「アンタが決めたらええ、」
目の前に差し出された首は三つ並んでいる。一人は友人の男、一人は顔も知らない男、そして、最後の一人もまた見ず知らずの男だった。彼らは蒼天堀にある廃墟の一室に集められ、麻縄で縛り上げられて体の自由を奪われていた。顔面は激しい暴行に遭ったのか、痣や出血が見られ、顔全体が痛々しく腫れていた。何があったのかは考える余裕がなかった。状況としては一人の女がヤクザに決断を委ねられている真っ最中なのだから。
「生かすも殺すもアンタ次第や」
「こ、殺すだなんて、」
「ほんなら、生かしたったええ。その代わり、アンタが生かそ思ても、ウチでコイツらにケジメつけさせますわ」
絶句していた。自身の置かれた状況にも、ヤクザの言い分にもだ。女としては、一刻も早くここから立ち去りたかった。しかし、自身の一言で目の前の男達の命が無くなると知って、どうすれば良いのか。成し遂げたい復讐があるのなら、ここまで余計なことを考えずに済んだだろう。だが、この女にはそのような怨恨はない。
「……どうしても、私が決めなきゃいけませんか」
「ワシに任す言うのも手ですわ。任せる言うんやったら、今日はもう終いや」
「この人達はどうなるんですか、」
「それを知ってアンタに何の得が?」
決して、対等な立場にいる訳ではないと、言葉をもって、態度をもって、知らしめられた。ここに居合わせたのは偶然に他ならない。だが、自惚れてくれるな、と喉元に刃物を突き付けられているのだ。金髪の大柄なヤクザは傷だらけの顔で女をじっと見つめている。何かを窺うような、じっと見入る瞳に女は口を噤む。
このヤクザとの出会いは数時間前にまで遡る。友人である男と女、なまえは共に蒼天堀の夜を過ごしていた。ただの友人関係であった男とはそれなりに良い関係を築いていたように思う。しかし、男は自身に良からぬ儲け話を持ち掛けた。端的に言えば、体を張る仕事であると。その話が始まってからは友人の男がいかに今困っていて、誰にも頼れないかを語っていた。
全てを聞くまでもなく、友人の誘いを断ろうとした。すると、友人の知り合いと思われる男達がなまえの前に現れたのだ。三対一、あまりにも卑怯な構図である。男達はなまえを無理矢理連れて、とある場所へ連れ去ろうとしていたのだが、その時にロングコートを着たヤクザと出会した。口元の裂傷の跡が物騒に見えるヤクザは、なまえが連れ去られようとした場面を目撃し、何をしたかと言うと。
まずは力で男三人をのして見せた。次に、男達の顔を確認しては懐から携帯を取り出して何処かに連絡を取っていた。そして、なまえの無事をざっと確認すると、場所を変えなあかん。となまえに告げた。なまえからすれば、相手がヤクザであっても自身を助けてくれた恩人に変わりない。ヤクザに言われるがまま、遅れて到着した車に乗り、この場所にいる。
「ヤクザはボランティアちゃいます。カタギの為に言うて体張る奴なんぞ、おらんのですわ」
「そんなつもりじゃ、」
「せやから、阿呆な勘違いせんとってください」
「勘違いなんてしてません。でも、じゃあどうして、助けてくれたんですか」
ヤクザの男曰く、最近蒼天堀では女を使った悪質なビジネスが横行しているのだそうだ。特に二十代から三十代までを標的としており、彼らのような存在はヤクザからしても目障りな存在だったのだと言う。ヤクザのシマで好き勝手にされては面子丸つぶれ。しかも、勝手に始めたビジネスで荒稼ぎをしているのなら尚のこと。そして、何よりもこのヤクザの癪に障ったのは、若い女を食い物にしている実態だった。
今までも彼らのような半グレ紛いなことをしていた人間はいたが、皆揃いも揃って非力で腕の一つも立たない、みっともない相手ばかりだった。自分が仕出かしたことの責任もケジメも取れず、しかし、自分の命だけは惜しいと平気で口にする。お前達が食い物にしていた女達も同様に助けを乞うていたのではないか。そこまで詰めると、いよいよ何も話せなくなる。その醜態が余計に苛立つのだと、全員に等しくケジメをつけさせてきた。
「ガキにケジメつけさせるんもワシらの仕事や」
甘い汁吸うだけ吸うて、ほなさよならなんぞ、ヤクザには通用せえへんっちゅうことです。
遂になまえは金髪のヤクザの言い分に口を挟めなくなってしまった。事件に巻き込まれそうになった当事者であるものの、これ以上、首を突っ込んでいい話ではないと分かったからだ。今になって震え出した体を庇うように喉から声を絞り出す。この三人についてはあなたに任せる、と。なまえの答えを聞いたヤクザは、表情を全く変えることなく再び携帯で誰かを呼び付けた。
組の人間がこの一室に到着するまでの間、男たちは啜り泣いては何度も攻撃的な言葉をなまえに吐き付けた。あまりにも見ていられない姿にヤクザは一人一人を黙り込むまで足蹴にしていた。なまえはすぐにでも逃げ出せば良かったが、何故だかこの男達の末路を見届けるまでこの場に居たいと思うようになっていた。ヤクザによる暴行は続き、三人は虫の息に達していた。あくまでも簡単には殺さないという明確な意思が感じられ、なまえは震えの止まない手を一人握り締める。
「安心せえ、コイツらは二度と外の空気吸えんようにしといたる」
「……ありがとうございます」
もう限界だった。なまえは掠れた声でヤクザの男に礼を告げると、その場に座り込み、粗末な呼吸を繰り返していた。一時的に過剰なストレスに晒されたことの弊害になまえは呼吸が荒くなっていくのを感じていた。一寸先を考えただけでも恐ろしい事件に巻き込まれるところだったのだ、なまえが極度のストレス状態に陥っても何らおかしくはない。ただ懸命に呼吸を繰り返す姿に、ヤクザの男はその場に到着した構成員に三人を任せると単身でここに残り、なまえの傍で身を屈めた。
「……もう大丈夫や、ここにアイツらは居らん」
誰かを酷く痛めつけた手が、この時ばかりは温かなものだと都合よく錯覚していた。大きなその手がなまえの背に触れ、過度に摩耗し、疲弊した華奢な体を労わるように上下する。
「アンタが落ち着くまではここに残ったる。せやから、どない時間がかかってもええ」
こくり、と大きく頷けば、今まで恐ろしいと感じていたヤクザの雰囲気が変わったように思えた。強ばっていた表情が僅かに和らぎ、穏やかに自身を見据えている。口元の傷は何度見ても恐ろしいものだが、次第にその傷跡の痛々しさに共鳴するように胸が痛み出す。知り得ない過去を、知り得ない事情を勝手に悲しんでいるのだ。この男に望まれた訳ではないのに。
それからしばしの時間が過ぎ、なまえの体はヤクザが羽織っていたロングコートを纏っており、時間が経ったことで落ち着きを取り戻し、荒い呼吸も普段と変わらない状態まで戻っていた。だが、体を必死に休めている間、なまえは一つの疑問を払拭出来ずにいた。あの時、この男はこの街に蔓延る悪質なビジネスが許せないのだと言っていたが、いまいち腑に落ちないのだ。突き放すような態度を取っておきながら、今もこうして寄り添ってくれているのは、他に真意があるからなのではないかと、見当違いな疑問が喉を超えて出て行きたいと胸の内側を叩いている。
「あの、私、もう大丈夫ですから、」
「そうでっか、」
「……ありがとうございました、傍にいてくれて」
「余計なお節介やなかったんは幸いでしたわ」
「あなたが居てくれなかったら、どうなっていたか」
「ワシはそない大層なモンやない」
具合の良くなったなまえの手を取り、二人は立ち上がると陰鬱な廃墟を後にした。建物の外に待機させておいたタクシーになまえを乗せ、ヤクザの男は裏手からやって来た車に乗り込むと、街に漂う闇の中へと消えていった。人目を避けるような道の先には、男達三人の行方が決められている。誰も何も発しない車内でヤクザの男、郷田龍司は自身が助けた女のことを考えていた。
『勘違いなんてしてません。でも、じゃあどうして、助けてくれたんですか』
あの場では建前しか口にすることが出来なかった。確かにその場で口にした言い分も間違いではないのだが、龍司がなまえを気に掛けていたのにはもう一つ理由があった。所謂、他人の空似というものだった。あの名も知らぬ女、みょうじなまえは母親の面影を宿す女だったのだ。龍司が胸に秘めていたのは幼い頃の記憶だ、尽きることのない幸せだった束の間に生きる健在だった母の姿。ありがとうと自身に微笑みかける時の、表情の機微がよく似ていた。
ある日、母は姿を晦ました。恐らく二度と会うことはないのだろうと幼心に悟っていたが、彼女を助けることは、まるで幼き日々の母を助けることと同意義であると思えた。奪うばかりの手のひらで、ただただ自己満足の為に彼女を助けた。かつての幼き日の自分へ、今夜の出来事を捧げる。もう明日からは極道として生きる覚悟を今一度決めて。
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