手のひらに収め、自身が与えられなかった分を今になって欲張る兄と恋人の姿に、弟は劣情を覚える。そして、同時にこうも思うのだ。
 何故、ハン・ジュンギが自身とみょうじなまえの三角関係に寛容でいられたのか。足りないところはあれど、いくら欠けていようと、兄はキム・ヨンスをハン・ジュンギとして見てくれているのだろう。姉である彼女も自身を愛でてくれている。その事実がむず痒く、分不相応で、しかし、喜ばしく感じる心もある。掠れた声で兄と姉の名を呼べば、二人の視線が弟へと向き、再び誘われていく。



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